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「ぶらり旅」

嘉例川駅・日当山西郷どん村・鹿児島神宮・・春の霧島を訪ねました②


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春めく霧島を1泊2日の駆け足で旅しました。
およそ120年前に建てられ今も現役で人々の乗降を見守る「嘉例川駅」、西郷隆盛が滞在していた家を基に作られた日当山の「西郷どんの宿」、大隅国一之宮の「鹿児島神宮」などを訪ねました。鹿児島出身の人なら誰もが口ずさめる「茶わん虫の歌」の発祥の地が鹿児島神宮の参道横にある宮内小学校という事も知り、これまで知らなかった鹿児島の事をより詳しく学べた旅でした。

鹿児島県内で最も古い木造の駅舎「嘉例川駅」

およそ30年前、取材で1度だけ嘉例川駅に行ったことがあります。木造のノスタルジックな駅のたたずまいが印象的だったことを記憶していますが、その頃はまだ、嘉例川駅は今ほど注目されていませんでした。
今回、一緒に旅行していた家族が行ってみたいと言ったので、車のカーナビを「嘉例川駅」に設定し向かいましたが、行くまでの道のりの記憶はなく、細い道を通り、家が点在する小さな集落を過ぎ、賑わいのある駅周辺の雰囲気とは違う風景なので「果たしてこの先に駅があったかな?」と半信半疑になりながら進むと、ありました。

「果たしてこの先に駅があったかな?」と半信半疑になりながら進むと、ありました。

そこだけ時間が止まったかのような、時代を感じさせる木造の駅舎が立っていました。
駅舎から受ける静かな感動があります。
ただ30年前に訪れた時より、瓦の屋根など少し老朽化が進んだような気がしました。

そこだけ時間が止まったかのような、時代を感じさせる木造の駅舎が立っていました。 駅舎から受ける静かな感動があります。嘉例川駅は霧島市隼人町にあるJR九州肥薩線の駅です。

嘉例川駅は霧島市隼人町にあるJR九州肥薩線の駅です。
1903年(明治36年)に営業を開始し、駅舎は開業当時のままの姿を残す、鹿児島県内で最も古い駅舎となっており、2006年に国の登録有形文化財に指定されています。
昭和59年からは無人駅となっています。

1903年(明治36年)に営業を開始し、駅舎は開業当時のままの姿を残す、鹿児島県内で最も古い駅舎となっており、2006年に国の登録有形文化財に指定されています。

嘉例川駅が今のように注目されるようになったきっかけは、2004年から観光特急列車「はやとの風」が停車するようになってから。また、この運行開始に合わせて地元のお弁当屋さんが発売を始めた駅弁「百年の旅物語 かれい川」がJR九州駅弁ランキングで3年連続グランプリに選ばれ、多くの人が嘉例川駅を知るきっかけとなったのです。「はやとの風」は新型コロナの影響などで2022年3月に運行を終えましたが、この駅弁は、今も土・日・祝日に嘉例川駅で販売されているそうです。
また、クルーズトレイン「ななつ星in九州」は、現在も嘉例川駅に停車するコースがあるようです。

地元のお弁当屋さんが発売を始めた駅弁「百年の旅物語 かれい川」がJR九州駅弁ランキングで3年連続グランプリに選ばれ、多くの人が嘉例川駅を知るきっかけとなったのです。

歴史をさかのぼれば、1920年(大正9年)、当時の皇太子(昭和天皇)が、高屋山上陵に参拝するため嘉例川駅を乗降されたそうです。
その時のことも、この駅舎は知っています。

歴史をさかのぼれば、1920年(大正9年)、当時の皇太子(昭和天皇)が、高屋山上陵に参拝するため嘉例川駅を乗降されたそうです。

待合室の椅子も120年前のもの。これまで数えきれない人々が通勤通学、旅立ち、帰省など、いろんな思いで座ったことでしょう。
戦争中は、この駅舎から出征した人もいただろうなあと想像しました。

待合室の椅子も120年前のもの。これまで数えきれない人々が通勤通学、旅立ち、帰省など、いろんな思いで座ったことでしょう。

今も現役の嘉例川駅

時刻表も掲示してあり、吉松・都城方面、隼人・鹿児島中央方面ともに1時間に1本程度在来線が停車します。

時刻表も掲示してあり、吉松・都城方面、隼人・鹿児島中央方面ともに1時間に1本程度在来線が停車します。

ちょうど私たちが訪れていた時に在来線が停車しました。

乗降する人はいませんでしたが、この駅舎はまぎれもなく現役であることを実感しました。
朝夕は、通学で利用する高校生たちもいるそうです。

嘉例川駅は、現役の駅舎であるとともに、今は歴史的に価値が見直され、観光客も多く訪れています。
私たちが訪ねた日も、県外ナンバーの車に乗った観光客の方が何組か見学していました。
やはりコンクリート作りの現代の建築にはない魅力があります。
着物姿の明治、大正、そして昭和の人々の往来が想像できる郷愁を感じる建物です。

私たちが訪ねた日も、県外ナンバーの車に乗った観光客の方が何組か見学していました。 やはりコンクリート作りの現代の建築にはない魅力があります。

この駅舎は現在霧島市が所有しています。また、「嘉例川地区活性化推進委員会」も作られ、ひな祭りに合わせて家庭から寄付されたひな人形を飾る催しなどを行い、嘉例川駅を地域の活性化につなげようとする活動もあるそうです。

「嘉例川地区活性化推進委員会」も作られ、ひな祭りに合わせて家庭から寄付されたひな人形を飾る催しなどを行い、嘉例川駅を地域の活性化につなげようとする活動もあるそうです。

老朽化していくこの駅舎を守り、後世まで残していくためには様々な地域の努力も必要なんだろうなあ、でも、これからもここにあり続けてほしいなあと思いながら嘉例川駅を後にしました。

老朽化していくこの駅舎を守り、後世まで残していくためには様々な地域の努力も必要なんだろうなあ

その夜は、霧島市の温泉宿に1泊しました。

西郷さんの逸話を伝える「日当山西郷どん村」

西郷さんの逸話を伝える「日当山西郷どん村」

前日の晴天と打って変わって朝から雨です。
まずは、2019年にオープンした霧島市隼人町の「日当山西郷どん村」を訪ねました。

まずは、2019年にオープンした霧島市隼人町の「日当山西郷どん村」を訪ねました。

明治時代になってからの10年ほどの間、西郷さんはよく日当山を訪れ、温泉や狩り、釣りなどを楽しんでいたそうです。その際逗留していた龍宝家を基に作られたのが「西郷どんの宿」です。

明治時代になってからの10年ほどの間、西郷さんはよく日当山を訪れ、温泉や狩り、釣りなどを楽しんでいたそうです。
その際逗留していた龍宝家を基に作られたのが「西郷どんの宿」です。

「西郷どんの宿」は、当時の家屋の作りとして多く見られた「田の字型」になっており、壁には、西郷さんの逸話や直筆の漢詩の複製など西郷さんに関する資料も展示されています。

「西郷どんの宿」は、当時の家屋の作りとして多く見られた「田の字型」になっており、壁には、西郷さんの逸話や直筆の漢詩の複製など西郷さんに関する資料も展示されています。
「西郷どんの宿」は、当時の家屋の作りとして多く見られた「田の字型」になっており、壁には、西郷さんの逸話や直筆の漢詩の複製など西郷さんに関する資料も展示されています。

また、霧島シルバー観光ガイドの方が、西郷さんにまつわる様々なエピソードを、大きな紙芝居を使って話してくださいます。
霧島シルバー観光ガイドの方が、西郷さんにまつわる様々なエピソードを、大きな紙芝居を使って話してくださいます。

西郷さんと一緒に船に乗って釣りに行ったら、これまでにない位、魚が大漁で、西郷さんが乗っていたおかげだと村人から感謝された話。

西郷さんと一緒に船に乗って釣りに行ったら、これまでにない位、魚が大漁で、西郷さんが乗っていたおかげだと村人から感謝された話。

温泉好きだった西郷さん、公衆浴場では湯口ではなく排水口の近くが入浴するときの西郷さんの定位置だったとか。排水口の近くは、入浴した人たちの垢が一番流れてくる場所で、みんながあまり行きたがらない。その場所にあえて西郷さんは入ったのではないかという話。

温泉好きだった西郷さん、公衆浴場では湯口ではなく排水口の近くが入浴するときの西郷さんの定位置だったとか。

鹿児島神宮の参道にあった茶店にお付きの人と入り、スイカを食べた西郷さん。その料金よりもはるかに多いお金を置いて去った話。その茶店の人たちの生活が苦しいと知っていたからではないかという話。

鹿児島神宮の参道にあった茶店にお付きの人と入り、スイカを食べた西郷さん。

中央の世界で活躍していた西郷さんでしたが、ここで出てくるエピソードはどれも市井の人々との関わりの話。身分に関係なく人々に優しく、思いやりのまなざし持って接してきた西郷さんの人となりがうかがえます。そういう人だったからこそ様々なエピソードが今も語り継がれているんだろうなあと思いました。

中央の世界で活躍していた西郷さんでしたが、ここで出てくるエピソードはどれも市井の人々との関わりの話。身分に関係なく人々に優しく、思いやりのまなざし持って接してきた西郷さんの人となりがうかがえます。

敷地には西郷さんが馬をつないだといわれる「西郷どんの一ッ葉」やレストラン、日当山温泉の足湯などがあります。

敷地には西郷さんが馬をつないだといわれる「西郷どんの一ッ葉」やレストラン、日当山温泉の足湯などがあります。

この足湯、温度も高くて足をしばらくつけていたら血行が良くなったような気がしました。前日、犬飼滝の急な坂の遊歩道を歩き、筋肉痛になっていた足が少し軽くなったような気もしました。他の家族も同じような感想を持ったので、温泉の効能を実感しました。

この足湯、温度も高くて足をしばらくつけていたら血行が良くなったような気がしました。

ところで、シルバー観光ガイドの方が、「『茶わん虫の歌』が作られた発祥の地はどこか知っていますか?」と尋ねられました。「歌は口ずさむことはできるけど、いつごろから歌われているか?誰が作ったのか知りません。」と答えると「では、鹿児島神宮の参道の横にある宮内小学校に行ってみてください。看板が立っていますよ。」と教えてくださり、あまり知られていない2番、3番の歌詞まで歌って下さいました。

「では、鹿児島神宮の参道の横にある宮内小学校に行ってみてください。看板が立っていますよ。」と教えてくださり、あまり知られていない2番、3番の歌詞まで歌って下さいました。

これは行くしかないと、まずは鹿児島神宮に向かいました。

大隅国一之宮「鹿児島神宮」。様々な信仰玩具もあり

「大隅国一之宮」とは大隅の中で最も社格の高いとされる神社です。
鹿児島神宮は霧島市隼人町にあり、毎年旧正月18日に行われる「初午祭」が有名ですが、今回初めて訪れました。

「大隅国一之宮」とは大隅の中で最も社格の高いとされる神社です。

参道から階段を登り社殿に向かいます。周りは樹齢を重ねた木々に囲まれ、雨の中の静けさとも相まって神聖な雰囲気が漂います。

参道から階段を登り社殿に向かいます。周りは樹齢を重ねた木々に囲まれ、雨の中の静けさとも相まって神聖な雰囲気が漂います。

現在の社殿は宝暦6年(1756年)に建てられたもので、国の重要文化財に指定されています。
雨に気を取られ写真を撮るのを忘れてしまいましたが、社殿の天井の植物絵や、龍の彫刻を施した柱など手の込んだ装飾は目を見張るものがあり、一之宮という風格のある社殿でした。

現在の社殿は宝暦6年(1756年)に建てられたもので、国の重要文化財に指定されています。

また、境内には「鹿児島」の地名発祥の地であることが案内されていました。

境内には「鹿児島」の地名発祥の地であることが案内されていました。

それによると「鹿児島の地名発祥は諸説ありますが、一説には鹿児島神宮の御祭神 天津日高彦火火出見尊(山幸彦)がわたつみの国に行く際に乗った舟が籠山(麑山・かごやま)で作られたことに由来すると伝えられています。」と書かれています。

「鹿児島の地名発祥は諸説ありますが、一説には鹿児島神宮の御祭神 天津日高彦火火出見尊(山幸彦)がわたつみの国に行く際に乗った舟が籠山(麑山・かごやま)で作られたことに由来すると伝えられています。」と書かれています。

鹿児島という名前の由来も初めて知り(諸説あるそうですが)勉強になりました。

そして、参拝して驚いたのが、信仰玩具の種類が豊富であることです。

参拝して驚いたのが、信仰玩具の種類が豊富であることです。

鯛車・・海幸山幸の神話にちなみ御祭神の釣り針を呑みとった赤女魚を模したもの。
初鼓・・初午祭当日に鈴懸馬に飾る豆太鼓を模したもの。
外にも土鈴、羽子板、弓矢、竹刀など御祭神の豊富な神話にちなむ信仰玩具が数々あり、今まで訪ねた神社の中で、このように豊富に玩具がある所は初めてでした。

鯛車・・海幸山幸の神話にちなみ御祭神の釣り針を呑みとった赤女魚を模したもの。 初鼓・・初午祭当日に鈴懸馬に飾る豆太鼓を模したもの。
外にも土鈴、羽子板、弓矢、竹刀など御祭神の豊富な神話にちなむ信仰玩具が数々あり、今まで訪ねた神社の中で、このように豊富に玩具がある所は初めてでした。

その中で、とてもユニークな玩具があったので、初穂料をお渡しして受け取りました。
「はじき猿」です。「猿」を「去る」とかけて災いをはじいて去る、病が去るという意味を持ち、厄除け、病気平癒の願いが込められた玩具だそうです。

その中で、とてもユニークな玩具があったので、初穂料をお渡しして受け取りました。 「はじき猿」です。
「はじき猿」です。「猿」を「去る」とかけて災いをはじいて去る、病が去るという意味を持ち、厄除け、病気平癒の願いが込められた玩具だそうです。

実際、このようにして遊びます。

猿の顔をした部分を下げて、びょーんとはじきます。お猿さんは毎回はじかれて痛いかもしれませんが、災いや病気が去ることを願った昔からの玩具、私も大事にしたいと思います。

猿の顔をした部分を下げて、びょーんとはじきます。お猿さんは毎回はじかれて痛いかもしれませんが、災いや病気が去ることを願った昔からの玩具、私も大事にしたいと思います。

御朱印をいただき、鹿児島神宮を後にします。

「茶わん虫の歌」発祥の地 霧島市立宮内小学校

そして、「茶わん虫の歌」の発祥の地に行ってみることにします。
鹿児島神宮の参道横に、霧島市立宮内小学校はあり看板もすぐに見つかりました。

そして、「茶わん虫の歌」の発祥の地に行ってみることにします。
鹿児島神宮の参道横に、霧島市立宮内小学校はあり看板もすぐに見つかりました。

茶わん虫の歌は、鹿児島を代表する歌の一つ。
「うんだもこら いけなもんな あたいげんどん 茶わんなんだ 日に日に三度も洗るもんせば きれいなもんごわんさー 茶わんにひっちた 虫じゃろかい 目籠(めご)など蹴歩く 虫じゃろかい まこてげんねこっじゃ わっはっは」

(意味)まったくそれは どんなものですか?私の家の茶椀は 毎日、日に3度も洗っているため 清潔なものです。茶椀についた虫の事でしょうか? 洗いかごなどをけちらかして歩く虫の事でしょうか?まったく恥ずかしいことです わっはっは

鹿児島県民なら誰でも口ずさめるこの歌ですが、誕生の経緯が看板には書かれていました。

鹿児島県民なら誰でも口ずさめるこの歌ですが、誕生の経緯が看板には書かれていました。

「『茶わん虫の歌』は、今からおよそ100年前の大正10年(1921年)に、宮内小学校に勤務されていた故・石黒ヒデ先生が、学校対抗の学芸会で披露した劇『行きくれし旅の子』の劇中歌として作詞・作曲された」ものだそうです。

その劇「行きくれし旅の子」の内容も看板に書かれています。
「劇は不幸な生い立ちの少女が主人公。境遇の似た旅の三姉妹と共に吹雪の森から春の野山へ抜け出て希望を見出す物語です。森を出た先の峠で少女らは茶店に立ち寄ります。そこで『茶わん蒸し』を注文したところ、料理名を知らなかった店の女性が『茶わん虫』と勘違いし、『あらよー、茶わん虫ごわすか?』といってこの歌を歌いだすのです。」

以上のような経緯で「茶わん虫の歌」は生まれたんですね。
でも、小学校の学芸会で歌われた歌を、どうして広く県民が歌えるようになったのでしょうか?

そのことは、宮内小学校のホームページに書かれていました。
それによると、戦後になって、鹿児島の民謡の発掘・収集・普及活動に努めた故・久保けんお先生が、鹿児島市の天保山中学校に在籍中に採譜されたそうです。
久保先生が「茶わん虫の歌」を見出してくれたおかげで、県民に広く知れ渡るようになったのですね。

しかし、大正10年に歌が生まれてから戦後の採譜まで少なくとも25年以上は経っていると思われますが、「茶わん虫の歌」はその学芸会だけでの歌で終わらず、ずっと歌い継がれてきたのかなと思いました。

「茶わん虫の歌」はその学芸会だけでの歌で終わらず、ずっと歌い継がれてきたのかなと思いました。

ところで「茶わん虫の歌」には、2番、3番もあることは知りませんでした。
看板にその歌詞も書いてあります。
なかなか笑える歌詞です。

(2番)うんだもこら いけなもんな あたいげんどん嫁じょなんだ 日に日に3度もちけんせぇば きれいなもんごわんさー 顔についたけしょじゃろかい 化粧についた顔じゃろかい まこてげんねこっちゃ わっはっは

(意味)まったくそれは どんな物なのですか?私の家のお嫁さんは 毎日3度も化粧をしているから 綺麗なもんですよ 顔についた化粧なんだか 化粧についた顔なんだか まったく恥ずかしいことです わっはっは

(3番)うんだもこら いけなもんな あたいげんどんむひこぉなんだ 日に日にろっどもくろもんせぇば たまげたもんごわんさー あたいがちかたがすねたろかい あてごた茶わんがこめたろかい まこてげんねこっじゃ わっはっは

(意味)まったくそれは どんな物なのですか?私の家の息子は 毎日6度もおかわりするから 驚いてしまいます わたしのよそい方が少ないのか あてがった茶わんが小さいのか まったく恥ずかしいことです わっはっは

2番・3番もユニークで、思わず笑ってしまいます。
この歌のリズムと鹿児島弁の歌詞の面白さが歌い継がれる理由なのかなと思います。
ちょっと2番、3番も覚えて何かの機会に歌を披露したいなあと思いました。

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さて、1泊2日の駆け足でしたが、1日目に霧島神宮、犬飼滝、和気神社、嘉例川駅を訪ね、2日目に日当山西郷どん村、鹿児島神宮、宮内小学校を訪ね、行く先々で、鹿児島の古からの歴史を学び、その地に残るいろいろなエピソードを知り、より詳しく霧島の事を知ることができました。そして、鹿児島出身でありながら、改めて知らないことが多いことを痛感しました。旅をすれば、必ず新たな発見があり、学びがあり、それが旅の醍醐味だなあと思います。

日本各地もまだまだ行ったたことのない所ばかりですが、鹿児島をさらに詳しく知る小旅行もしていきたいなあと思います。

日本各地もまだまだ行ったたことのない所ばかりですが、鹿児島をさらに詳しく知る小旅行もしていきたいなあと思います。

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