毎年7月27日になると鹿児島市の水道施設「七窪水源地」の前で慰霊の祈りを捧げる人がいます。岡村寛次さん70歳です。1945年7月27日、太平洋戦争末期、七窪水源地周辺に4発の爆弾が投下され、岡村さんの祖母フミさんらが犠牲となりました。フミさんは当時、夫の四郎助さんと共に、七窪水源地の管理人をしていました。岡村さんは「市民の命の水を守り、この地で亡くなった人がいたことを忘れないで」と語りかけます。
はじめに
「てのん」では、これまで戦争の体験をもつ方々からお話を伺ってきました。戦後77年が経ち、戦争の記憶を語って下さる方が急速に減っていることを肌で感じています。今回お話を伺った岡村寛次さんは、戦後生まれです。戦争を知らない世代の岡村さんが、自分の生まれ育った場所でかつてあった戦争のことを調べ、体験者の声を聴き、記録として残す活動をしてきたと聞いて、その思いを伺うことにしました。
「七窪水源地」は鹿児島市民の命の水
この日、岡村さんの案内で初めて七窪水源地に足を運びました。
七窪水源地は、市街地から少し離れた森の中にあります。雨水が火山灰シラスを浸透して、長い時間をかけてろ過されて湧き出る水は、古くから「おいしい水」として知られ、大正8年(1919年)に完成して以来、鹿児島市民の貴重な水源となってきました。
通水から100年以上たった今も1日13,000㎥の豊富な湧水量をたたえ、鹿児島市民に清涼な水を送り続けています。七窪水源地は「水道百選」に選ばれ(厚生労働省指定)、重厚な石造りの施設は、土木学会の「推奨土木遺産」にも選ばれるなど、その歴史的価値が評価されています。
「私は、ここで生まれ育ったんです。水がきれいで自然が豊かで、小さい頃は、子どもたちの良い遊び場でした。今でもこのあたりは、カエルやトンボが生息して、初夏にはゲンジボタルが乱舞するんですよ。」
「でも、かつてこの場所で空爆があり、戦争の犠牲になった人たちがいたことを知っている人は、ほとんどいないですよ。」岡村さんはこう話し、周辺のシラス台地の崖には、爆弾の破片でできた傷跡がいくつも残っていると教えて下さいました。
激しかった鹿児島の空襲
本土最南端にあり、特攻基地があった鹿児島は、本土防衛の最前線の地となり、太平洋戦争末期、激しい空襲を受けました。鹿児島市が受けた計8回の空襲で3329名が亡くなり、負傷者も4633名にのぼり、鹿児島市街地の約93%が焼失しました。(参考:「鹿児島市戦災復興誌」)
岡村さんの祖母が亡くなった7月27日の空襲は、壊滅的な被害を受けた6月17日の鹿児島大空襲から40日目のことでした。この日、主な標的となったのが鹿児島駅でした。空爆のあった午前11時50分は、ちょうど鹿児島本線と日豊本線から列車が到着した直後で、あふれるように人がごったがえしていた駅周辺で、多くの市民が犠牲になったといいます。(上町空襲の被害:死者420人、負傷者650人 参考:「鹿児島市戦災復興誌」)
同じ日、岡村さんの祖父母が管理していた七窪水源地の敷地内にも空爆があり、祖母のフミさんの他、水道作業員や地域住民が亡くなりました。しかし、祖母がどういう状況で亡くなったのかなど、七窪水源地の空襲の詳細は分からないままでした。
「戦争が終わって、復員した父は、七窪水源地に住みながら祖父の跡を継いで、鹿児島市の水道局職員として仕事をしていましたが、戦地で戦っていた時のことや、母親が七窪水源地で亡くなったことなど、戦争のことは、一切語らずに亡くなりました。語りたくなかったんじゃないでしょうか。私は、体験者の多くが『語りたくない』思いを抱えていたんじゃないかと思っています。」
歴史を知り、後世に伝えていきたい
岡村さんにとって生まれ育った七窪水源地は、心のふるさとであり、平和そのものの場所でした。「この場所で何があったのか、祖母はどうして亡くなったのか」そのことをしっかり調べ、後世に伝えていきたいという思いが年を重ねるごとに強くなっていったそうです。岡村さんは、地元住民らに声をかけ、鹿児島市水道史などの史料を調べ、空襲を体験した住民への聞き取りや現地調査を行って、戦後70年の節目の年に、七窪水源地爆撃の調査記録まとめた小冊子を出版しました。
調査によって、七窪の水を守ってきた祖父や祖母のこと、当時の空爆の様子が見えてきました。
七窪水源地の守り人だった祖父と祖母
当時、岡村さんの祖父と祖母は、七窪水源地の管理人をしていました。祖父、四郎助さんは大正4年(1915年)~大正8年(1919年)にかけて行われた七窪水源地から上之原配水池まで導水する工事の責任者を務め、祖母のフミさんも工事に従事しました。水源地から配水池までの3,269mもの距離をトンネルなどによって自然流下させるという大変な難工事でした。
工事完成後も四郎助さんとフミさん一家は水源地の敷地内の公舎で暮らしながら、水の維持管理を担い、市民の水を守り続けてきました。七窪水源地は、市の中心地に水を送る貴重な水源である共に、地域の人たちが洗濯をしたり、野菜を洗ったりするなど地域住民の寄り合いの場にもなっていました。
7月27日 七窪水源地爆撃の記録 岡村さんの調査より
岡村さんの調査から、七窪水源地での空襲を振り返ってみたいと思います。昭和20年(1945年)に入って、鹿児島市は3月から6月までに5回の空襲を受け、各所で水道施設が使えなくなっていました。このため、七窪水源地からほかの地域に水を送るための工事が始まったばかりの時でした。7月27日、午前11時50分、晴れ上がった夏の真昼のこと。七窪水源地付近に4発の250キロ爆弾が投下されました。そのうち1発は、集水渠上崖に落ち、祖母のフミさんが爆風で吹き飛ばされ、亡くなりました。56歳、即死でした。
当時の人の話から、フミさんは、洗濯物をとり入れようと外に出ていて犠牲になったことが分かりました。また他の3発の爆弾は周辺の田んぼに落ち、付近にいた作業員10数名と地元住民数名が亡くなりました。
岡村さんは「当時、七窪水源地は市街地の多くに飲み水を送っていたので、水の供給を絶つための空爆だったのでは。」と話します。
また、当時、七窪水源地では、6月17日の大空襲で一面焼け野原となった鹿児島市の重要な書類を格納するための洞窟(奥行き2~3メートル)を水源地内に掘削するための作業も行なわれていました。その作業員たちが犠牲となったのです。岡村さんは、当時のことを知る人たちの聴き取りをしながら、爆弾の投下地点や爆弾の破片状況、格納洞窟の作業小屋があった場所などを調査し、詳細に記録に残してきました。
「亡くなった人の死を無駄にしてはいけないという一心で取り組みました。当時のことをお話して下さった方たちも、その後亡くなられたり、病気になられたりして、今もお元気なのは、おひとりだけです。証言を聞いて、残しておかなければ、歴史は忘れ去られてしまいます。作業員の中には、日本語が話せなかった人もいたと聞きました。戦時中の労働力となった朝鮮人労働者の方々だったのかもしれません。」
そしてこんなものも見せて下さいました。
「これは、米軍が投下した焼夷弾の一部なんですよ。」これは、七窪水源地近くに住む知人の野元繁さんが終戦の年に木に引っかかっていたものを見つけて、長年保管していたものです。岡村さんは、これを7年ほど前に譲り受け、専門の会社に調査を依頼したところ、弾尾バラストと呼ばれる焼夷弾の部品の一部であることが判明しました。
「これは、焼夷弾のほんの一部分の部品ですが、重いですよ。焼夷弾は、建物や地域を焼き払う目的で作られたものですよね。こんな鉄の塊が空から次々と投下されたのですからひとたまりもありませんよね。(七窪水源地近くで見つかった)この焼夷弾の部品は、戦争の悲惨さを物語る品として大切に保管していきたいと思っています。今、ウクライナで起きていることも同じです。何の罪もない市民がどれほど犠牲になっていることか。戦争は絶対にあってはならないと思います。」
忘れないことが、亡くなった人への供養
岡村さんは、昨年の冬、この地で亡くなった人への供養のために、水源地周辺に菖蒲、ハス、カラーの花を植えました。今年5月にはたくさんの花が咲き、この地を彩りました。
岡村さんたちの幼い頃の遊び場だった七窪水源地は、今は封鎖され、中に入ることはできません。
しかし、この場所に立つとき、思い出すのは、市民の水を守ってきた祖父母や、戦後、水道局の職員として水道の復旧に尽力した父のこと。岡村さんは、戦禍に耐え、100年以上、市民の暮らし支え続けてきた七窪水源地が「平和の大切さ」を伝えてくれている場所のように感じられてくるそうです。
「ロシアのウクライナ侵攻で、戦争で市民が犠牲になっていく様子を目の当たりにしました。戦争は過去のことではありません。改めて一人ひとりが平和の大切さを考えなければいけない時じゃないでしょうか。」
7月27日、岡村さんは、今年もまた七窪で亡くなった人たちのことを思いながら、この地に慰霊の花を捧げます。
終戦の20日前に命を落とした人たちの無念を思いながら、自らの心に平和への誓いを刻む日にしています。