1941年12月8日、太平洋戦争が始まりました。今から77年前のことです。
当時5歳だった方でも現在83歳、戦時中の出来事をかろうじて記憶している世代も高齢となり、その体験談をお聞きして記録に残しておくことは待ったなしの状況です。
日置市の安藤ヤス子さんは、日本統治下の台湾で生まれ育ち、終戦後の引き揚げを体験。
平和への思いを強く抱き、毎年8月には、戦争体験をもつ方々のお話を聞く集いを開催、次の世代に引き継ぐ活動に力を注いでいます。
台湾での暮らし
安藤ヤス子さんは1933年(昭和8年)に、台湾の高雄で生まれました。当時の台湾は日本の統治下にあって、安藤さんの父親も祖父も、現地の鉄道で技術の仕事をしていたそうです。
安藤さんが小学校にあがるときに、台北の松山というところにある官舎に引っ越しました。
「何不自由ない暮らしでした。お洗濯は、地元の方が来てやってくれますし、かまどで煮炊きするための薪も、大きなトラックが運んで来てくれるんです。
食料は豊かでした。母が料理上手でしたので、おいしいものをいただいてました。台湾は、お米は二期作で果物も豊富。バナナやらマンゴーやら、竜眼なんかも食べていましたよ。
夏になると、父が蛍かごをつくってくれましてね、蛍狩りに出かけたり、お正月には、振袖を着せてもらって羽根つきをしたり。街のほうに出かけて革靴を新調してもらったりしました。」
浮かんでくるのは楽しい思い出ばかり。でも、家族そろっての幸せな暮らしは、長くは続きませんでした。
父親の出征と空襲
父親が出征したのは、安藤さんが10歳のとき。その頃には台湾でも、空襲に備えた暮らしが始まっていました。安藤さん一家は母親と、ヤス子さんを長女に4人の姉妹、女性ばかり5人で命を守らなければなりませんでした。
「母はひとりで、防空壕を掘ってくれました。庭の、外から見えないところに一所懸命に掘っていました。
その時、私思ったんです。大人って嘘つきだなって。だって父の出征のとき、みなさん『家族のことは任せて下さい』って見送って下さったのに、誰も手伝って下さらないんですもの。
今なら、みんな自分のことで精いっぱいだったんだってわかるんですけど当時はね、そう思いましたよ。」
やがて、家の明かりを外へ洩らさないようにする灯火管制も始まり、空襲警報や警戒警報も鳴るようになりました。
警報が出たらいつでも防空壕に入れるように、夜寝る時も、防空頭巾など必要なものは枕元に置いていましたが、戦況が悪化してくると、それも身につけたまま寝るようになりました。
「空襲警報やら警戒警報やらが鳴ったら、夜中でもなんでも防空壕に入るんです。そして、爆撃で目が飛び出したり耳が聞こえなくなったりしないように、こういう恰好をして、肩寄せ合ってるんです。
官舎のあった松山には、父の鉄道の工場や飛行場もありましたから、そちらをめがけて爆弾を落とすんでしょうね。
私たちの防空壕からは、かなり離れた場所にあったんですけど、それでもずしんと体に響く音がしてきて、怖かったですよ。工場では亡くなった方もおられたと聞きました。」
その頃は、学校の校庭にも塹壕のような防空壕がつくられ、警戒警報が出ると集団下校になりました。
「学校では、飛行機の爆音を聞き分ける時間もあったような記憶があります。先生がオルガンで音を出して、これはなんですかって。B29とかロッキードP38とかいってね。」
安藤さんは、当時子どもたちが歌っていた替え歌も教えてくれました。
「湖畔の宿って歌がありますでしょ、高峰三枝子さんの。あの替え歌でね、
♪きのう生まれた豚の子が
蜂に刺されて名誉の戦死
豚の子どもはいつ帰る
4月10日に帰るのよ
豚の母さん悲しい心
今改めて思い出してみたら、不思議ね。反戦みたいな歌ですよね。そういえば、憲兵にひっぱられるからよしなさいって、親に言われてたような気がします。」
もうひとつ、当時子どもたちがよく歌っていた歌を教えてくれした。
「今でもよく覚えていますよ。
♪ パーマネントに火がついて
みるみるうちにはげ頭
はげた頭に毛が3本
ああ恥ずかしや恥ずかしや
パーマネントはやめましょう
当時は、パーマをかけたら非国民って時代でしたからね。服も、もんぺを着なくちゃいけないっていわれてね。
もう二度と、こんな時代にさせたらいけないわね。」
山のなかへの疎開
安藤さんが6年生になったころには、学校に通えなくなりました。1945年(昭和20年)頃のことです。みんなそれぞれに疎開していき、安藤さんたちも、台北郊外に疎開することになったのです。
「おやゆび山って呼んでた山のなかに、台湾人の農家の方が小屋を建てて下さったんです。水は川に汲みに行って、焚き木は母がひろいに行ってね。お手洗いは簡易の掘っ立て小屋。蛇がちょろちょろーとでてきて、怖い思いをしました。
食料は配給制になっていましたから、私も遠く離れた配給所に行って、お米をかついで運びました。10㎏以上あるんじゃないかしらと思うくらい重かったです。お砂糖だけは豊富にあって、かぼちゃのぜんざいがおいしかったことをおぼえています。」
配給だけでは足りない食料を補おうと、安藤さんの母親は、列車に乗って買い出しにも出かけていたそうです。
「4歳下の妹は、母から離れきらずに買い出しにくっついて行ってましたけど、列車が爆撃を受けたりして、こわい思いをしたようです。お陰様で命はありましたけれどね。」
そんなある日、安藤さんたちの疎開小屋のある山の中に、海軍の兵士たちが大勢やってきました。安藤さんは、海軍さんがこんな山の中に待機するなんておかしいねと、母親と話したそうです。
「海軍の方たちは川の近くにいたんですけど、水汲みで通りかかったときに、うなぎを焼くようないい香りがしてきたんです。
後で大人たちが話しているのを聞いてわかったんですけど、兵隊さんたちは蛇をさばいて串焼きにして食べていたようなんです。
タンパク源にしていたんでしょうね。山の中に隠れていたのは、乗る船も撃沈されたりして、日本が負ける方向に進んでいたということなんでしょうね。」
終戦そして引き揚げ
山の中での疎開生活は、爆撃を受けることもなく、終戦とともに終わりました。新聞やラジオなど情報を得る手段がなかったため、戦争が終わったことは人づてに聞きました。
「みんな悲しそうでした。日本は神の国で、神風が吹いて絶対負けることはないっていう教育を受けてましたからね。」
安藤さん一家はすぐに山を下りて、もとの住まいの官舎に向かいました。幸いなことに、官舎は1軒も被害を受けることなく残っていたそうです。安藤さんは、学校にも通えるようになりました。
「それまで日本人だった校長先生が台湾の方になって、式典があるときには日本の国歌は歌えなくて、中国の国歌を覚えさせられて歌ってました。授業には日本人の先生がいらして、今まで通り国語や算数を勉強しましたね。教科書に墨を塗るなんてことはなくて、これまで通りの授業だったように思います。」
学校の行き帰りには、思わぬ経験をしました。
「いつも通る近道があったんですけど、その道沿いにある家の台湾人の子どもたちが『シーカウ!シーカウ!』といって石を投げてくるんです。犬!っていうような意味だと思います。今まで自分たちが悪く言われていたからなんでしょうね。怖くて通れなくなりました。」
治安が悪くなり、近所に強盗が押し入り家財道具を持ち去られたという話も聞いたそうです。
「命をとられたって話はありませんでしたけど、うちは女子供だけでしたから怖くて怖くて、戸締りをしっかりとしていました。そんな状況でも、台湾人の農家の方がお米やらもち米やらを家まで運んで下さって、食べ物には困らなかったんですよ。母が、誰とでも仲良くできる人だったからかしらね。」
日本人のなかに不安が広がるなか、帰国の日は唐突にやってきました。1946年(昭和21年)3月のことです。
「ほんとに急でした。明日引き揚げの船が出るから集合するようにって前日に急に知らせがあって。母を手伝って徹夜で準備しました。
持ち物は、夏・冬の衣類が3枚づつ、布団がひとり1組、お金は一人1000円、砂糖がひとり3斤(およそ1.8㎏)と決められてました。写真も、父が揃えてくれたお雛様も、すべて置いて行かなくてはならなかったの。」
小学校の卒業を間近にひかえていた安藤さんでしたが、友達に別れを告げる暇もない、あわただしい出発でした。
「家を離れる日には、いつも食料を持ってきて下さってた台湾の方が、ゆでたまごを持って見送りに来てくださったの。紅をつけたゆでたまご。台湾では、お祝いのときに紅をつける慣習があって、家族がみんな無事に日本に着きますようにって持ってきて下さったんです。台湾でいっしょに暮らしましょうよ、とまで言って下さった方たちでした。」
安藤さんたちが向かったのは、台湾北部の基隆(キールン)の港。待っていたのは、アメリカの貨物船でした。
「もう荷物といっしょ。ぎゅうぎゅう詰めでみんな雑魚寝してました。食事は1日2食、雑炊だか何だかわからない、食べたことないようなものが出ました。
かなり揺れて、母は船酔いがひどくて、食事をとることも身動きすることもできませんでした。日本に帰りたい一念で、必死で家族で肩寄せ合っていましたね。
亡くなる方もいらしたみたいで、ぼーっと汽笛が鳴るとね、どなたか亡くなったのねって母が言ってね、みんなで手を合わせて。戦争に負けると、こんなものなのかって思いました。」
1週間の船旅の末、家族全員無事に、広島の大竹の港に着きました。すると、アメリカ兵にDDT(シラミなどを駆除するための殺虫剤)を散布され、検疫のため3日間船に留め置かれました
そのとき、安藤さんは、忘れられない光景を目にしました。
「雪が降ったんです。私、初めて見たんです。言葉では知っていましたけど見るのは生まれて初めてで、きれいだなあって。珍しがって妹たちと雪にさわったりしてはしゃいでね。雪が、私の心をなんだか豊かにしてくれました。あの時の光景は、忘れないです。」
その後は鹿児島の福山に落ち着き、7月には父親も戦地から無事に帰還、苦労の多い暮らしでしたが、弟が生まれるという喜びもありました。
あの時代を生きた者としてできることを
安藤さんは80歳を過ぎてから、平和を考える集いを企画。毎年8月に日置市で、戦争体験をお持ちの方々の話を聞く集いを開いています。
「同じ時代を生きても、おかれた場所、環境、条件によって、みんな違った体験をされてます。私の体験なんてたいしたことないんだってわかりました。
それでも、戦争の愚かさ、平和の尊さ、命の尊さを、若い世代に伝えたいと思ったんです。それからは、本を読んだり講演を聴いたりして、太平洋戦争について自分なりに学びました。まだまだ足りませんけれど、体験を伝えていく使命を感じております。」
体験談にふれた若い世代には、戦争とはどういうものなのか、自分の目で見て聞いて考えて、主体的に学んでほしいと語る安藤さん。
その言葉が、重く心に響きました。