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「歴史」

戦争体験記vol.8 73年前の長崎原爆投下の日、私は7歳の少女だった


執筆者:

長崎の原爆投下で壮絶な体験をした女性がいます。
久保清子さん79歳。今では数少ない鹿児島市に住む被爆体験者のひとりです。
爆心地から1.5キロで被爆した7歳の少女が体験した原爆とはどのようなものだったのでしょうか。

久保清子さん(79) 鹿児島市在住久保清子さん(79)
鹿児島市在住

73年前の8月9日、午前11時2分

それは、ちょうどお昼前の時間でした。当時、長崎市の銭座国民学校の一年生だった清子さんは、自宅から離れた小高い山にあった家の防空壕の前で友達と遊んでいたそうです。

お母さんが、家から持ってきてくれるおにぎりを楽しみに待っている時でした。

1945年8月9日 長崎原爆投下時のきのこ雲 (撮影者:米軍・長崎原爆資料館 所蔵)1945年8月9日
長崎原爆投下時のきのこ雲
(撮影者:米軍・長崎原爆資料館 所蔵)
※写真の無断での二次使用(転載)は出来ません。
許可が必要です

「ピカ―ッと、光ったんですよね。あれ?これ何だろう?って。

その光が、雷さんが何千倍も集まったような、もの凄く眩しい綺麗な光でした。その後すぐ、もの凄い爆風が襲ってきて、もう暑い、暑い。

世の中が夜みたいに真っ暗闇になって…慌てて、防空壕に走りこんだですよ。でも、ここ(胸から)上しか入ってなくて、おしりは出て
たんでしょうね。

しばらくしたらスカートが熱くなって、あれ、何だろうと思って触ってみたら、スカートの切れ端が手に付いてきたんですよ。あら、燃えてるって。

『お母ちゃん、お母ちゃん、燃えてるよ~スカートが燃えてる~助けて~』って泣いて叫びました。」

清子さんは、土にコロコロ転がりながら、燃えているスカートの火をもみ消したそうです。

お尻には今もその時の火傷の傷が残ります。

友達の姿は見えなくなっていました。一人ぼっちになった清子さんは、お母さんを待ち続けました。どのくらいの時間が経ったでしょうか?

倒壊した自宅から這い上がってきた母親と姉の絹子さん(国民学校6年生)が清子さんを探しにやって来ました。二人の顔には割れたガラスの破片がいっぱいつき刺さっていました。

1歳3ヶ月だった妹のソノ子さんは亡くなり、近くで水遊びをしていた弟の勝行さん(5歳)は、水道栓を握りしめたまま動かなくなっていました。

弟はこうやって水道栓を握りしめていました弟はこうやって水道栓を握りしめていました

「弟は、真っ裸で体は真っ赤っかになってね…全身やけどですよね。まだその時は、息があって『お母ちゃん、水ちょうだい、水ちょうだい』って泣くんですよ。

『水無いよ。ごめんね。』って母が言いながら、エプロンの袖を破ってどこかに水を探しに行きました。

しばらくしたら、母がその袖に泥水を吸わせて帰ってきて、それを絞って弟に飲ませました。『チュチュチュチュ』それを吸うんですよ。

『まだちょうだい』って言うけど、母が『もうないよ。ごめんね。』って泣きながら…弟はそこで亡くなりました。」

長崎で被爆した久保清子さん(79)長崎で被爆した久保清子さん(79)

その手に父を感じて…

長崎駅に勤務していた父は爆風で吹き飛ばされ、右足の膝から下を失っていました。

その体で家族を探すために、山手にある防空壕まで上がってきた時のことです。

「『清子、清子』って防空壕の外から声がして、『お父ちゃんだよ。』って言うんですよ。

右目は飛び出して、顔はやけどで顔の皮は首くらいまで下がってて、お化けみたいなんですよ。怖くて、怖くて『お父さんじゃなか』って言ったんです。そしたら、頭を3回撫でながら、『お父ちゃんだよ。』って。あーお父ちゃんだってその時初めて分かりました。」

時折涙ぐみながら、当時を振り返る久保清子さん時折涙ぐみながら、
当時を振り返る久保清子さん

父、タツオさんは、いつも仕事から帰って来ると必ず5人の子どもたちの頭を撫でるのが日課でした。清子さんは、その手に父親を感じたのです。そのお父さんも夜には具合が悪くなり、亡くなりました。残されたのは、母親と姉と兄の4人。生きるために彷徨う日々が始まりました。

助けを求めて…

原爆投下後の長崎市(撮影者:林重男氏・長崎原爆資料館 所蔵) ※ 写真の無断での二次使用(転載)は出来ません。許可が必要です原爆投下後の長崎市
(撮影者:林重男氏・長崎原爆資料館 所蔵)
※写真の無断での二次使用(転載)は出来ません。
許可が必要です

火の手の及ばない山の上の方に逃げて、それから数日間は、畑のカライモを採り、それを食べて飢えを凌ぎました。

長崎駅の隣の長与という駅の近くに、母方の親戚がいるというので、みんなで手をつないで歩きました。

砂利道は固くて、足からは血が流れ、子どもの足には、辛くて長い道のりだったと言います。

「まだ子どもでしょ。『お母ちゃん、お腹空いたよ~足痛いよ~』って言って、お母さんを困らせたような気がします。

ようやく、おじさんの家に着いたら家には上げてもらえませんでした。『原爆を浴びているから、家には上げられん。原爆が子どもたちにうつるから。』と断られたそうです。」

根も葉もないデマが広がっていました。他の親戚の元も訪ねましたが、同じでした。

その頃から、母親のテツ子さんは、時々血を吐くようになり、目に見えて具合が悪くなっていきました。そして、子どもたちを残して亡くなりました。33歳でした。

「お姉ちゃん(国民学校6年生)とお兄ちゃん(国民学校4年生)と私と、『お母ちゃん、起きてよ。起きてよ~』って一晩中泣きました。

小舟の上で亡くなったお母さんを岸に降ろしてくれた船頭さんが『死んだらいかんよ。』って言ってくれて、お母さんを岸辺に残して、3人で長崎市内に戻りました。

市内に戻るともう亡くなった人ばっかりで、お姉ちゃんに『喉乾いたよ~お水ほしいよ~』って言ったら、『近くに 浦上川があるから行ってみよう。』って行ったんですよ。

そしたら、もうそこは、亡くなった人がもういっぱいで、男の人か女の人かも分からなくなってて。亡くなった人が、重なり合ってて、人で水が流れないんですよ。水、水、って言いながら、亡くなっていった人たちですよね。忘れられません。」

ひとりぼっちになって…

その後、兄も姉も相次いで姉も兄も亡くなり、清子さんはひとりになりました。戦後は、熊本にいた父方の祖母の元に引き取られました。
「おばあちゃんとふたりで掘立小屋みたいなところで暮らしました。

おばあちゃんも病気がちで、その看病で学校にも十分には行けなかったです。日曜日になると、一日中、農家の赤ちゃんの子守りをしてね。

あっちの子守り、こっちの子守りをして回りました。一日働いたら、日当にお米を一升もらえるんです。『お母ちゃん、お父ちゃん、なんでみんな死んじゃったの。』って、よく泣きました。」

ある米兵の証言を聞いて…

清子さんにとって、家族を奪った原爆に対する憎しみは消えることはありませんでした。

でも、10年ほど前、長崎原爆の爆弾を投下したという年老いた元アメリカ兵の証言を、ふとテレビで聴き、思いを新たにしました。

「もうおじいさんになったその人が、B29から原爆のスイッチを押すとき、十字を何度も胸で切りながら、『ごめんなさい。許して下さい』と祈って、スイッチを押したと言っていたんですよね。

その後も夜になると、うなされて眠れない日が続いたと話していました。あ~この人も辛かったんだなぁって、思ってね…国の命令でしょ。従わなければ、帰れないわけでしょ。

だから、こんなこと絶対にしたらダメです。勝てば幸せになるとみんな信じて戦ったわけでしょ。でも誰も幸せにしてこなかったんですから。」

鹿児島市の中学生に体験を語る清子さん(去年5月)鹿児島市の中学生に体験を語る清子さん
(去年5月)

平和の語り部となって

清子さんはその後、縁あって鹿児島の人と結婚、3人の子供にも恵まれました。夫はすでに他界、ひとり暮らしですが、子どもたちもそれぞれの家庭を持ち、今は幸せだと話します。

「でもねぇ、原爆がなかったら、今頃まだ兄弟姉妹がいて、また違った人生だっただろうなぁって思いますよ。『自分だけ何で生き残ってしまったの?』ってずっと苦しんできました。

今ね、長崎に修学旅行に行く鹿児島市の中学生のみなさんに、お話をさせて頂く活動をしています。行くときに、必ず「お父ちゃん、お母ちゃん、お姉ちゃん、かっちゃん(弟)ソノ子(妹)行って話してくるからね。」って声をかけて行くんです。

今思うと、これが、生き残った私の務めなのかなぁって思います。だから、みんなに代わって『命を大事にしてね。戦争は絶対ダメよ』って話します。

家族のものは、何一つ残ってなくて、両親の顔もしっかりとは思い出せませんけど、子どもたちの前に立つと、不思議とあの時の記憶が自然とワーッと湧き上がってきて、話せるんです。

きっと亡くなったみんなと一緒に子どもたちの前に立たせてもらっているんだと思います。」

今年も8月9日には…

原爆投下後の山王神社(撮影;林重男氏:長崎原爆資料館 所蔵) ※ 写真の無断での二次使用(転載)は出来ません。許可が必要です。原爆投下後の山王神社
(撮影;林重男氏:長崎原爆資料館 所蔵)
※写真の無断での二次使用(転載)は出来ません。
許可が必要です。

長崎に原爆が投下された8月9日の午前11時2分。今年も鹿児島市役所から慰霊のサイレンが響きました。

その近くに住む清子さんはその音を聞きながら、今年も長崎の方を向いて、平和の祈りを捧げました。

「水をちょうだい。」と言いながら亡くなった弟や浦上川で見たたくさんの人たちのことを思って毎年、ボールいっぱいの水を供えて手を合わせます。

7歳の少女が、原爆で家族全員を失い、その悲しみや孤独を背負いながら、79歳になるまで懸命に生きてきた姿を目の前にして、胸が締め付けられるようでした。

「私のような思いをする人をもう二度とつくらないで下さい!」絞り出された一言は、心からの叫びの声でした。

長崎で被爆し、体験の語り部活動を続ける久保清子さん(79)長崎で被爆し、体験の語り部活動を続ける久保清子さん(79)

おわりに

原爆投下から73年。

被爆者の平均年齢82歳を超え、被爆者手帳を持っている方の数もピーク時の4割に減り、この一年間で被爆者手帳所持者は9762人減少しました。(平成29年度・前年度比)

当事者の声を聞くことが出来る時間は、そう多くは残されていません。

命を削りながら「核のもたらす悲劇」を語り続ける当事者の方々の声を聞き、その思いを継承してくことの大切さを改めて思いました。

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