大陸に渡った父親の仕事の関係で、幼いころ南京で暮らしていた伊藤達郎さん(86)。前回、戦中戦後の南京での暮らし、体験などをお伝えしましたが、2回目はその続きです。南京での空襲、終戦、そして、抑留生活の後、海王丸に乗って苦労しながら日本に引き揚げてくるまでをお伝えします。
今回、てのんに手記をお寄せいただき、戦争中の体験についてご紹介するのは、神奈川県海老名市にお住いの伊藤達郎さん(86)です。
昭和15年、3歳の時に父親の働く南京へ家族と一緒に渡り、昭和21年初頭、中国の黄浦江から引き上げ船に乗って日本に戻って来るまでの5年半を南京で過ごしました。南京での日常の暮らしや、軍事教育、日本兵の軍事訓練の様子などについては前回お伝えしました。

今回は、その続きをお伝えします。
空襲と防空壕と機銃掃射
昭和19年夏ごろからB29による空襲が始まったように記憶しています。南京には木造の建物がほとんど無かったので、焼夷弾は無効という事で、高度から爆弾投下が行われました。昼間の空襲の様子を目撃しました。B29からバラバラと投下された爆弾が、日の光を浴びてキラキラと輝いて見えました。日本人は裏の空き地に作った、近所の人たち共同の大きな防空壕に避難しました。これを見て中国人が笑いながら「これでは直撃弾を喰らったらワンラ(おしまい)だ。我等は全財産を背負って飛行機の進路と直角方向に走って逃げるよ」と言っていました。この話を父にすると「爆弾よりも味方の高射砲弾(飛行中の飛行機を主な目標として地表から射撃する火砲)の破片の落下から身を守るためだ」と説明してくれました。どちらが正解かはわかりませんが、高射砲弾の破片を実際見たときは、防空壕も有効だと思いました。
家の前は道路を挟んで1000坪はあろうかと思える大きな広場で、真ん中には10m以上の高さの大木が生えていました。地面は整地されていて、いろんな行事が行われました。そこで弟と遊んでいた時、P51が1機超低空飛行でやってきて、いきなり機銃掃射を始めました。2人で慌てて近くのトウモロコシ畑に逃げ込みました。目の前を着弾の土煙が2条走り去りました。他に人影はなかったので、明らかに私たちを狙ったものでした。後で着弾の跡を掘ってみましたが、銃弾は見つかりませんでした。
原爆投下と玉音放送
原爆投下
いずれの情報も、最初は学校の行き帰りに挨拶を交わす歩哨に立つ日本人の兵隊さんたちから得ました。日本はすごく強力な新型爆弾を開発したので、この戦争は心配ないという誤った情報でした。家の近くまで来たとき、顔見知りの中国人の大人が手招きをしました。何かくれるのかと近づくと「新型爆弾をしっているか?」と聞きます。私は胸を張って「日本が開発した爆弾で、それがあるから日本が勝つよ」と答えました。すると彼は大きく手を振って「ファントイ、ファントイ(反対だよ)」と言いました。急いで家に帰り、母に事の真相を尋ねても顔を曇らせるだけで言葉を濁しました。おそらく日本に原爆の投下があったことを母は知っていたのだと思います。
玉音放送
その日は、学校から早い時間に帰されました。夏の暑い日でした。いつも通り過ぎる歩哨小屋では別の兵隊さんが道路にホースで水撒きをしていました。そして私に「とうとう日本は勝ったよ」と柔和な顔で言いました。半信半疑で帰宅すると家には近所の大人たちがラジオの前で正座していました。何か重大な放送があるらしいとのことです。家のラジオ受信機は改良型でしたが、東京から1000キロも離れている南京では、雑音に浮き沈みがして聞き取りにくく、普段はめったに使っていませんでした。そんな理由もあり、子供たちは他の部屋で待機していました。どのくらい時間が過ぎたでしょうか。国防服姿の父が出てきて私たち子どもを優しく抱き寄せて一言「日本は負けたよ」と言いました。その目は赤く泣き腫らしていました。私たちはどうしてよいかわからず、不安におののき、ただただ父にすがりついていました。
敗戦国となり抑留生活をはじめる
一転して敗戦国となって、日本人は略奪や報復を恐れて一か所に固まって暮らすことになりました。私たちも長い間お世話になった佣人ともお別れし、路地裏にある集合住宅に5~6所帯で移り住みました。南京に居た日本人は概して中国人と友好的にやっていて、恐れていたことは起きませんでした。それどころか解雇した佣人たちや、近所の中国の人たちが食べ物を差し入れてくれたりしました。ありがたいと思いました。中国の子供たちは、学校も勤労奉仕も無くなって暇ができた私たちと今まで以上に親しく遊んでくれました。
近くの兵舎は兵隊がどこかに退去して無人になっていました。門は閉まっていましたが、鉄条網のどこからでも侵入できました。中に入ると弾薬などが無造作に放置されていました。機関銃や小銃の弾を持ち帰り、中に詰まっていた黒色火薬を帯状に並べて端にマッチで火をつけると導火線のように火が走りました。スリルあるいたずらでしたが、もし弾の撃針に強い力が加わったら爆発して大事故になる所でした。後で思い出してはぞっとしました。
ほどなく、日本人は一か所に集められて全員拘留されることになりました。
日本人の家族は次々に集中営とよばれる抑留地に移転しました。
南京の集中営地は、邑江門を出てすぐのクリークにかかる40m位の橋を渡った左側にあり、鉄条網で囲われた日本では考えられないほどの広大な敷地が充てられました。橋の近くに一箇所出入り口があり、銃を携帯した米中の兵隊が監視していました。部外者は一切入場禁止でした。
門の外側の上部には、巨大なマッカーサーと蒋介石の肖像画が対で取り付けられていました。
住居用に平屋の兵舎のような建物が十数棟ありました。各棟は所帯ごとに仕切られていて、一所帯8畳1間という感じでした。1000人は収容されていたと思います。トイレと炊事場は共同で、診療所もありました。集会などに使う体育館のような建物もいくつかありました。
過酷な抑留体験をされた方も多く、そういう方には申し訳ないですが、集中営での生活は子供にとっては楽しいものでした。
中でも度肝を抜かれたのは総天然色の映画でした。米軍の戦地慰問用が多く、もちろん全て英語なので劇映画は理解できませんでしたが、マンガ映画だけは動きを追うだけでも楽しかったです。はじめて見たカラー映像にはびっくりしました。
終戦後初めての正月も集中営で過ごすことが決定して、母たちは百人一首を作ることになりました。どうせ暇人がたくさんいるので、皆で思い出せば何とかなるだろうと手を付けましたが、大みそかまで残り2首が誰も思い出せなくて、九十八人一首で正月を迎えることになりました。絵の上手い人が綺麗な絵を描き、字の上手な人は手分けして毛筆を振るい、にぎやかな正月となりました。
この集中営にいる間にも、以前お世話になった中国の人たちが、そっと鉄条網の間からいろいろ届けてくれました。本当に心温かい近隣の人たちでした。
集中営を離れて日本へ
正月も過ぎ、昭和21年の1月~2月ごろ、集中営を離れて日本へ向かう事となりました。集中営で遊んでいた1歳の妹が一時行方不明となるなど小さな事件もありましたが、おかげで家族6人全員病気にもならず、暴力にも遭わず、ひもじい思いもせず、元気に出発できました。
居留民が一斉に退出し、歩いて鉄道の駅を目指します。両親は可能な限りの荷を背負い、両手にも持ちます。8歳の私と7歳の弟は、荷物を持ちながら交代で1歳の妹をおんぶしなければなりません。3歳のもう一人の妹も自分の食いぶちのお米を小さなリュックに背負っていますが、誰も手を引いてあげられません。大人の歩く速さに懸命について来るがどうしても遅れがちになります。すこしでも列から離れると現地人に取り囲まれてしまいます。当時、中国では日本の女の子は珍重されていて、ときには売買されると聞かされていたので兄たちは少し戻っては連れ戻します。30分くらいで目的地に到着したので難を逃れましたが、もし、半日の行進だったらどうなっていたかわかりません。こういう事で残留孤児になってしまった人たちもいたのだろうと思います。
無蓋貨車の旅
着いた駅は下関の外れにある旧南京駅だと思います。私たちの指定車は無蓋貨車(屋根のない箱型の貨車)でした。すごく寒い日で先行きが不安になります。貨車の床に荷物を敷き詰めてその上に人がすし詰め状態で乗り込みます。幼子のために誰かが防寒用に車両の前方に毛布で屋根を作ってくれました。ようやく夜になって列車は動き出しました。行く先は上海の港で、当時は客車で2時間半の旅程でしたが、今回は丸1日かかるといわれました。衣服は着られるだけ身に着けたので寒さは辛抱できましたが、トイレには困りました。途中、何度か駅でもないのに停車した貨車から飛び降りて草むらで用を足しましたが、周りには大きなポケットのある前掛けをつけた中国人がたむろしていました。彼らは降りてきた乗客を脅して身ぐるみ剥いでポケットにしまい込むのです。主に屋根のついた有蓋車の乗客が狙われ、幸い私たちの貨車では被害はありませんでした。
黄甫江で足止め
南京を出発した翌日の午後明るいうちに、列車は終点の南停車場に着きました。ところが東シナ海が荒れていて、予定していた引き揚げ船が遅れているそうで、黄甫江(こうほこう)の埠頭に隣接する工場跡(後で聞いたら日本軍の兵器の保管・修理などを行う兵器廠跡だったそうです)に仮泊することになりました。雨露は防げましたが壁はなく、服を着たままでごろ寝しました。ここで1週間足止めとなり、予想外の出費がかさんで、最後は大事に持っていた母の着物を換金して飢えをしのぎました。
海王丸にまたすし詰め
埠頭には4本マストの帆船が2隻接岸していました。1隻は日本丸で、もう1隻は海王丸です。私たちは
海王丸に乗り込みました。かなり大きな船なので少しは手足を伸ばせるかと期待していましたが、状況は貨車に乗った時と変わらずすし詰めで、風呂場にもトイレにも荷物や人があふれていました。
黄甫江は長江が東シナ海に入る前の最後の大きな支流で、そこから本流の長江に出て、そのあと東シナ海へと出ます。長江は河口幅がおよそ50㎞あり、半日航海しても泥色をした長江の流れは続きましたが、中国の大陸は見えなくなっていました。飽きずに水面を眺めていると、父に「もう海に出た。荒れるから船に戻れ」と言われましたが、そのまま留まっていると、やがて海の色が黄色になって、青緑色が増し始めると、うねりが出てきたので船内に入りました。船の揺れはだんだんひどくなって、気分が悪くなる人が続出して、元気なのは子供だけでした。
外に出てみると曇り空でしたが、海のうねりはますます強烈で、波の頂上から谷まで、まるでジェットコースターのようでした。併走する日本丸は、うねりの底に入るとマストの先端しか見えなくなり、沈没したのかと思いました。夕方近くになると徐々に揺れが収まって、大人たちがそろそろと甲板に出てきました。船内のトイレが荷物と人で占領されているので、船のデッキから張り出して作った仮設トイレを使うために出てきたのです。床の穴から垂れ流しです。汚い話ですが、「海の貴婦人」と言われた海王丸の船体は黄色に汚れていました。
鹿児島で再び日本の土を踏む
引き揚げまでの苦労はありましたが、昭和21年1月、もしくは2月に、海王丸は鹿児島港に到着し、5年半ぶりに日本の土を踏みました。その時、ちょうど桜島が爆発していたのを覚えています。
伝えたい思い
お伝えしたのは、あくまでも南京城内の最北部で幼い私が経験した話です。特に興中門や邑江門付近の当時の様子を知る人が少なくなり、その興中門や邑江門という地図から消えた名称や、そこでの体験を後世に伝えたいという思いで手記を書きました。
南京事件については、私が南京に来て最初の記憶のある頃から2年半前の事件です。その事件については膨大な資料があり、さまざまな見解があり、私もいろいろ調べました。
事件後の戦時中に南京に住んでいた、1人の子供だった私のあくまでも個人的な意見ですが、もしそんな惨劇があったとしたら、現地の人たちは日本人に激しい感情を持っていたはずですが、総じて友好的で、私たち家族にも親切にしてくれました。軍紀の乱れもあり、何もなかったとは言えませんが、大惨劇は無かったと信じたい気持ちでいます。
私の場合、幼いころの記憶なので、同じころ南京で暮らしていた日本人の方で、違った思いや経験をお持ちの方もいるかもしれません。
しかし、私の一貫しての思いは、波乱に満ちた幼年時代を育んでくれた南京と現地の方々に心から感謝を申し上げたいという気持ちです。
以上が、伊藤さんの手記からの抜粋です。
鹿児島に着いた伊藤さん家族は、その後父親の実家のある山梨県に行き、そこの小学校に編入しました。
伊藤さんは建築関係の会社を経営していましたが、今は仕事をリタイアし、趣味のアマチュア無線でアンテナなどの研究をされているそうです。
最後に・・
戦時中の南京での日本人の子供の日常がわかる貴重な証言をお寄せいただいたと思っています。
外務省のホームページを見ますと、「南京事件」に対して、日本政府はどのように考えていますか?という問いに対し、「1,日本政府としては、日本人の南京入城(1937年)後、非戦闘員の殺害や略奪行為等があったことは否定できないと考えています。しかしながら、被害者の具体的な人数に対しては諸説あり、政府としてどれが正しい数かを認定することは困難だと考えています。2.先の大戦における行いに対する、痛切な反省とともに、心からのお詫びの気持ちは、戦後の歴代内閣が、一貫して持ち続けてきたものです・・」とあります。
その中の小泉談話の中で、「かつて植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大な損害と苦悩を与えました。こうした歴史の事実を謙虚に受け止めて、改めて痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明するとともに、先の大戦における内外のすべての犠牲者に謹んで哀悼の意を表します。」と述べています。
国を問わず多くの方の犠牲、悲しみ、苦しみ、別れ、涙・・一言では言い尽くせないような様々な悲惨な事実があったことは確かです。
戦争体験者の証言を伺うたびに、新たな戦争の事実を知り、考えを深めることができます。
こうした戦争の様々な事実を、私たち戦後生まれの世代がしっかりと受け止めて、さらに次世代につなげていくことが大切だと思っています。