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「ぶらり旅」

霧島神宮・犬飼滝・和気神社・・・春の霧島を訪ねました①


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少しずつ暖かくなり、春の訪れを感じるようになりました。霧島は雄大な自然や温泉など魅力あふれる場所ですが、この春、今まで訪ねたことのなかった場所や小学校の修学旅行以来訪れた霧島神宮など、駆け足で霧島を旅しました。改めて古からの歴史が脈々と受け継がれている場所であることを認識し、霧島の奥深さを感じた小旅行でした。

荘厳なたたずまい 霧島神宮

鹿児島市の小学校の出身ですが、今から40年以上も前になる修学旅行は、鹿児島県霧島市にある霧島神宮に参拝し、高千穂峰を登山する1泊2日の旅でした。霧島神宮は、背の高い濃い緑の木々に囲まれた長い参道を歩くと、立派な社殿があったのを記憶しており、今回、それ以来の訪問になりました。
訪れたのは3月中旬。この日は快晴で、穏やかな春の日差しを浴びながら、霧島神宮に到着しました。

訪れたのは3月中旬。この日は快晴で、穏やかな春の日差しを浴びながら、霧島神宮に到着しました。

大鳥居を車で抜け、駐車場に車を停めて歩きます。
およそ80段の石段を上り、二の鳥居をくぐります。

大鳥居を車で抜け、駐車場に車を停めて歩きます。 およそ80段の石段を上り、二の鳥居をくぐります。

記憶の通り、背の高い緑の木立に囲まれた、神聖な気持ちになる参道です。

記憶の通り、背の高い緑の木立に囲まれた、神聖な気持ちになる参道です。

参道には寄進されたと思われる石灯篭もあり、その一つには西郷従道の名前が刻まれていました。
西郷隆盛の弟で、明治時代、海軍大将や陸軍中将として活躍した人です。
この石灯篭一つにも歴史を感じました。

参道には寄進されたと思われる石灯篭もあり、その一つには西郷従道の名前が刻まれていました。
西郷隆盛の弟で、明治時代、海軍大将や陸軍中将として活躍した人です。 この石灯篭一つにも歴史を感じました。

途中、展望所もあります。
晴天のこの日は、桜島や錦江湾も見ることができ、その眺望を楽しめました。

途中、展望所もあります。 晴天のこの日は、桜島や錦江湾も見ることができ、その眺望を楽しめました。

そうして歩いていくと、三の鳥居が見えてきました。
その手前の幅の広い階段で、修学旅行の時、集合写真を撮った事を思い出しました。

そうして歩いていくと、三の鳥居が見えてきました。 その手前の幅の広い階段で、修学旅行の時、集合写真を撮った事を思い出しました。

三の鳥居を進むと、社殿が見えてきました。

三の鳥居を進むと、社殿が見えてきました。

社殿までの長い参道を歩き、緑の木々に囲まれた奥に朱塗りの社殿が見えてくると、何か厳かな空気が流れてきたような気がしました。

社殿までの長い参道を歩き、緑の木々に囲まれた奥に朱塗りの社殿が見えてくると、何か厳かな空気が流れてきたような気がしました。

霧島神宮は、天孫降臨神話の主人公であるニニギノミコトが祀られ、創建は6世紀といわれています。
現在の社殿は、正徳5年(1715年)に島津吉貴公によって復興されたもので、拝殿、幣殿を経て最も高いところに本殿があります。急こう配の階段で段差をつけて高低差を表現する躍動感あふれた構成をもちます。(霧島神宮のホームページの説明より)

現在の社殿は、正徳5年(1715年)に島津吉貴公によって復興されたもので、拝殿、幣殿を経て最も高いところに本殿があります。

ちなみに、拝殿は普段私たちがお賽銭を入れて参拝する場所。その後ろにご神体を安置する最も大切な場所としての本殿。幣殿は拝殿と本殿の間にあり、拝殿と本殿をつなげる役目があるそうです。

拝殿は普段私たちがお賽銭を入れて参拝する場所。その後ろにご神体を安置する最も大切な場所としての本殿。

社殿は、豪華絢爛な彫刻や装飾が施され、その鮮やかな色彩に目を奪われます。

社殿は、豪華絢爛な彫刻や装飾が施され、その鮮やかな色彩に目を奪われます。

また、一般には公開されていませんが、本殿などの内部も、丸彫り彫刻や絵画で装飾され極彩色や朱塗りで仕上げられた豪華な作りになっているそうです。
この本殿、幣殿、拝殿は、南九州の社寺建築を代表する価値の高い建造物として、令和4年2月に国宝に指定されました。(霧島神宮のホームページ抜粋)

一般には公開されていませんが、本殿などの内部も、丸彫り彫刻や絵画で装飾され極彩色や朱塗りで仕上げられた豪華な作りになっているそうです。

この日も、多くの参拝客が訪れており、参拝する長い列ができていました。
参拝を済ませた後、御朱印を頂きました。

この日も、多くの参拝客が訪れており、参拝する長い列ができていました。 参拝を済ませた後、御朱印を頂きました。

およそ300年前に細部にまでこだわって建てられた国宝の社殿の重みを感じるとともに、緑の中に吹く風がさわやかで、凛とした神聖な空気を感じました。
気持ちがすっきりと整ったような感覚でした。
とても素晴らしい神社だと改めて感じながら、霧島神宮をあとにしました。

およそ300年前に細部にまでこだわって建てられた国宝の社殿の重みを感じるとともに、緑の中に吹く風がさわやかで、凛とした神聖な空気を感じました。

次に車で15分ほどの霧島市牧園町にある犬飼滝に向かいました。
途中、晴れ渡った空のもと、高千穂峰がくっきりと見えました。

次に車で15分ほどの霧島市牧園町にある犬飼滝に向かいました。
途中、晴れ渡った空のもと、高千穂峰がくっきりと見えました。

坂本龍馬も感激した犬飼滝

犬飼滝はテレビでは見たことがありましたが、実際行くのは初めてでした。
駐車場に着くと、すぐ近くに滝見台があり、遠くに犬飼滝を見ることができます。

犬飼滝はテレビでは見たことがありましたが、実際行くのは初めてでした。
駐車場に着くと、すぐ近くに滝見台があり、遠くに犬飼滝を見ることができます。

「ザー」という滝の音が聞こえ、遠くに流れる滝は見えますが、滝の全貌までは見えません。
滝の案内には、坂本龍馬とその妻お龍が新婚旅行の途中で、この犬飼滝を訪れたことが書いてあります。

滝の案内には、坂本龍馬とその妻お龍が新婚旅行の途中で、この犬飼滝を訪れたことが書いてあります。

坂本龍馬は、慶応2年(1866年)、京都伏見の寺田屋で幕士に襲われ手傷を負いました。その手当をしているときに、西郷隆盛らから霧島での温泉療養を勧められ、妻のお龍と共に霧島の塩浸温泉などに逗留し、負った傷を癒したと伝えられています。この旅行が日本で初めての新婚旅行と言われており、坂本龍馬夫妻が歩いた道程は「龍馬ハネムーンロード」として、立ち寄った場所には看板も建てられています。

この旅行が日本で初めての新婚旅行と言われており、坂本龍馬夫妻が歩いた道程は「龍馬ハネムーンロード」として、立ち寄った場所には看板も建てられています。

この看板には、龍馬は、犬飼滝の印象を「この世の外と思われるほどめずらしき所なり」と絶賛し、ここに10日ほど泊まり、谷川で魚を釣ったりしたと書かれています。

龍馬が絶賛する滝、ぜひ間近で見たいものです。
滝つぼまでは約300m。遊歩道の入り口には勾配もきついと書かれています。その横には杖も置かれていましたので、少しでも負担を軽くしようと杖を携えて向かう事にしました。

滝つぼまでは約300m。遊歩道の入り口には勾配もきついと書かれています。
その横には杖も置かれていましたので、少しでも負担を軽くしようと杖を携えて向かう事にしました。

確かに急な勾配の階段の道が続き、慎重に降りていきます。

確かに急な勾配の階段の道が続き、慎重に降りていきます。

しばらくこの急こう配の階段道を降りていきますが、長い距離ではないので10分ほどでたどり着くことができました。

間近で見る犬飼滝です。

しばらくこの急こう配の階段道を降りていきますが、長い距離ではないので10分ほどでたどり着くことができました。
間近で見る犬飼滝です。

幅22m、落差は36mあり、勢いよく水が落ちていく様は壮観です。
「ザー」と流れる音の大きさやその姿の迫力は、滝見台から見た滝の様子とは全く違います。
遊歩道を降りてきてよかったと思いました。

きっと坂本龍馬が見た時と、あまり滝の風景は変わっていないのかなあと思います。
龍馬が絶賛した気持ちを共有しながら、滝を後にしました。

今度は急こう配の階段を登らなければなりません。
行きは休憩なしで行けましたが、帰りは、途中で一息つきながら登りました。
次の日は足が筋肉痛になりました。

和気清麻呂を祀った和気神社

犬飼滝から車で5分ほど。歩いても10分ほどのところに和気神社があります。
「和気清麻呂」という名前は高校時代日本史で習いました。どのようなことをした人かまでは覚えていませんが、教科書にも載るような人物がこの地に祀られているのはどういうことなのでしょうか?興味を持ちました。

犬飼滝から車で5分ほど。歩いても10分ほどのところに和気神社があります。
犬飼滝から車で5分ほど。歩いても10分ほどのところに和気神社があります。

杉木立の奥に神社はありました。
境内には、和気清麻呂について書かれた看板が立っています。

境内には、和気清麻呂について書かれた看板が立っています。

それによると、和気清麻呂は奈良時代から平安時代に活躍した人物で、769年、僧侶「道鏡」が偽りの神託を用いて皇位を奪おうとした時、宇佐八幡の神託によりこれを阻止しました。道鏡の野望を阻止し、国家の危機を救いましたが、道鏡の恨みを受け、この地に追いやられたという事です。
その後、道鏡は失脚したため、和気清麻呂は1年後許され都へ帰り、その後は長岡京や平安京の遷都、治水工事など多くの土木工事や善政を行った人物だそうです。

道鏡は失脚したため、和気清麻呂は1年後許され都へ帰り、その後は長岡京や平安京の遷都、治水工事など多くの土木工事や善政を行った人物だそうです。

都に戻ってからは、桓武天皇の信頼を得て平安京遷都などに尽力したすごい人がここに流されていたなんて初めて知りました。
でも、この場所に流されたってどうしてわかったのでしょうか?
その経緯も別の看板に書かれています。

都に戻ってからは、桓武天皇の信頼を得て平安京遷都などに尽力したすごい人がここに流されていたなんて初めて知りました。

時は流れ、江戸時代、薩摩藩の藩主だった島津斉彬公が関係しています。

和気清麻呂が去って歳月が流れ、いつしか和気が流された住居の所在が不明となっていました。そこで薩摩藩主島津斉彬は、当時公卿だった近衛忠煕卿、三条実美卿から和気公の謫居(罪によって遠い土地へ流された、その住居)の遺跡調査を託されました。そこで斉彬公は八田知紀という人に調査をさせ、その遺跡を現在の犬飼瀑布の辺りに発見し、この地が流された場所と確定しました。この報告を受けた斉彬公は、実際この地を訪れ、和気清麻呂公を偲び、記念の松を手植えされたそうです。その松は枯れてしまいましたが、昭和12年に斉彬公の孫にあたる島津忠重侯爵が松にかえ楠を手植えされ、今もその楠は
石碑の両側にそびえたっています。

昭和12年に斉彬公の孫にあたる島津忠重侯爵が松にかえ楠を手植えされ、今もその楠は

なぜ1000年以上も前の人の流された場所を、幕末に調査させたのでしょうか?
それは、天皇に忠誠を尽くし、皇統を守った人という事で幕末に顕彰された一人だったからだそうです。

奈良時代から平安時代に活躍した和気清麻呂が幕末の島津斉彬にも関係があり、しかも坂本龍馬夫妻もこの地を訪れているという、歴史的にも注目すべき場所であることがわかり、とても驚きました。

ただ、坂本龍馬夫妻が訪れた時、神社はまだありませんでした。
和気清麻呂を祀るこの和気神社が建立されたのは昭和21年です。

和気清麻呂を祀るこの和気神社が建立されたのは昭和21年です。

そして他の神社とは違って、狛犬ではなく、狛猪?になっているのも特徴的です。
そのいわれも案内板に書かれていました。

そして他の神社とは違って、狛犬ではなく、狛猪?になっているのも特徴的です。 そのいわれも案内板に書かれていました。

簡潔にまとめると、和気清麻呂公は道鏡の恨みを受け、この地に流されることになりましたが、道鏡に皇位を奪われずに皇統を守れたことに感謝して、再び宇佐八幡に参詣しようと豊前の国(今の大分県)の海岸から陸路、神輿を進められました。すると、どこからともなく、約300頭の猪が突然現れて、清麻呂公の神輿の前後を守りながら八幡宮まで約10里の道をご案内したそうです。以来、猪は清麻呂公の随身、または神使として崇められ、このことから、狛犬のかわりに雌雄一対の霊猪を安置しているそうです。

猪は清麻呂公の随身、または神使として崇められ、このことから、狛犬のかわりに雌雄一対の霊猪を安置しているそうです。

狛犬ではなく、猪というのは、和気清麻呂と猪が深いかかわりがあるという事がわかりました。
そして、参拝を済ませ御朱印を頂きました。

狛犬ではなく、猪というのは、和気清麻呂と猪が深いかかわりがあるという事がわかりました。 そして、参拝を済ませ御朱印を頂きました。

「我獨慙天地」と書かれています。これは、和気清麻呂の言葉で「我獨り天地に慙づ(われひとりてんちにはず)」と読むそうです。
意味は、世の中の人がどうあっても、自分一人だけは天地の澄みきった心に照らして恥じることのないように、また自粛自戒を心がけ、謙虚に正しい道を歩もうということだそうです。

和気清麻呂の人となりを感じる言葉で、心に響きます。
和気神社の背景をいろいろ学べ、意義深い訪問でした。

訪問した場所は多くはありませんが、旅しながら、霧島は古からの歴史が脈々と受け継がれている場所であることを再確認しました。
和気神社を後にし、今度は車で10分ほどの嘉例川駅を訪ねました。
そして翌日は、鹿児島神宮、日当山西郷どん村などに行きました。
そのことは、次回ご紹介します。

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