「歴史」

戦争体験Ⅴol.12 ~機銃掃射を受けた母の戦争の記憶~


執筆:

76回目の終戦の日を迎えました。戦争体験者の高齢化が進み、記憶の風化が言われる中で、私たち「てのん」では、少しでも戦争の記録をとどめていきたいと思っています。
今年88歳になった母の語った戦争の記憶を1冊の本にまとめました。
その中から、母が機銃掃射や空襲を受けた戦争の日々をお伝えします。

母が機銃掃射や空襲を受けた戦争の日々

『私が子供だった頃~戦争の記憶~』

4年前、当時中学3年生だった娘が、学校の自由研究として祖母(私の母)から戦争体験を聞きまとめました。これまで、私も娘も、母の戦争体験について、その体験の断片を聞くことはありましたが、じっくりと聞くことはありませんでした。

しかし、母から話をいろいろ聞くと、当時の事をとてもしっかりと記憶していて、当時の子供たちがどのような教育を受け、どのようなものを食べ、どのような凄まじい経験をしていたのか、きめ細やかな戦争の日常を知ることができました。娘が祖母の戦争体験をまとめたことをきっかけに、きちんと記録として若い世代に残したいという思いでまとめたのが、この『私が子供だった頃~戦争の記憶~』です。

私が子供だった頃~戦争の記憶~

母は、鹿児島県の薩摩川内市で生まれ、昭和20年当時は、鹿児島県立川内高等女学校の生徒でした。
本では、戦時中の教育、勤労奉仕の日々、空襲への備えなどいろいろまとめていますが、今回は、機銃掃射や空襲を受けた戦争の日々についてお伝えします。
以下、母の戦争体験の話です。

『私が子供だった頃~戦争の記憶~』から

川内も空襲はじまる

現在の薩摩川内市現在の薩摩川内市

昭和20年4月1日、アメリカ軍が沖縄本島に上陸。日本国内で唯一の地上戦である沖縄戦が始まりました。そして、日本軍は、アメリカ軍の次の上陸地を吹上海岸と想定し、その防衛のため、陸軍兵が次々と南下してきていました。南九州には、出水・鹿屋・鹿児島等に飛行場があり、その攻撃のため、アメリカの爆撃機が来襲するのは、時間の問題とされていました。(川内市史より抜粋)

そして、とうとう、川内でも空襲がはじまります。3月に初めての空襲があり、その後しばらくありませんでしたが、6月から8月の終戦を迎えるまでのおよそ3か月間は連日空襲に見舞われました。鳴り響く空襲警報・爆弾投下・機銃掃射、毎日が死と向かい合わせの恐怖と緊張の日々でした。

以下、川内市史に、川内市が空襲にあった日が書かれていましたので、それをもとに簡単に列挙したいと思います。

  • 3月18日・・初めての川内空襲(出水・鹿児島・鹿屋等に機銃掃射と爆撃。その通路に当たる川内上空でも、これを追尾してきた日本機との間に銃撃戦が展開)
  • 6月18日・・鹿児島市が焼夷弾攻撃を受け、灰燼に帰す。
  • 6月21日・・グラマン数機来襲。川内駅と新田神社外苑が機銃掃射を受ける。
  • 7月16日・・機種不明機数機来襲。川内駅に百キロ爆弾投下。
  • 7月27日・・小型機二十余機来襲。川内駅付近被爆。
  • 7月29日・・小型機十余機来襲。市街地を機銃掃射。川内駅には爆弾投下。
  • 7月30日・・グラマン他数機種、合わせて30余機来襲。・・この日の攻撃は、川内では最大のもので、1時間おき位に6回にもわたって来襲した。
  • 8月1日・・・中型爆撃機コンソリデーテットB24を含む多数の米機来襲。
  • 8月11日・・グラマン・ロッキード・B29等多数が川内市街地上空に殺到。

川内市史に載っているだけでも、川内でこれだけの空襲があったのです。川内市史には、当時隈之城小学校に勤務していた先生の日記も一部が載せられており、それによると、上記の空襲以外にも、この時期は、連日空襲があったと書かれています。私もそうだったと記憶しています。

この空襲の日々、私が体験した事について、日付は記憶していませんが、具体的に書きたいと思います。

機銃掃射される

7月だったと思います。川内高等女学校への登校は、敵機から気づかれにくくするために、学年ごとに時間を変えて登校する時差登校になっていました。その日、私は、一人で田んぼのあぜ道を歩いて登校していました。突然「ピシッ。ピシッ。」という、空気を裂くような音がしました。

びっくりして音のする方の空を見上げたら、アメリカの戦闘機(グラマンかロッキードだったと思います。)が見え、プロペラのあたりからオレンジ色の火花が出ているのが見えました。5機の編隊でした。5機の戦闘機は、超低空飛行で、一瞬見た感じでは、木立の木の少し上を飛んでいるように見えました。

「アッ。狙われた!」と思いました。私は、すぐに近くの土手の中に飛び込み、伏せました。その土手は、じめじめしていて、ヘビがいそうで、普段は、絶対に入りたくないような場所です。しかし、とっさに、そういう行動をしていました。

戦闘機は、ピシッ、ピシッ、と機銃掃射をしながら、サーッと向こうの方に飛んでいきました。私が歩いていた場所は、山や障害物がない、広い平野の田んぼ道でしたから、人が歩いていたら目立つでしょうし、戦闘機も超低空飛行ができたのだと思います。一瞬の出来事でしたが、私は、土手に身を伏せたおかげで、命を落とさずにすみました。しばらく様子を見て、大丈夫そうだったので、そのまま学校に登校しました。

機銃掃射を受けた薩摩川内市中郷町付近機銃掃射を受けた薩摩川内市中郷町付近

その日の夕方、学校から帰ってくる途中そのあたりを見てみますと、二十センチ位の薬きょうがいくつか落ちていました。二段式の金色をした薬きょうでした。近所のおじさんたちは、地金はお金になるからといって、その薬きょうをひろっていました。今思うと、私も一つくらい薬きょうをひろっておけば、戦争の怖さを伝える資料になったのになあと思っています。

資料 機銃掃射で撃ち込まれた弾(4年前に開催された 『軍都 久留米の風景とくらし』より)資料
機銃掃射で撃ち込まれた弾(4年前に開催された
『軍都 久留米の風景とくらし』より)

空襲の日々

その頃は、連日空襲警報がなりました。空襲警報の音は「ウォーン、ウォーン」と、低く不気味な音でした。昼夜を問わず鳴りました。空襲警報が鳴ると、防空頭巾をかぶり、防空壕に避難します。その頃は、すぐに避難できるよう、寝る時もねまきなどに着替えず、昼間の恰好のままでした。そして、枕元には防空頭巾を置いて寝ていました。母は小さい妹たちをすぐおんぶできるよう、枕元におんぶ紐も置いていました。

はじめの頃は防空壕に避難していましたが、しばらくすると、集落のだれかが「空から見ると、穴を掘った防空壕のところは、他の土よりも白っぽく見えるらしい。逆に、あそこに防空壕があるとねらわれて危ないそうだ。」と言ってきました。そこで、それからは防空壕に逃げることをやめ、家の近くの木がこんもり茂っている小川の土手に逃げるようにしました。そこは土手が高くなっていて、上に覆いかぶさるように木が茂っていましたので、空から見ても人が隠れているようには見えない場所でした。

7月30日か8月1日の、川内市街地が一番の空襲にあった日のことではないかと思います。川内市街地や川内川に架かる鹿児島本線の鉄橋に、集中的に爆弾が落ちるのを、家の近くの竹林から近所の人たちと見ました。

大変な爆弾投下でした。B29が何機も川内市街地の上を飛び、次から次に爆弾を落としていきます。特に鉄橋や太平橋には、繰り返し繰り返し爆弾が落とされていました。交通路を断とうという狙いがあったと思います。飛行機の旋回する音、爆弾を落とされ、「ダーン。ダーン」という地を伝わってくるような音。あちこちからどす黒い煙や炎が立ち上り、この世の事とは思えない恐ろしい光景でした。

両手を合わせながら「南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏」とお念仏を唱えている人もいました。また、あるおじさんは「そごましか(とてもたくさんの)爆弾が落ちるもんじゃ。まるで、ウンコがぽたぽた落ちるようじゃ」と言っていました。敵の攻撃のあまりのすごさに、ただただ恐ろしくてなりませんでした。

川内川にかかる太平橋(国道3号線が通る)川内川にかかる太平橋(国道3号線が通る)

 

鹿児島本線の鉄橋・・鉄橋と太平橋に集中的に爆弾が落とされた鹿児島本線の鉄橋・・鉄橋と太平橋に集中的に爆弾が落とされた

別の日のことです。私たちの住んでいる中郷町にも爆弾が落とされました。お昼頃、空襲警報が鳴りました。私は、他の家族と一緒に近くの土手に(前述の川の土手)避難しました。しばらくして上空を飛行機が飛ぶ音が聞こえてきました。その音からB29である事が想像できました。

すると、突然「ダダダダーン」という、耳をつんざくようなものすごい音がして地面がゆさゆさと揺れました。その鼓膜がやぶれそうな音のすさまじさと体に受けた衝撃から「あっ、もう命がない。もう死んだ」と思いました。しばらくがたがた震えながら、みんなで体を寄せ合って空襲がおさまるのを待ちました。

B29が、私たちがいた場所から500メートルほどの所にあった天神池を狙って爆弾を落としたのです。大人たちは、敵がその池を貯水池だと思って、爆弾を落としたのではと話していました。

爆弾が多数落とされた天神池付近爆弾が多数落とされた天神池付近

 

焼夷弾実物大模型(軍都 久留米の風景とくらしより)焼夷弾実物大模型(軍都 久留米の風景とくらしより)

その日の空襲が終わってあたりを見渡すと、池の周りの田んぼにもたくさんの爆弾が落とされていました。私たちが避難していた場所から200~300メートルのところです。爆弾の落ちた場所がもう少しずれていたら、私たち家族の命はありませんでした。

爆弾が落ちた後は、家が一軒すっぽり入るのではというくらいの、大きなすり鉢状の穴が出来ました。そういった穴が田んぼのあちこちにできて、雨が降って水がたまり、小さな池のようになっていました。

現在の薩摩川内市中郷町・・昔は田畑が広がり家は点在しているだけだった現在の薩摩川内市中郷町・・
昔は田畑が広がり家は点在しているだけだった

別の日の空襲で、隣に住んでいた叔父の家と、私の家の納屋が被害を受けました。幸い私の家は空襲をまぬがれました。焼夷弾が落とされ、叔父の家が火に包まれました。その火が私の家の納屋にも飛び移ったのです。私は、近所の人や家族と一緒に消火活動を手伝いました。防火用水に防空頭巾を入れて濡らし、燃える隣の家から和ダンスや、家財道具を運び出しました。火事場の馬鹿力といったりしますが、大人でも一人ではかかえられないようなタンスを、一人で持ち出したりしました。みんなが、住む家は焼け落ちても、少しでも家財道具が残るようにと必死でした。

今でも「ウオーン、ウオーン」と不気味に鳴り響く空襲警報のサイレンの音が耳に残っています。

空襲が本格的に始まっていない頃は「敵機が攻撃してきたら自分たちがやっつけるのだ」という思いを強く持っていましたが、いざ空襲が始まると、そのすさまじい攻撃から逃げることに必死で、自分たちの力ではどうすることもできないことを思い知らされました。
「明日は命がないかもしれない・・」と大きな不安を抱えての日々でした。

このように空襲が繰り返され、住み慣れた町が焼き尽くされる・・こうした事は日本の至る所、大都市でも、小さな町でもあったのです。

川内市史によると、川内市の焼失家屋は二千戸以上、死者54人、重軽傷者131人となっています。そして、罹災した川内市の主な公共の建物は、市役所・公会堂・警察署・郵便局・裁判所・税務署・川内駅・川内中学・川内高等女学校・・などとなっています。

私が当時通っていた、青桐の並木の美しい、立派な校舎だった川内高等女学校も焼失しました。

川内高等女学校跡川内高等女学校跡

 

石碑には「昭和20年7月30日戦災により校舎消失」と記されている石碑には「昭和20年7月30日戦災により校舎消失」と記されている

1945年
7月26日・・連合軍がポツダム宣言を発表する
8月6日・・広島に原子爆弾が投下される
約20万人の市民が犠牲になる
8月9日・・長崎に原子爆弾が投下される
約9万人の市民が犠牲になる
8月14日・・日本がポツダム宣言を受け入れる。
8月15日・・天皇「終戦」の詔勅放送

終戦の日

その日は、朝から抜けるような青空が広がっていました。朝、重大発表があるという事で、集落の人たちがラジオのある家に集まりました。ラジオから玉音放送が流れます。天皇陛下が終戦の詔書を読まれました。

「・・堪え難きを耐え、忍び難きを忍び、以て萬世のために太平を開かんと欲す・・」
日本が連合国に敗れ、ポツダム宣言を受け入れることにしたというものでした。

日本は負けました。

大人たちは泣いていました。ある年配の男性が、悔しさのあまり「負けるのはわかっちょった」と吐き捨てるように言って、周りの人からとがめられていました。放送が終わってしばらくは、まわりの風景が真っ白に見え、音もしない世界にいるようでした。その後、田んぼのあぜ道に立ちあたりを見渡しました。抜けるような青空に入道雲。そして、夏の日差しがふりそそぐ田んぼ、すべてのものが静止して見えました。

戦争は終わったんだ

空の高い高い上空を、白い飛行機が編隊を組んで飛んでいました。空襲の時は、もっと低いところを飛んでいた、アメリカの戦闘機です。おそらく凱旋飛行をしていたのでしょう。音もなく、ゆっくりと空を横切って行きました。

太平洋戦争によるアジア各国の犠牲者
日本・・約310万人   朝鮮・・約20万人
中国・・約1000万人  フィリピン・・111万人
ベトナム・・約200万人 インドネシア・・400万人

あの時代を振り返って・未来にむけての思い

戦争が始まる前は、質素だけれどものどかな日常があり、美しく広がる田園風景の中で、私たちはのびのびと穏やかに暮らしていました。しかし、戦争によってその生活は本当に一変しました。十代の前半は、勤労奉仕・食糧難・空襲・・とさまざまな苦労を味わい、困難と戦いながらの毎日でした。

想像してみてください。小学生が霜の日もはだしで登校し、勤労奉仕をさせられた日常を・・。いつ空から爆弾が落ちてくるかわからない、いつ機銃掃射にねらわれるかわからない、そんな死と隣り合わせの日常を・・。そして、住む場所を失い、大事な人を失い、青春を失い、さまざまな大切なものを失った人々がどれほどたくさんいたことか・・

しかし、この困難な状況の中であっても決して絶望的にならず、「強く生きよう」「みんなで力を合わせて乗り越えていこう」とみんなが必死に生きてきた時代だったと思います。

この時代を生きてきた私たち世代が若い人たちに伝えたいこと。月並みな言葉かもしれませんが、心の底から強く願うことは「平和の大切さ」です。戦争のない社会です。戦争は、戦地に行った兵隊だけではなく、その家族・残されたすべての人々が巻き込まれ、すべての人の穏やかな日常を奪います。そして戦争では、人が人の命をためらうことなく奪う、恐ろしい状況が生まれるのです。平和な日々は人々の心を豊かに育みますが、戦争は人の心を悪く変えていきます。

広島・長崎への原爆、沖縄の地上戦、東京大空襲・・日本各地で、さまざまな、悲劇が起きました。そして、この私たちの住んでいた川内でも、戦争の現実があったことを忘れないでほしいと思います。

そして、今なお世界の各地でおこっているさまざまな争いに心を痛めています。私たちの子どもや孫の時代、そして将来にわたってずっと戦争に巻き込まれるような時代にならないことを強く願っています。

戦争は二度と繰り返してはいけません。

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