「歴史」

戦争体験Vol.11 自宅が直撃弾で炎上 死を覚悟した鹿児島大空襲


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太平洋戦争末期の昭和20年(1945年)6月17日、鹿児島市はアメリカ軍による大規模な焼夷弾攻撃を受け、多くの民間人が犠牲となりました。(死者2,316人、負傷者3,500人)戦後76年が経ち、戦災の爪痕をほとんど目にすることがなくなりましたが、体験者のひとり、海江田順三郎さん(93)が「あの日の記憶を風化させないで」と当時のことを語って下さいました。

広馬場通りに建つ鎮魂の碑

鹿児島市の中心部、繁華街の一角(鹿児島市堀江町)の広馬場通りに戦災で犠牲となった人たちを鎮魂する慰霊の碑が建っています。

広馬場通り 戦災鎮魂慰霊の碑(鹿児島市堀江町)広馬場通り 戦災鎮魂慰霊の碑
(鹿児島市堀江町)

 

平成17年(2004年)遺族によって建立された平成17年(2004年)
遺族によって建立された

海江田さんの実家は当時、この近くの潮見町(現在の泉町)にありました。6月17日の空襲では、このあたりにも焼夷弾が次々と投下され、ほとんどの民家が焼け落ち、防空壕に逃げ込んだ人たちの多くが、壕の中に閉じ込められ窒息死するという悲劇的な犠牲が出ました。海江田さんは、この碑の建立にも関わり、毎年この場所で開かれる慰霊祭に参加してきました。

鹿児島大空襲を体験した海江田順三郎さん(93)鹿児島大空襲を体験した
海江田順三郎さん(93)

「あの碑は、私の先輩の春成幸男さんが建てられたんです。春成さん(東京在住)は、あの日の空襲でご両親、ごきょうだいの7人を亡くされました。家族を亡くされて大変なつらい体験をされて、無念の最期を遂げられたご家族を供養し、この場所で多くの人たちが亡くなったことを忘れないでほしいという一念で建てられたのだと思います。私もあの夜のことは忘れられません。今でも空襲の夢を見ることがありますよ。」

そう静かに語って下さった海江田順三郎さん(93)は、当時17歳。鹿児島県立第二鹿児島中学校(二中)の4年生でした。太平洋戦争が始まってすでに4年目に入り、青春時代は戦争一色だったと言います。

県立第二鹿児島中学校(二中)時代の海江田さん県立第二鹿児島中学校(二中)
時代の海江田さん

戦況が悪化する中、昭和20年(1945年)4月になると、海江田さんたち二中の生徒たちも、長崎県佐世保市の海軍工廠に勤労動員されました。国家総動員体制の下、戦場に召集された工員たちに代わって、学生たちが貴重な労働力となっていきました。海江田さんたちは、佐世保の海軍工廠で特攻兵器のエンジンをつくる仕事に携わっていたそうです。鹿児島を離れていた海江田さんでしたが、あるきっかけで鹿児島大空襲に遭遇することになったのです。

鹿児島への里心から空襲に遭うことになったと語る       海江田さん鹿児島への里心から空襲に遭うことになったと語る
海江田さん

「私たち二中の生徒の中で、10名くらいが陸軍航空士官学校を受験したんです。(昭和20年6月に)熊本でその最終試験があって、試験が終わったら、すぐに佐世保に戻らなければいけなかったのですが『せっかく熊本まで来たんだから、怒られる覚悟で、鹿児島に帰って親の顔でも見よう。』ということになって、鹿児島に帰ったんです。空襲の2~3日前のことでした。」

厳しい統制下の勤労動員の日々。少しの間だけでも実家に戻って、ホッとしたいという少年たちの里心でした。

団らんの夜が一変、焼夷弾の直撃で火の海に

戦前、海江田さんの実家は大きな米問屋を営んでいましたが、働いていた男性たちは次々に兵隊にとられ、統制経済の下、店は開店休業の状態でした。昭和20年3月からは鹿児島市でも度々空襲があり、母の勝代さんは、弟たちを連れて市比野に疎開。父の平一郎さんだけが実家に残り、家を守っていました。

家族バラバラの暮らしが続いていましたが、あの日は順三郎さんが鹿児島に帰ってきたという知らせを受けて、疎開先から母も戻って、姉の睦子さんや睦子さんのいいなづけも招いて、楽しい団欒の夜を過ごしました。

久しぶりの実家は何とも言えない解放感だったと言います。その夜、11時過ぎ、表の間でちょうど寝入った頃でした。順三郎さんは、姉の睦子さんの「空襲、空襲。早く、早く避難して。」という切羽詰まった叫び声で起こされました。

縁先が異様に明るく、爆音が聞こえていました。突然の夜間空襲でした。順三郎さんたちは、先を争って玄関の広間にあった防空壕に逃げ込みました。母、姉、姉のいいなづけ、順三郎さん、みんな着の身着のままの格好で真っ暗な壕の中でじっと息をひそめてうずくまっていたそうです。

家が直撃弾を受けた時の様子を語る海江田さん家が直撃弾を受けた時の様子を語る海江田さん

「最初は、城山の裏手(伊敷方面)の方から聞こえていた爆音がどんどん市街地の方に近づいてきました。空の要塞と言われていたB29の耳を圧するエンジン音がどんどん近づいてきて、ひときわ大きくなってきました。

照明弾が投下され、外は異様なくらい明るかったです。そのうちに、爆撃機が間近に迫ってきて、頭上でザザザ―という雨が降るような音が聞こえました。爆弾を落とす瞬間の音でした。それがヒューヒューという風を切る音に変わって、間もなく直撃弾が家に落ちたんです。

ドーンという大音響と共に、防空壕が大地震に襲われたみたいにグラグラグラと揺れて、頭の上から砂がバラバラバラって落ちてきました。あ~これで俺も終わりかなぁ~17歳で死ぬんだと思いました。母は『南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏』と念仏を唱えて続けていました。」

防空壕の外に立っていた父の平一郎さんが「みんな壕から出れ」と叫んで、表座敷に駆けつけると数十発の焼夷弾が散らばって畳の上で燃え始めていました。焼夷弾には固形の油が入っていて、いったん火がつくと燃え広がり、瞬く間に炎上してしまいます。

順三郎さんは、むらむらと闘争心がわいてきて散らばった焼夷弾を、手当たり次第に庭に投げ捨てたといいます。そのうち天井が燃え出し、離れからも火の手があがりました。ふろ場から手桶で湯水を運んで懸命に消火に励みましたが、すさまじい火の勢いはどうすることもできず、あっという間に手がつけられない状態になりました。

平一郎さんが「もう消されん。逃げ、逃げ。」と叫び、5人は裸足で朝日通りを抜けて、海岸の方にあった大型の防空壕に逃げ込みました。梅雨の長雨続きで防空壕の中は水がいっぱいたまっていて、逃げてきた人たちで隙間なくひしめき合っていたそうです。

空襲直後の様子を語る海江田さん空襲直後の様子を語る海江田さん

「もう街中が火の海でしたよ。城山の木々は赤く燃え、ビルの窓という窓から炎が勢いよく噴き出していました。防空壕から出て家に近づいて見ると、姉が弾いていたピアノがひっくり返ってメラメラと燃えていましたよね。あの光景は、今でも目に焼き付いて忘れることができません。」

午後11時5分に始まった空爆は1時間以上にわたって続きました。この日、B29 百数十機の大編隊から投下された焼夷弾は13万個(推定)(「鹿児島市史」)とみられ、鹿児島市は一面、焼け野原となりました。自分たちと同じように防空壕に逃げた人たちが熱風や煙で、そのまま焼死、窒息死したことを後で知り、自分の家族が無事だったことに安堵したそうです。

悔しさと無力感で…悔しさと無力感で…

「悔しさと無力感でいっぱいになりました。父は低空で飛び回るB29を指さしながら体を震わせて『順、お前は陸士に入って、この仇をとれ』と叫んでいました。私も当時、軍国少年でしたから、立派な軍人になって敵機に体当たりして本懐を遂げようと自分に言い聞かせました。

当時は、男子は人生25まで言われていた時代でしたから。でも一方で、あの飛行機に自分は敵うんだろうかと不安に思えてね。当時の日本の戦闘機はB29を撃墜するのに体当たり戦法を用いていました。アメリカのすさまじい戦力に圧倒されて、恐ろしくもなりました。悔しさと共に無力感が入り混じった複雑な気持ちでした。」

服を1着もらって佐世保へ 佐世保でも大空襲に襲われ…

順三郎さんの家周辺の民家はことごとく焼け落ちていましたが、一軒だけ奇跡的に延焼を免れた家がありました。みんなでバケツリレーをして延焼を食い止めた家でした。実家が焼けて裸一貫となった順三郎さんは、この焼け残った家の一中(第一鹿児島中学校)に通う生徒さんの洋服を1着もらって、佐世保の海軍工廠に戻りました。

熊本での試験の後、鹿児島に帰省していたことを叱責されるかと思っていましたが、それどころか、先生は「鹿児島はいけんなったとよ。(どうなったのか)」と真っ先に問われ、そのあと友達たちがワ~っと集まってきて「いけんなったとよ。いけんなったとよ。」と大騒ぎになりました。
服を1着もらって佐世保へ 佐世保でも大空襲に襲われ…
「鹿児島で大きな空襲があったという情報は入っていたけど、まだ詳しいことが分からなくて、みんな家族や家のことが心配で仕方なかったんでしょう。『市内はほとんど全焼だった』と伝えると、みんながっくりと肩を落としていました。

この頃は、もう工廠には、資材は入ってこなくなっていて、上官の視察がある時には、機械だけは動かすように言われました。班長が『こんなことしていて勝つのかよ~』と叫ぶこともあったりして、みんな心のどこかで日本は大丈夫だろうかと思っていたような気がします。戦争末期は、空襲に備えて山の手に疎開した海軍工廠の機械を格納するための半地下壕を掘る土木作業をしていました。」

そして、あの鹿児島大空襲から11日後、佐世保でも大空襲がありました。鹿児島と同じ、突然の深夜の空襲でした。

「寝ていたら、空襲警報が鳴り出しました。耳を澄ますと爆音が聞こえてきました。あ~鹿児島の空襲の時と一緒だと思って『これは、ほんのこっじゃ(これはほんとの空襲だ)』と叫んで、みんな飛び起きて、壕に逃げました。幸い海軍工廠の宿舎は山の手にあったので難を逃れたのですが、翌朝、工廠に行く途中で見た佐世保市内は、一夜で焼け野原、丸焼けとなっていました。」

記録によると、6月28日午後11時50分から翌午前2時頃までのおよそ2時間にわたり、B29 爆撃機141機が飛来し、推定1200トンの大量の焼夷弾が市街中心部一帯に投下されました。市内は一部を除きほぼ壊滅状態となり、民間人を中心に1242人が犠牲となりました。鹿児島、佐世保と立て続けに壊滅的な被害を受けた空襲を体験した海江田さんは、終戦をどのような気持ちで迎えたのでしょうか。

海江田順三郎さん(93)海江田順三郎さん(93)

「思い出すのは、終戦間近に佐世保軍港に入ってくる日本の軍艦のヨタヨタとした姿です。艦橋(軍艦の指揮所)や船尾も無く、ズタズタに傷ついて、やっとのことで帰ってきていました。それでも不思議に日本は負けるとは思いませんでした。天皇陛下の終戦ラジオ放送のお言葉はよく聞き取れなかったけれど、悲痛なお声に敗戦を知らされ、やっぱり涙が出ましたよ。」

海江田さんの少年、青年時代は、日本が日中戦争から太平洋戦争へと突き進む真っただ中にありました。当時の時代の空気をこう振り返ります。

県立第二鹿児島中学校(二中)時代の海江田さん県立第二鹿児島中学校(二中)時代の海江田さん

「日中戦争の時は、『対支庸懲(ようちょう)』という言葉が、太平洋戦争では『米英撃滅』という言葉が、国のスローガンとなって、その文字が新聞などで踊っていました。よその国を懲らしめて、戦うことを鼓舞する言葉ですよね。子どもたちもその言葉をみんな覚えているくらいでした。

私も軍人に憧れ、どうせなら兵隊でなく士官となってお国のために尽くして死のうと思っていました。鹿児島で空襲を体験してから終戦までの間は、敵機に体当たりして死ぬことばかりを考えていました。そういう時代の空気は本当に怖いですよね。」

軍国少年だった海江田さんの戦後

自らを軍国少年だったと振り返る海江田さんですが、戦後は鹿児島県日中友好協会会長として、かつて敵国だった中国の人々と友好関係をつくる活動に心を傾けてきました。人と人が知り合い、理解し合うことが、平和を築く礎になるとの思いで、草の根の交流を続けてきました。そして、つい最近、協会に女性委員会ができたことを嬉しそうに話され、93歳になった今も、友好の懸け橋となる活動に意欲的です。

鹿児島大空襲の体験を話して下さった海江田順三郎さん(93)鹿児島大空襲の体験を話して下さった海江田順三郎さん(93)

「戦争で真っ先に犠牲になるのは、女性や青年たちです。女性たちがもっと声をあげやすい世の中になっていくことを願って、婦人たちとの交流をもっと盛んにしていきたいです。日本も中国も、もともとは同じアジア民族。民族的相似性が高いんです。近隣の人々とは仲良く、平和にしていかないといかんです。」

その一方で、最近の各国のリーダーたちの自国優先の発言や国家間の対立や分断を心配し、戦時中の世の中のムードと似通ったものを感じると憂えています。「第2次世界大戦での犠牲者は、戦場での戦死者よりも民間人の犠牲者の方が多かったんですよ。あんなことを繰り返してはいけない。」2度の空襲を体験し、多くの民間人が犠牲となった姿を間近に見てきた海江田さんの口から出る言葉には重みがあり、胸に深く残りました。

おわりに

お話を伺った海江田さんから後日、これまでに収集した太平洋戦争に関するたくさんの資料や被害の記録をまとめたものが送られてきました。ご自分が体験した戦争の教訓を次の世代に正しく伝えておきたいという真摯な思いが伝わってきて、身が引き締まる思いでした。平成16年(2004年)に建立されて以来、広馬場通りの慰霊碑で毎年開催されてきた慰霊祭は、コロナ禍の中で、去年、今年と2年続けて中止となりました。

広馬場通りの戦災鎮魂慰霊の碑広馬場通りの戦災鎮魂慰霊の碑

広馬場通りの戦災鎮魂慰霊の碑
海江田さんは「あの日のことを忘れてはいけない」と6月17日には、自宅から供養の念い(おもい)を捧げるつもりです。

太平洋戦争での民間犠牲者を慰霊する「人間之碑」         (鹿児島市役所前みなと大通り公園海側)太平洋戦争での民間犠牲者を慰霊する「人間之碑」
(鹿児島市役所前みなと大通り公園海側)

鹿児島市役所前のみなと大通り公園に建つ太平洋戦争民間犠牲者慰霊碑「人間の碑」では、コロナ禍の中、規模を縮小して今年も6月17日、朝9時から(15分程度)遺族や市の関係者などが参列して犠牲者への慰霊の献花が行われます。
太平洋戦争民間犠牲者慰霊碑「人間の碑」
太平洋戦争民間犠牲者慰霊碑「人間の碑」
鹿児島大空襲から76年。「あの日を忘れないで」という体験者からの声を受け止めたいと思いました。

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