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「歴史」

戦争体験記vol.9 鹿児島大空襲 火の海から逃げたあの日のこと

執筆:

6月17日は鹿児島市にとって忘れられない日です。74年前の鹿児島大空襲で市内のほとんどが焦土と化しました。

本土南端の鹿児島は知覧、万世、鹿屋、串良などの特攻基地があり、地方都市の中でも特に空襲が激しく、鹿児島市も昭和20年の3月から8月にかけて、8回の空襲を受けました。

特に、この日の空襲は凄まじく2316人が亡くなり、3500人が負傷するという甚大な被害を受けました。鹿児島市の村山徳男さん87歳も鹿児島大空襲を経験したひとりです。

当時、旧制中学1年の15歳でした。

久しぶりの晴天の日

あの日は、久しぶりの梅雨の晴れ間の日だったですよあの日は、久しぶりの梅雨の晴れ間の日だったですよ

「ちょうどムシムシする梅雨の時期でね、前日までずっと長雨が続いていたんだけど、その日は久しぶりに晴れて、日中は、みんな洗濯物や布団を干したりしていましたよ。

私も靴などを洗ったりしました。昼間、叔母が谷山方面に買い出しに行って、たくさんジャガイモを仕入れてきたので、嬉しくて。それを蒸かして叔母と兄と3人で夕ご飯を食べたのを覚えています。

すごく平穏な日だったです。ちょうど寝込んで1時間くらい経った頃だったかなぁ…」

午後11時5分、突然の空襲

それは、突然のことでした。

鹿児島大空襲を体験した村山徳男さん(87)鹿児島大空襲を体験した村山徳男さん(87)

「あの夜は、警戒警報も空襲警報も無かったんです。

バサッ、バサッ、ゴウ―、ゴウ―という異様な大きな物音で目が覚めて、慌てて裏の戸を開けたら、わが家のまわりは、火の海で、更に空からは火の塊が飛んできていました。焼夷弾の嵐でした。」

徳男さんの家は、鹿児島市の中心部の天文館近く(樋之口町)にあり、10人家族でしたが、空襲が激しくなったため、母親は妹2人と弟2人と共に、鹿児島市郊外の小山田に疎開していました。

家に残っていたのは、父親と2歳年上の兄(旧制中学3年)、母方の叔母と寝たきりの祖父の5人でした。新聞社に勤めていた父親は、この日夜勤で不在でした。

寝たきりの祖父を残して

「すぐに逃げなきゃと思いました。うちには、九之助お爺さん(父方の祖父)がいて、長い間寝たきりだったんです。

動くことも、動かすことも出来ませんでした。助けたいと思いましたが、とても無理で、自分たちの手では助け出すことは出来ませんでした。そのまま祖父をおいて、兄と叔母との3人で、近くの防空壕に飛び込みました。」

向かったのは、すぐ近くの空き地にあった防空壕。当時、延焼防止のために、強制的に建物を取り壊す「建物疎開」が実施されていて、あちこちが空き地となっていました。

徳男さんが逃げ込んだ防空壕も、建物疎開でできた空き地に造った、とても簡易なものでした。

「逃げてきた近所の人たちと身を寄せ合って、そのままじっとしていました。でも、しばらくすると、むさ苦しい煙が壕の中にどんどん入ってきて息苦しくなってきて、身の危険を感じました。

すると兄が『ここにいたら危ない。逃げよう。』と言って防空壕から飛び出しました。

後で、この夜の空襲で防空壕の中にとどまった人たちが、たくさん焼死したり窒息死したりしたという話を聞きましたから、あの時の兄の判断が無かったら助かっていなかったかもしれませんよね。」

火の手を逃れて

3人は壕を出て、火の気のない方向を目指しました。

途中、母親らしき人が倒れていて、小さな子ども4人が、『お母さんを助けて』と叫んでいるのを見ましたが、みんな自分たちのことで精一杯で、そのまま通り過ぎていきました。

残してきたお爺さんのことが頭によぎったそうですが、とても助け出す余裕などなかったと自分に言い聞かせながら必死で逃げたそうです。あたりはどこも火の海で、天文館方向に行こうとしても、逆方向に行こうとしてもダメでした。

するとその時、二人の若い水兵さんが「こっちがいいぞ。」と大きな声で叫びました。

「そこには海岸方向に抜ける道があって、ようやくたどり着いたのは、岸壁近くの材木置き場でした。今の中央埠頭のあたりが広場になっていて、逃げてきた人たちがいっぱい集まっていましたが、みんな黙ったままで、喋る人はいませんでした。

私は寝間着一枚でパンツも穿いていなかったですよ。あの頃は、衛生状態が悪くて、家中にノミやシラミがいっぱいいたんです。駆除剤も全くないでしょ。布団の中もノミがいっぱいいて、パンツを穿いてたら、痒いところにすぐ手が届かないんで、いつもパンツは穿かないで寝てたんです。

夜中に、そのまま飛び起きて、逃げたでしょ。みんな着のみ着のままの姿でしたよ。」

材木置き場に辿り着いた時に、初めて「助かった。」と思ったそうです。そのまま力が抜けて、丸太の上に腰かけてウトウトしていたら、足元がモゾモゾしてきて目が覚めました。すると、ものすごい数のノミが足元から這い上がってきていました。

「もう痒いどころじゃありません。市内中のノミが、火を逃れるために、ピョンピョン跳ねながらここに集まって来たんじゃないかと思うくらいでした。」

総務省の鹿児島市における戦災の状況より

米軍機は一時間以上にわたり、波状的に焼夷弾の投下を繰り返した。鹿児島市に投下された、この夜の焼夷弾は13万個(推定)(「鹿児島市史」)とみられ、わずかの時間で鹿児島市内は火の海と化した。

夜が明けて

明け方になって家にもどったら、一面焼け野が原となっていました。

「あたりを見渡すと、照国神社の鳥居、高島屋、山形屋の建物だけが残っていました。祖父は仰向けになって亡くなっていました。焼死でした。『助けられなくてごめんね。』と心の中で語りかけて、手を合わせました。

新聞社の夜勤から帰って来た父が、大きな樽を見つけてきて、祖父の遺体を樽に入れて運ぼうとしていましたが、兄と私は手伝うでもなく、それをじっと眺めているだけでした。

父は何も言わずに黙々とやっていましたが、助けることが出来ず、ひとりで亡くなった祖父を見て、あの時どんな気持ちだったんだろうと思いますよね。」

徳男さんは、兄と叔母と3人で母たちの疎開先の小山田を目指しました。小山田までのおよそ20キロの道のりは、はるか遠くに感じられました。

途中、雨が降り出して、小さなトタン板を見つけて、それを雨よけにしながら歩きました。疲れ果てて、トボトボと歩く姿は、本当に憐れだったと話します。

市街地では、家屋の入口に、空襲で亡くなった人たちが10体ほど転がっていました。伊敷を過ぎて河頭に入ったところで小さなバスを見かけて乗り込みました。満員状態でしたが、何とか乗ることができ、ようやく母親のところに辿り着きました。

「私たちの顔を見た途端、母は涙を流して喜んだですよ。安否がわからず、もうダメだったのかもと思っていたんでしょうね。あの日に、母が作ってくれたご飯と筍の味噌汁の美味しかったこと、あの味は、今も忘れられません。」

疎開先での生活

疎開先でも平穏な暮らしは続きませんでした。

機銃掃射は超低空飛行で敵兵の顔が見えました機銃掃射は超低空飛行で敵兵の顔が見えました

「ある日の午後、川遊びをしていたら、近くの小山田小学校に向かって、数機の戦闘機(ロッキード)が機銃掃射を始めたのです。

本土決戦に備えて、各学校に軍隊が常駐していたんで、それが狙われたんでしょうね。ものすごく低空で飛んできたので、パイロットの顔がはっきり見えました。

流れ弾が、うちの近くに住んでいたおばあさんの頭に当たって即死したって聞いて、怖くなりました。翌日にも低空飛行の銃撃があって、その頃からみんな戦々恐々となっていきましたよね。

それからは、家にいても爆音がきこえたら、すぐ近くの防空壕に飛び込むようになりました。そのブーン、ブーン、ブーンという音が、当時のトラックやバスが走る時によく似ているんですよ。

その音がしたら、すぐ外に出て確かめるようになりました。それが、私たち子どもたちの役目になりました。」

終戦を迎えて

村山徳男さん(87) 鹿児島市在住村山徳男さん(87) 鹿児島市在住

「戦争が終わったと聞いて、本当に嬉しかったですよ。

国民学校の6年生の時に、私は少年航空兵に憧れて、親に志願したいと申し出るほどだったんですが、旧制中学に入ってからは、勉強どころでは無くなって、軍事訓練に明け暮れる毎日でしょ。

サイレンが鳴ると編み上げ靴の上にゲートルを巻いて、学校を守るために夜中でも、急いで駆けつけていましたよ。当時、学校に配属された将校は厳しくてね。

その時は、それが当たり前と思っていましたが、終戦の日から、爆音にビクビクすることも無くなって、家の中の電球の黒幕を外して、久しぶりに明るい生活が戻ったでしょ。嬉しくて、何とも言えない開放感がありました。」

開放感を感じながらも、徳男さんは、戦後数年間、就寝中に敵機の機銃掃射を受けて、隠れ場所が無くて右往左往する夢を見て、目が覚めることが度々だったと話して下さいました

空襲で受けた恐怖心と重圧は、戦争が終わった後も、そう簡単には消えることはありませんでした。

村山さんは、去年8月、戦中、戦後の苦しい時代を過ごした経験談を文章にまとめました。

戦争体験を記録に残そうと戦争体験を記録に残そうと
パソコンに向かう日々でした…パソコンに向かう日々でした…
パソコンに向かう日々でした…パソコンに向かう日々でした…

子どもや孫など身内の人たちの何かの道標になればと思ってのことでした。

「私の経験はまだ良い方だと思います。戦地に行った方、外地から引き揚げてきた方、空襲で多くの家族を失った方など、私たちより、もっと難儀したり、苦しんだ方々がたくさんおられたんですから。

思いっきり勉強できて、食べ物があって、今、当たり前にあることが、当たり前じゃなくなるのが戦争。戦争なんて馬鹿なこと、絶対したらいかんです。そのことを伝えたくて…」

一緒に暮らしていたお爺さんを残したまま逃げるしかなかった村山さんの鹿児島大空襲でのお話を聞いていて、戦争が弱い人たちにとって、いかに過酷で残酷なものであったかを知りました。

空襲の夜に、そんな悲しい生き別れが、どれほど多くあったことでしょう。

8回にわたる空襲で鹿児島市が受けた被害は、亡くなった人3329人、負傷した人4633人、行方不明35人、その他10万7388人、合計11万5385人(総務省・鹿児島市における戦災の状況より)に及びました。

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