「歴史」

「戦争を知る」一番のごちそうは「出征祝」で出された鶏の煮つけだった・・


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79年前の今日、太平洋戦争が始まりました。
戦争体験者の高齢化が進み、記憶の風化が言われる中で、私たち「てのん」では、少しでも戦争の記録をとどめていきたいと思っています。

今年87歳になる母の記憶と、以前取材した戦時中の暮らし展の展示物から、当時の日常を振り返ります。

79年前の今日、太平洋戦争が始まりました。

昭和16年(1941)12月8日、日本軍がハワイの真珠湾を攻撃し、アメリカとイギリスに対し宣戦布告をして、太平洋戦争が始まりました。

この日めくりカレンダーは、まさにその日、昭和16年12月8日のものです。

この日めくりカレンダーは、まさにその日、昭和16年12月8日のものです。

日めくりカレンダーをアップすると、「昭和16年」「英米 宣戦布告」と手書きで書かれています。また、下には「手を取って、合せ、1億銃後の力」と印刷されており、その1文からもすでに戦時体制に入っていた様子がうかがえます。

持ち主の方が、この日の日めくりカレンダーを大切に保管されていたお気持ちは何だったのでしょうか?

この日から終戦までの3年9か月にわたる長く、苦しい戦時中の暮らしが始まるのです。

この展示物は3年前に開催された、「平和資料展 軍都 久留米の風景とくらし」に展示されていたものです(資料展は終了しています)。その際に撮影の許可をいただき、今回、改めて記事掲載の許可をいただきました。戦争中の暮らしがとても良くわかる、心に残る資料展でした。

そして、今年87歳になる母からも戦時中の体験をいろいろ聞きました。
現在の鹿児島県薩摩川内市の農村で生まれ、そこで戦時中を過ごした母の視点で書いています。

太平洋戦争はじまる

国民学校初等科3年の12月8日、とうとう太平洋戦争がはじまりました。その当時、家にはラジオがなかったので、直接ラジオでの大本営発表のニュースを聞いた記憶はありません。おそらく学校に登校し、校長先生が朝礼の時にラジオが伝えた内容を話されたと思います。「わが帝国陸海軍は本八日未明西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり・・」と。

子供心に「いよいよ戦争がはじまるんだ。なにか怖いものがはじまるんだ。」という気持ちを持ちました。しかし学校で「日本は神の国で、たいへん優れた国です。負けることはありません。」と教えられていましたので、「必ず勝つから絶対に大丈夫だ。みんなで一致団結して戦おう。」という気持ちを強く持ちました。

わが帝国陸海軍は本八日未明西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり・・

翌12月9日、米英に対し宣戦布告をしたと告げる新聞です。
「布哇、新嘉坡を大爆撃」「マレー半島奇襲上陸」「陸軍香港攻撃を開始」「上海で英砲艦撃沈」などの見出しがあり、各地で戦闘が始まったことがわかります。
※布哇はハワイ、新嘉坡はシンガポールの事

翌12月9日、米英に対し宣戦布告をしたと告げる新聞

シンガポール陥落

太平洋戦争が始まったころは日本軍も勢いがありました。昭和16年12月、日本軍はマレー沖海戦でイギリス艦隊を破ります。そして、日本軍は香港を占領するなど、ラジオや新聞は大本営の発表として、連日、日本軍の華々しい活躍・勝利を伝えました。

国民学校3年の2月(昭和17年2月)のことです。日本軍が、シンガポールを陥落させました。当時シンガポール要塞は、イギリスが率いる連合部隊が守っていて、難攻不落とされていましたが、日本軍が10日足らずで攻略。イギリス軍は降伏し、日本軍が勝利したのです。日本中が喜びに沸きました。

そして、それを祝して提灯行列が行われたのを覚えています。提灯行列は全国各地で行われました。当時は、夜道を歩くときは提灯が使われており、その提灯に灯りをともし、私も家族と一緒に田んぼのあぜ道を歩きました。広い田んぼのあぜ道というあぜ道に、人々の持つ提灯の灯りが揺らめいて、なんとも幻想的で美しかったのを覚えています。みんなうれしい気持ちで参加しました。

その後も、昭和17年3月には、日本軍がジャワ島のオランダ軍を降伏させるなど、強い日本軍に国民も士気が上がりました。

しかし、その後は、各地の戦いで負け、日本軍は劣勢に立たされて行くのです。

出征兵士の見送り

召集令状召集令状

集落から出征兵士が出ると「出征祝」という会が集落で開かれました。軍隊に召集されるときには、家に召集令状(赤色の紙だったので赤紙ともいわれました)が届きます。出征するということは家族にとって今生の別れになるかもしれないことでしたが、当時は辛いとか悲しいという感情を表に出したり、口に出すことはできませんでした。お国のために戦えるのは名誉なこととして、召集令状(赤紙)が来た家には「おめでとうございます。」と言っていました。

そして、出征兵士の門出を祝うために「出征祝」をしたのです。普段の食事は、野菜をたくさん入れた雑炊に漬物といったとても貧しいものでしたが、その時だけは、できるだけご馳走を作って送り出したいと、集落みんなで協力し合って食材を集めました。

中でも鶏が一番のご馳走でした。どの家も何羽か鶏を飼っていましたから、出征祝いがある時は、「今度は○○さんちが鶏を出してくんやい」というふうに、持ち回りで提供していました。ある時、兄と姉がかわいがっていた鶏を出さないといけなくなり、兄と姉はその鶏をかかえて隠れたことがありました。

しかし、すぐに見つけ出されて、その鶏が私の家から提供されました。

鶏の煮つけが一番のごちそうだった。鶏の煮つけが一番のごちそうだった。

鶏はたいていの場合、甘辛く煮つけて出されました。飼っている鶏には愛情もあり、かわいそうだなあという感情もありましたが、子供たちにも鶏の足や少し肉のついた骨の部分を食べさせてもらえる時があったので、出征祝がある時はそれを期待しました。いつもお腹をすかせていた子供たちにとって、めったに食べられない鶏は格別に美味しいものでした。

いつもお腹をすかせていた子供たちにとって、めったに食べられない鶏は格別に美味しいものでした。

女性たちは千人針を・・

千人針とは、1メートルほどの長さの白い布に、多くの女性たちが赤い糸で一つ一つ結び目を作るものです。その白い布には、あらかじめ点々の印が付けられていて、結び目を作る場所がわかるようになっていました。

例外として寅年生まれの女性は自分の年齢だけ結び目を作ることができました。これは虎が「千里を行き、千里を帰る」という言い伝えがあり、それにあやかろうということからです。一番上の姉は寅年でしたので、たくさん玉を作らないといけなかったので大変でした。出来上がった千人針は、兵士の銃弾除けのお守りとして出征兵士に渡されました。

展示されていたのは「千人針チョッキ」展示されていたのは
「千人針チョッキ」

 

背中の裏側に虎の絵も見える背中の裏側に虎の絵も見える

出征兵士の見送り

出征兵士の見送りがある時は、学校の授業よりも優先で子供たちも全員見送りに行きました。私たちは日の丸の旗を持って、道の両脇にほかの集落の人たちと一緒に並びました。見送られる出征兵士の方は、祝○○君出征と書かれた白いタスキをかけ、家族の方や地域の偉い方たちと一緒に町に向かって行進しました。

私たちは「万歳!万歳!」と言って見送り、出征兵士の方の姿が見えなくなるまで「勝ってくるぞと勇ましく、ちかって故郷(くに)を出たからは、手柄たてずに死なりょうか~」と軍歌を歌い続けました。

何人の兵士を見送ったでしょうか。私たちの住んでいた集落だけでも20人位いたのではないかと思います。そして、国民学校の先生たちも次々と出征していかれました。

集落から若い男の人がいなくなりました。学校も校長先生の他は、ほとんど代用教員の女の先生になったのではないかと記憶しています。

劣勢に立たされていた日本軍

太平洋戦争が始まったころは勢いのあった日本軍ですが、その後は、各地の戦いに負け、劣勢に立たされていました。しかし、当時は、その情報は正しく伝えられていませんでした。
昭和17年6月のミッドウェー海戦以降の戦いでは、日本軍は各地でことごとく負けていました。という事は、各地で何万、いや何十万という兵士たちが命を落としていたのです。

戦いを継続するために、あらたに兵士を送り込まなければなりませんでした。
昭和18年10月21日、神宮外苑競技場で出陣学徒壮行会が開かれました。戦況の悪化とともに兵士不足が深刻となり、それまで召集されなかった学生たちも戦地に向かわせたのです。

戦死通報の事

若者は戦地に行きました。そして、230万人もの軍人・軍属の命が奪われました。
戦死した兵士の家族に届けられたのが戦死通報です。

叔父は戦死通報を家族に届ける任務をしていました。その叔父が私の家に来た時、母に心の内を打ち明けていました。「戦死通報を持って行くのは本当につらか。なかなかそこの家に行かれん」と。そして、そこの家の近くまで行っては引き返し、また行っては引き返しを繰り返し、ようやく意を決して届けに行くという話をしていました。

表向きには「お国のために名誉の戦死をなさいました」とほめたたえる風潮でしたが、肉親を失った家族や、その死を伝えなければならなかった立場の人の本音は違っていたと思います。

戦死通報を渡したときの家族の悲しみはいかばかりだったでしょう。また、生きて帰ってくると信じて待っていた家族に、戦死を伝えなければならなかった叔父の苦しみもいかばかりだったでしょう。「本当に術(じゅつ)なかもんなー(なすすべがない)。あげんつらかもんはなか」と、肩を落として話す叔父の姿を覚えています。母は「つらかなー。じゃっどん、お前の任務じゃっで気張らんとなー」と叔父を慰め、励ましていました。

日の丸を振って戦地に見送った集落の若者が戦死したという知らせが届く・・そういうことが戦時中、繰り返されました。

そして、戦死者のお迎えもありました。学校の校庭に全校生徒や集落の人たちが並び、戦死者の家族を出迎えました。国民学校5年の男の子の父親が戦死しました。その男の子が白い布に包まれた箱をしっかりと両手に抱き、その後ろに、喪服を着た母親や親せきの人5~6人が並んで入ってきました。その箱は遺骨を入れるものですが、ほとんどの場合、遺骨は入っていませんでした。白い布は、しっかりと男の子の首のところで結ばれていました。その布があまりにも真っ白で、それを見ると自然と涙がこぼれました。みんなシクシク泣いていました。

しかし、このような戦死者のお迎えも、あとからはなかったように思います。戦死者も相次ぎ、また、空襲をはじまり、それどころではなくなったのではと思います。

戦死者が出た家の玄関先や門柱に取り付けられた札 「誉れの家」とも言われていた戦死者が出た家の玄関先や門柱に取り付けられた札
「誉れの家」とも言われていた

今回ご紹介したのは戦時中のほんの一部の日常です。
他にも戦時中の食糧難、軍事教育、勤労奉仕、空襲など、戦時下での生活を母から聞いています。また少しずつ「てのん」の中でも紹介していきたいと思います。

太平洋戦争による日本の犠牲者は、軍人・軍属230万人、民間人80万人、合わせて約310万人と言われています。

家族一緒に穏やかに暮らす日常を奪われ、常に空腹に耐え、戦争遂行のためにさまざまのものを犠牲にし、多くの人の命を奪った時代の事をこれからも記録にとどめていきたいと思っています。

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