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てのん講座

「戦争を知る」 戦時中、中国の南京で暮らした伊藤さんの思い出 part1


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終戦から78年目の夏を迎えています。大陸に渡った父親の仕事の関係で、幼いころ南京で暮らしていた伊藤達郎さん(86)から、私たちてのんにご連絡をいただきました。戦中戦後の南京での暮らし、体験などをお伝えしたいというものでした。南京といえば1937年、日本軍が激しい戦闘の上、中国軍を追撃し陥落させた所です。70歳の頃に手記も書かれており、その手記を抜粋して紹介しながら、南京陥落後、民間の日本人がどのような日常を送っていたのか2回にわたりお伝えします。

ご連絡いただいた伊藤達郎さん

今回、てのんにご連絡してくださったのは、神奈川県海老名市にお住いの伊藤達郎さん(86)です。昭和15年、3歳の時に父親の働く南京へ家族と一緒にわたりました。そして、昭和19年、南京国民学校に入学。終戦後は拘留生活を経験された後、昭和21年初頭、中国の黄浦江から引き上げ船に乗って日本に戻ってきました。3歳から8歳までの5年半を南京で過ごされています。

伊藤達郎さん伊藤達郎さん

てのんにご連絡してくださった理由として、私たちが戦争体験者の話を記事として紹介し続けていること。そして、1937年に勃発した南京事件については膨大な情報があるけれども、その後の南京の戦時中の様子や、戦後の引き上げについては情報が少ないので、実際戦中戦後を南京で暮らした一人として、その記憶をお伝えしたいということからでした。
伊藤さんは、消えかかる記憶をなんとか記録にとどめておきたいと、70歳の時に「南京の思い出」という手記をまとめています。(筆者名は市川達郎とありますが、その後養子になられ、現在は伊藤達郎さんになっています。)

伊藤さんが書かれた手記「南京の想い出」伊藤さんが書かれた手記「南京の想い出」
伊藤さんが書かれた手記「南京の想い出」

幼いころの事なので、断片的で記憶違いや不確かな部分もあるかもしれないということですが、ご自分でいろいろ資料を読んだりして正確な記述に心掛けたそうです。この手記の中から南京での暮らしを抜粋してお伝えしたいと思います。

南京といえば城壁

開戦前の南京城地図(南京の想い出より)開戦前の南京城地図(南京の想い出より)
黒く囲んであるのが城壁(城壁がわかりやすいように黒く塗っています)黒く囲んであるのが城壁(城壁がわかりやすいように黒く塗っています)

南京の城壁は、明王朝時代の1366年から21年にわたり、南京城を囲んで建てられたものです。全長はおよそ34㎞、高さは14~21mもあり、その城壁で囲まれた面積は約40㎢で、神奈川県の鎌倉市と同じくらいの面積です。多くのクリークで囲まれていて、城内へは16~17か所(当時)の城門を通らなければ侵入は難しく、この城壁のため外敵の侵入を阻止できました。この城壁の内側に居住者のほとんどが暮らしていました。

私たち家族は、1度引越しをしましたが2軒とも城門の一つである興中門(旧 儀鳳門)の近くに住んでいました。2軒目の住所は中華民国南京特別市興中門北祖師巷55号と覚えています。興中門は小さい門だったため日本軍侵攻前に土や石で塞がれていたらしいですが、その後掘り起こされ、私たちが暮らしている頃は生活の中で使われていました。

伊藤さんが当時のころを思い出して書いた自宅周辺の略図伊藤さんが当時のころを思い出して書いた自宅周辺の略図
興中門の通りに面して、鉄条網で囲まれた日本軍の兵舎がある興中門の通りに面して、鉄条網で囲まれた日本軍の兵舎がある

日常は比較的平穏な暮らしがありました

父は軍属として中国大陸に渡って華中鉄道の技師として働いており、その関係で、私が3歳のころ母に連れられて弟とともに中国にわたりました。その後、南京で妹2人が生まれました。

戦時中は一般人の写真機の所持は禁止されていましたが、知り合った海軍の松木さんという方が、部隊の撮影班を連れてきてくださり、南京で撮った写真が残っています。

軍刀を持って写真に写る 父の幸雄さん軍刀を持って写真に写る 父の幸雄さん
5歳の伊藤さん (人形を持たされるのが恥ずかしかったのを今でも覚えているそうです)5歳の伊藤さん
 (人形を持たされるのが恥ずかしかったのを今でも覚えているそうです)
海軍の松木さんと膝に座る伊藤さん、隣は母の正さんと弟の武さん海軍の松木さんと膝に座る伊藤さん、隣は母の正さんと弟の武さん

住んでいた家は、水道も電気も来ていましたが、庭はなく小さな部屋が幾つもある土壁の平屋でした。私と弟は土の床に鉄パイプ製のベッドで寝ていました。2人の中国人のおばさんをお手伝いさん(佣人)として雇い、炊事や生まれたばかりの妹のお世話などをしてもらっていました。家には細長い炊事場があって、土間には複数のかまどがおいてあり、佣人たちが藁を炊いて南京米でお粥を作っていました。火が消えて暫くしてからまた藁を追加する、何度も繰り返して半日かけて炊き上げます。その出来上がったお粥に砂糖をかけて食べた覚えがあります。
佣人のおばさんたちは、時々その友人たちと食卓を囲んで何かゲームを楽しんでいたりしました。使用人といっても、父母が厳しく酷使するということはなかったように思います。

では、私たち子どもはどんな日常を送っていたのでしょうか?

昭和13年(1938年)春に撮影された南京城壁昭和13年(1938年)春に撮影された南京城壁

城壁の周りは子供たちの格好の遊び場でした。北部の城壁は日本軍の砲撃を免れて保存状態が良く、崩れたり破壊されたりしていませんでした。天井は幅2mくらいの通路になっていて、天井から下の地面まではほぼ垂直で10m以上はありました。壁には1.5m置き位に約50cm幅の銃眼のような凹型が規則正しく並んでいて、この壁の上を走って凹型を飛び越えていく遊びは爽快でした。揚子江を眼下に見て景色は素晴らしい。高所の恐怖心は全くありませんでした。ある時、弟が、この壁から転落しましたが、城壁から横に生えていた木に引っかかって助かり、九死に一生を得ました。

家族で、南京城内の映画館に漫画映画「孫悟空」を見に行ったことがあります。映画館はかなり大きくてきれいな建物でした。映画の音声は日本語で、スリル満点の面白い白黒映画だったと記憶しています。
また、南京城の外にあった下関にも、家族で行きました。下関は南京第一の繁華街で、そこで、家族で食事をしました。
南京で食べたものは、大餅ピータン(小麦粉をごま油で練って薄くしたものを何層にも重ねて成型し、鉄製の平底鍋で焼き上げたもの)、小餅シャオピン(小麦粉を練って焼くパンの一種)、コーパーと呼ばれる「おこげ」など。また、トーフールーという豆腐を豚の血や酒、塩、香辛料などと甕に漬け込み、1年以上寝かしたものも食べました。塩辛いでしたが、珍味で、父の高粱酒(コウリャンチュウ)での晩酌のつまみやご飯のおかずにもなりました。
今、考えると比較的食べ物は豊富で、飢えてお腹がすくという事はなかったように思います。

私たちの家の近くにあった興中門は最北の門で、東の小東門までは400m位の距離で、幅約4mほどのでこぼこした石で舗装された道路で一直線に繋がっていました。道路の北側は鉄条網で仕切られた日本陸軍の兵舎がありました。その北側は獅子山と呼ばれる小高い山で、更にその北側の城壁の外はクリークで、軍事基地としては敵の侵入を阻止するのに最適な場所でした。家から近かったので母に連れられて兵隊さんの陣中見舞いにたびたび出かけました。兵隊さんは子供たちを大変可愛がってくれて、私と弟は歩哨のいる入り口をフリーパスでした。兵舎はいつも独特の兵隊さんの臭いがしました。銃や銃剣にも触らせてくれました。歩兵銃を持ち上げてみましたがすごく重くて、子供の腕力ではとても構えることはできませんでした。

南京城壁外のクリーク(昭和13年撮影)南京城壁外のクリーク
(昭和13年撮影)

南京第二国民学校に入学、軍事教育、軍事訓練の日々

昭和19年4月1日、南京第二国民学校1年生になりました。学校までは南へ約4㎞の距離だったらしいです。1時間以上かけて徒歩で通いました。坊ちゃん刈りの頭に金ぴかの校章がついた学帽と三つボタンの上着と半ズボンに黒い革靴でした。毎朝、教室のある棟とは別にある奉安殿と呼ばれる小さな建物の前に整列し、軍刀を携えた教育担当の陸軍将校の隣で、先生が教育勅語を拝読し、それを拝聴してから授業がはじまりました。

(大東亜共栄圏の構想)
共栄圏は子供の私が最初に教えられた戦争(聖戦)をしなければならない理由でした。列強欧米の侵略を防ぐために、亜細亜の同胞が日本を軸に協力して理想郷を作るためでした。当時の世界地図を見ると、北は樺太の半分以南と北方4島他、南は台湾まで、朝鮮半島および南太平洋諸島を含めた広大な地域が我が国の領土として、真っ赤な色で表示され、支那大陸は属国として黄色、満州は準領土として橙色になっていました。子供でも胸躍らされる地図でした。

そして、授業では、お国のため、天皇陛下への報恩を繰り返し教え込まれました。
日露戦争時、敵の魚雷を受けて沈みゆく船の中で、部下の杉野兵曹長がいないのに気づき、救命ボートにすぐに乗り移ろうとせず、船内を3度も捜索した廣瀬中佐の話。
また、日清戦争時、ラッパ手として、死んでもラッパを離さなかった木口小平の話。修身の教科書には「キグチコヘイ ハ テキ ノ タマ ニ アタリマシタ ガ シンデモ ラッパ ヲ クチ カラ ハナシマセン デシタ」と書かれていました。
そんな毎日が続くと、小さいながらも自分も少国民として、お国のために滅私奉公するのが当然だと思えてきました。

給食もあり、食べる前に唱和する言葉は未だに忘れられません。
「天皇陛下のご恩に感謝し、よく噛んでいただき、お国に役立つ強い体となります。いただきます!」

当時、4年生からは軍事訓練が行われていました。木製の銃で銃剣術の訓練をしている上級生がとても頼もしく感じました。本土決戦が伝えられると、2年生の私たちでも竹槍の訓練が行われました。かなりしんどい訓練でしたが、お国のためにと懸命に頑張りました。
上級生が行っている手りゅう弾の投てき訓練を見ました。30cmほどの長さの木製模擬弾を使い、直前に安全ピンを口で抜くしぐさをしてから端部を地面に叩きつけてから投げていました。時限爆弾装置を起動させるためでした。2発持って1発は敵に投げつけて、残りは自爆するためという壮烈な訓練でした。自分も投げてみましたが、かなり重くてわずか3mくらいにしか届かない。これでは1投目で自分が先に死ぬと思いました。でもお国のために死ぬのは少しも怖くありませんでした。

中国の子供たちとの関わり

幼いころから遊び相手は圧倒的に多い中国の子供たちでした。南京に来てから4年も経つと会話も喧嘩も中国語でした。
ある時、中国の子供数人を相手にけがをさせるほどの喧嘩をして、意気揚々とわが家へ凱旋したら、情報が先回りしていて、いきなり父にねじ伏せられて「よくも支那人をいじめたな」と怒鳴られ、鉄の火箸2本で激しく何度も頭を叩かれました。
長く大陸で暮らしていた父の口癖は「支那人も同じ人間だ」でした。その頃の多くの日本人の考えは、支那は敗戦国であり、支那人は日本人より下等な人間だというものでした。父はそれと正反対の考えを持っていて、このとき改めて「支那人も同じ人間」との口癖を文字通り体と心に深く刻み込みました。
家の近くにぱらぱらと駄菓子屋や雑貨屋、食料品店などがあり、父のお酒や豆腐などを買いにやらされていました。駄菓子屋でも中国の子供たちを集めて欲しいものを手に入れて一緒に食べました。それで一時私は人気者になりました。
今では忘れてしまいましたが、中国の子供が歌う「中華民国国歌」も全部覚えました。

このように南京が日本の占領下に置かれた後、子供の視点からみると、中国の子供たちとごく自然に遊び、中国の生活に溶け込みながら暮らしていたように思います。

そんな中で、こんな光景も目にしました。

凄惨な新兵の軍事訓練

家の前でよく日本軍が訓練をして、日本人の子供は見学できました。数百人が隊列を組んでの歩行訓練では、軍靴の足音と土埃がすごかったです。隊列を乱したときは歩行を止めて、しくじった班は連帯責任で2列に向き合ってお互いにビンタを張る(頬を叩きあう)。学校でもやられたことはありましたが、兵隊さんのビンタは威力が違いました。
さらに見た訓練は身の毛がよだちました。広場にクランクに縄を張って道路に見立ててあり、軍用トラックの操縦訓練がありました。練習するのは皆新兵のようで、車など運転する機会などあろう筈もなく、上手くいくほうが不思議です。失敗すると車から降ろされて上官の拳骨が顔面を襲う。失敗するたびに殴られて顔が血で真っ赤になった兵隊が数人いました。そうなると焦りと腫れあがった顔面のため視力も落ちたのか、ますます脱輪を繰り返して、そのうち一人が運転席から引きずり出されると眉間のあたりをものすごい勢いで殴られて3mほど吹っ飛びました。軍服は血で染まり、執拗な攻撃でとうとう動けなくなると、今度は軍靴の先でわき腹を狂ったように蹴り上げ続けます。死んでしまったのではないかと思い、私は気分が悪くなって家へ駆け込みました。

数日後、今度は実弾による射撃訓練を見ました。同じ広場の一角で6人くらいの兵隊が腹ばいになって30mほど先の的を狙って三八(さんぱち)式歩兵銃を撃っていました。鉄かぶとではなく戦闘帽を皆かぶっていました。世界一精度が高いといわれていた鉄砲でしたが、新兵にとってはそう上手くはいかず、的を外すと、すぐ後ろにいた上官が、測量などで使う、糸にぶら下がった鉄製の先端のとがった100gほどの重さの三角円錐の下げ振りを、1mくらいの高さから頭の真ん中にいきなり落とす。頭蓋骨に穴が開くほどの衝撃だと思われました。
そんな傷を負って次の射撃に集中できるだろうか?上手になれるのだろうか?先日の件も思い合せて、部下にこんな仕打ちをして戦争には勝てないと子供心にも怒りを感じました。

この続きは次回お伝えします。

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