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「歴史」

「戦争を知る」真冬でもはだし登校。軍事教育を受けていた戦時中の子供たち


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今日12月8日は、1941年(昭和16年)に太平洋戦争が始まった日です。
今年、開戦から80年の節目を迎えました。これまでも戦争の体験談や記録を折に触れてお伝えしてきましたが、今回は、当時の子供たちがどんな教育を受けていたのか、今年88歳になる母の体験をお伝えします。

当時の子供たちがどんな教育を受けていたのか、今年88歳になる母の体験をお伝えします。

母の戦争体験をじっくり聞いてまとめた『私が子供だった頃~戦争の記憶~』
今年の終戦記念日にも、その記録の中から、母が機銃掃射や空襲を受けた戦争の日々をお伝えしましたが、今回は、当時の小学生が受けていた軍事教育のことをお伝えしようと思います。
以下、鹿児島県薩摩川内市で戦時中を過ごした母の視点で書いています。

忍び寄る戦争の影~開戦前から始まっていた戦時体制~

私たちが、のどかで、つつましやかな日常を過ごしている一方で、世の中は少しずつ戦時体制へと変わっていきました。その変化は少しずつ、しかし確実に進んでいったのです。

1937年(昭和12年)7月、私が4歳の時、日中戦争がはじまります。日本と中国との戦争で、昭和20年8月の終戦まで続く戦いです。私は幼かったので記憶はないのですが、父は日中戦争がはじまった頃、軍人として日中戦争に行きました。
日本は大陸に目を向け、領土拡大を目指し始めていました。そして、だんだん軍の力が強くなり、軍国主義が強まっていきました。

そして、1939年(昭和14年)9月、私が尋常高等小学校1年の時、ドイツがポーランドに侵入し、第二次世界大戦が勃発します。日本の軍部は、ドイツやイタリアと手を組んで、当時、イギリスやアメリカなどの植民地となっていた東南アジアを、日本の支配下におこうとしました。
戦争を遂行していくために、国民にも耐乏生活を強いるようになります。翌年の1940年に東京で初めて「贅沢品は敵だ!」という看板が立てられました。そして、その考えは全国に広まっていくのです。

1940年(昭和15年)11月、紀元2600年祝賀行事が開かれました。第二次世界大戦の敗戦まで、伝説上の初めての天皇である「神武天皇」が即位した年(紀元前660年)を紀元とする「皇紀(こうき)」が用いられることがありました。1940年が紀元2600年になります。天皇を神と尊び、神の国日本という思想を広く普及し、国民を国家主義へと導く絶好の機会とし、全国で祝賀行事がひらかれました。奉祝国民歌「紀元2600年」もつくられ、当時ラジオから毎日のように流れ、大流行しました。

尋常高等小学校2年の時、この紀元2600年祝賀行事があったのを記憶しています。正確な記憶ではありませんが、祝賀行事では「日本の歴史は2600年と長い間続いてきている。こういう歴史のある国は、日本くらいしかない。日本は優れた国である」というような話があり、みんなで奉祝国民歌を歌ったと思います。今もそのメロディーは耳に残っています。
♪金鵄(きんし)輝く日本の 栄えある光 身に受けて
 いまこそ祝へこの朝(あした) 紀元は2600年♪

尋常高等小学校から国民学校に

昭和16年4月、国民学校令により、尋常高等小学校という名称が国民学校に改められます。私が小学3年生の時です。
なぜ国民学校になったのか、改めて調べてみました。国民学校の目的は、皇国の道に則って初等教育を施し、国民の基礎的錬成を為すとなっています。つまり、最高目標が皇国民の錬成にあり、その教育方法として強化されたのが、国民としての統一的人格の育成を期することでした。学校を「国民錬成の道場」となるようにし、団体行動やかけあし訓練が強いられ、「勝つまでは」という絶対の制約として「必勝の信念」「堅忍持久」の精神がたたきこまれるようになります。つまり、教育に国家主義的色彩が濃厚に加味され、教育も戦時体制になっていくのです。お国のために命をおしまない国民になるよう誘導していったということになります。(文部科学省 学制百年史編集委員会より)

そのほかの昭和16年の動きをみてみますと、3月に国家総動員法改正公布(これで、政府の権限が大幅に拡張される)。4月に生活必需物資統制令公布(大都市では、米の配給制がはじまる) 文部省が音階教育をハニホヘトイロハに改正(ドレミ~は敵国語だとして)8月に金属類回収令公布。 11月に国民勤労報国協力令公布(男子14歳~40歳、未婚女子14歳~25歳の勤労奉仕義務化)などの法令が次々と公布されています。
戦争を遂行するために、教育も変わり、国民にいろいろな制約や義務を課していたことがわかります。
そして、昭和16年12月8日をむかえます。

太平洋戦争はじまる

太平洋戦争はじまる

1941年(昭和16年)12月8日、日本軍がハワイの真珠湾を攻撃し、アメリカとイギリスに対し宣戦布告をして太平洋戦争が始まりました。この日めくりカレンダーは、まさにその日のものです。この事は1年前の記事に掲載しています。

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では、実際どのような教育が行われていたのでしょうか?
具体的な戦時中の教育についてお伝えします。

一年中はだし登校に・・

国民学校になって、一年中はだしで登校することが義務となりました。
子供たちの心身を鍛え、辛抱させる目的とはいえ、それはつらいものでした。雨の日も、霜の降りた寒い冬の日も、毎日はだしです。暖かい日はまだいいのですが、寒い冬の日は、本当につらくてつらくて仕方ありませんでした。朝、霜柱を踏み踏み歩くと、足が冷たくて足の感覚がなくなるほどでした。足や手の指にはしもやけもできて、真っ赤にはれ上がり、皮膚がさけて、血がにじんだりしました。あまりに冷たくて泣きながら登校することもありました。国民学校6年まで、はだし登校は続きました。

厳しい学校生活

学校の校門の横には、奉安殿(ほうあんでん)がありました。奉安殿とは、天皇陛下の写真(御真影)と、教育勅語を納めていた建物のことで、当時は、どこの学校にも建てられていました。私達の学校の奉安殿も、漆喰で塗られた白い壁に、銀色の瓦屋根のある立派な建物で、奉安殿の前には玉砂利が敷かれていました。朝登校して来たら、まず、校門で身だしなみを整え、奉安殿に向かって二礼二拍そして一礼しなければなりませんでした。
そして、毎朝必ず朝礼がありました。校長先生が朝礼台に立ち、まず、教育勅語を全校生徒で声に出して暗唱しました。

教育勅語とは、明治23年(1890年)に発布された日本の教育基本方針を示した天皇の言葉で、天皇が国民に教え諭す形のものでした。教育勅語では、天皇につかえて国に奉仕することが国民道徳の根本とされ、天皇崇拝を国民に浸透させる役割がありました。特に戦争中は、国民が戦争に協力する上で精神的な支えとされました。(出典 ポプラ社 ポプラディアより)

朕(ちん)惟(おも)フニ、我(わ)ガ皇祖皇宗(こうそこうそう)國ヲ肇(はじ)ムルコト宏遠(こうえん)ニ、徳ヲ樹(た)ツルコト深厚ナリ・・・

この文言ではじまる教育勅語を、大きな声で毎日暗唱しました。時々、先生が「暗唱できる者はいるか?」と手を挙げさせることがありました。私も朝礼台に上り一人で暗唱したことがあります。とても緊張しましたが、全校生徒の前で間違わずに暗唱でき、誇らしい気持ちになったことを覚えています。

朝礼は、教育勅語の暗唱の他にも、校長先生からの訓示など、長く時間がかかることも度々でした。その間、手をまっすぐに伸ばして太ももにつけ、直立不動のまま立っていなければなりません。食事もろくに食べられない時代ですし、途中で気分が悪くなったりする子もいました。しかし、先生たちは「大丈夫か?」と心配するのではなく、「少国民失格だ。根性が足りない」と怒っていました。

朝礼の後、行進の練習も毎日ありました。校庭を、子供たちが四列になり、広く四角に歩調を合わせて行進するのです。もちろんはだしです。ふとももを高く上げ、手も大きく振り上げて、みんなとずれることなく行進しなければなりません。少しでも動作が遅れたり、機敏でなかったりしたら、先生から厳しく叱られました。主に男子でしたが、ほうきの柄で太ももをたたかれ、みみずばれができたりしていました。

校庭一面に霜の降りた日の行進では、子供たちが歩いたところだけ霜が解けて、校庭の土がどろどろにぬかるみました。教室に入る前に、水を張った水洗い場で足を洗わなければなりません。洗い場の水に氷が張っている事もありました。その水は針のように冷たくて、洗い終わった後は、教室の前の廊下にみんなしゃがんで、体をくっつけあって、足や体を温め合いました。体の弱い子もいて、その子は特に辛そうでした。
今考えると、10歳にもならない子供たちに、真冬の寒い日もはだしで登校を義務付け、行進させるなんて、よくそんな厳しいことができたなと思います。

授業も軍事色の強いものに・・

次に授業について、書きたいと思います。
国民学校3年生になって、まずがらりと変わったのが教科書でした。国語の教科書も「サイタ サイタ サクラガサイタ」から、「ススメ ススメ ヘイタイススメ」に変わります。
国民学校では、国語・算数などの教科の他にも、国史・修身・武道などの授業もありました。何年生の時に習ったかまで、はっきりと覚えていませんが、修身や国語の授業の中で、楠木正成(くすのきまさしげ)の話や、爆弾三勇士(ばくだんさんゆうし)の話がありました。

楠木正成は鎌倉末から南北朝時代の武将で、後醍醐天皇側と足利尊氏軍との戦いの際、勝てる見込みがないとわかっていながら、最後まで後醍醐天皇に忠誠を誓い、尊氏の大軍と戦った武将です。正成は結局戦いに敗れ、自刃しました。この自らの命を顧みず、主君のために尽くした正成のことを教科書では称えて書かれていました。

また爆弾三勇士は、1932年(昭和7年)の上海事変での中国軍との戦闘での話です。中国軍陣地前面に広がる鉄条網を破壊し、突破口を開くことになりました。この時志願した工作兵の兵士3人が、点火した破壊筒(爆弾)を抱えて突撃。鉄条網の爆破に成功しますが3人は爆死しました(4年前に開催された久留米の風景とくらし展の解説より)
この3人の事が、英雄として教科書に載っていました。

爆弾三勇士の活躍を紹介する新聞爆弾三勇士の活躍を紹介する新聞
爆弾三勇士の活躍を紹介する新聞
三勇士の花瓶や皿、メダルなども作られた(久留米の風景とくらし展より)三勇士の花瓶や皿、メダルなども作られた(久留米の風景とくらし展より)

この3人の活躍は美化して報道され、教科書にも掲載され、戦争遂行の機運に大きな役割を果たしていくのです。
まだ10歳くらいの子供ですから、「楠木正成は偉いなあ」「爆弾を抱えて突入した三人はすごいなあ」と素直に感心していました。

また、蒙古襲来についても習いました。「鎌倉時代に元(げん)が2度にわたって日本に攻めてきた時(文永・弘安の役)も、神風が吹いて、元軍に壊滅的な被害を与えた。結局、元は日本を攻めることはできなかった。このように日本は神の国であるから、いざとなったら神風が吹くから大丈夫だ。」と教えられました。

軍歌に感動する

音楽の授業では軍歌も習いました。その軍歌の中で、当時私の心に一番響いていた歌が「海行かば」です。

♪海行かば水漬く屍 山行かば草生す屍
大君の辺にこそ死なめ かへりみはせじ
(うみゆかば みづくかばね やまゆかば くさむすかばね おおきみのへにこそしなめ かへりみはせじ)

「海を行けば、水に漬かった屍となり、山を行けば、草生す屍となって、大君のお足もとにこそ死のう。後ろを振り返ることはしない」という内容の歌で、この詞は万葉集の大友家持(おおともやかもち)の詠んだ長歌から採られています。
この歌の旋律は美しく荘厳で、この歌を歌うと胸がふるえるような感動を覚えました。そして「私もこうなりたい。私もお国のために命をささげたい」と、その世界にどっぷりつかっていました。

武道という授業もあり、女子はほとんどがなぎなたの練習でした。なぎなたの授業は好きでしたので、はりきって授業にのぞみました。木製のなぎなたを使って、払いや突きなどの構えを練習します。なぎなたを前に突く時は、「エイ!」と大きな掛け声をかけました。先生から「声は大きく 腹から出せ!」「体を大きく動かせ!」と、厳しく指導がありましたが、そのなぎなたを突いたり振り回したりする自分がかっこよく思え、先生の指導をしっかり聞いて一心不乱になって練習しました。

少年飛行兵になりたい

小学4年の時の授業でした。先生が「皆さんは、将来、何になりたいですか?」と質問されました。私は「少年飛行兵になって、米英をやっつけたいです」と、胸を張って答えました。 しかし先生は「女子は少年飛行兵になれないのですよ」とおっしゃいました。私は「どうしてですか?」と質問すると、先生は、「女子は銃後(じゅうご)を守るのが務めです。飛行機に乗らなくても、戦地に行って戦わなくても、勤労奉仕をしたり、陰で兵隊さんを支える事で、ちゃんとお国を守っていることになるのですよ」と話されました。先生のおっしゃる事はわかったのですが、私は少年飛行兵になれない事が悔しくて、そのあと泣いてしまいました。
その頃の子供たちの夢は、兵隊になること、航空パイロットになること・・みんな、軍隊にあこがれを持っていました。

軍国少女だった

小学5年の時(昭和十八年)、先生が話された事が、印象に残っています。連日、ラジオや新聞が伝えるのは、日本軍の勝利のニュースばかりでした。(実際は、その頃になると日本軍は各地で連合軍に敗れ、劣勢になっていたようです。しかし、そのことは正しく伝えられていませんでした。) そのため私たちは、「日本は強いんだ。いざとなったら神風が吹くんだ。」と、何かたかをくくったような気持ちもありました。

授業の中で、先生は「皆さんは、神風が吹くと思いますか?」と質問されました。私たちは一斉に「はーい」と答えました。すると先生は、「いいか、みんなよく聞け。日本は今、神風を信じて、有頂天になっているかもしれませんが、アメリカの子供も、イギリスの子供も、自分の国の勝利を信じて、一生懸命勉強していると思います。ですから、皆さんも、油断せずに、勉強したり、勤労奉仕に励んだりしなければならないのですよ」と話されました。そのとき、私ははじめて、敵国のアメリカやイギリスにも、私と同じくらいの子供がいるのだという事に気づかされました。私は、世界の子供たちに負けないように頑張らなければと身の引き締まるような思いがしました。

本当に、あの頃の自分は、先生の教えを素直に信じ、お国のために尽くしたいと心から願う、軍国少女だったなあと思います。

軍事教育から民主教育に

戦争が終わると、教育の方針が大きく変わります。戦後、新しい教科書が出来るまでの間、それまで使っていた戦時中の教科書が使われましたが、国家主義や戦意を鼓舞する内容の部分に、子供自身の手で墨を塗って教科書を修正したのです。いわゆる「墨塗り教科書」です。

国語や修身の教科書は、ほとんどが真っ黒になるページもありました。小学校3年からずっと、戦時教科書といわれる軍事色の強い教科書で教育を受け、その内容を素直に受け入きた子供たちに「その教育は間違っていた」と、今度は教科書に墨を塗らせるのです。しかし、私たちはそれを不思議とも思わずに先生の指示に従って素直に墨を塗っていました。

考えてみれば、少し前までは「少年飛行兵になって敵国をやっつけたい」と思っていた子供たちですが、新しい教育も素直に受け入れるという、いかに子供の心が素直で影響を受けやすいかという事です。教育というものはとても大事なものだという事を改めて思います。

戦時教育、そして戦後の民主教育、大きな教育の転換期に、どちらの教育も経験した世代でした。

勤労奉仕の日々、戦時中の耐乏生活、戦後の食糧難などについては、また、改めてお伝えしようと思います。

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