奄美出身者で結成された島唄ユニット「つむぎんちゅ」。
島唄の素晴らしさ、故郷の素晴らしさを伝えるべく、鹿児島を拠点に精力的に活動しています。
その一人、麓和幸さんは、かつてあの吉本興業でお笑い芸人をしていました。
お笑い芸人の彼が、なぜ島唄に出会い、目覚めたのかその理由(わけ)とは?
島唄ユニット「つむぎんちゅ」フル稼働中!
夏祭りで、汗だくだくになりながら、島唄ライブをする「つむぎんちゅ」のお二人。
10年前に結成された「つむぎんちゅ」は今、年間120~130回のステージをこなし、フル稼働で活躍しています。
人気の秘密は、奄美民謡、新民謡、ポップスを織り交ぜた幅広い島唄ライブ。
唄あり、踊りあり、しゃべりありで観客を楽しませます。
時には、酸欠でしゃがみ込むほどの熱血ライブを、三線とトークで引っ張っているのが、麓和幸さんです。
「僕がどん底で悩み、あがいていた時、生きる力を与えてくれたのが「島唄」でした。僕の人生の再起を助けてくれた「島唄」「故郷」に感謝の気持ちを届けたくて、ここにこうしています。」
麓さんは、奄美大島大和村の出身。昔から、こんなことを考えていたそうです。
「奄美はすごく良いとこなのに、なんで人がいなくなるのよ。若い人も島を出て行く。何で?若い人にとって魅力がないんだろう?どうしたらいいんだろう?」
19歳の衝撃!
そんな麓さんは高校3年生の時、ある衝撃を受けます。
「島出身の女の子が3万人の人を集めてライブしているのを見たんです。衝撃的でした!その人の名は安室奈美恵。島は島でも沖縄だったんだけど(笑)同世代の子が凄いことしてる。僕もいつかあんなに輝いてみたいって思いました。」
といっても、進学校に入っていた麓さんは、高校に馴染めなくて不登校気味、鬱々とした日々を送っていました。
そんな時、日本舞踊の先生をしていたお母さんから「ほら、これ?おじいちゃんが弾いてた三線よ。弾いてみたら?」って何気なく「三線」を渡されたのです。
両親が故郷の徳之島を離れ、奄美大島に移り住むとき、おじいちゃんが渡してくれたものでした。麓さんは、それを持って公民館講座で三線を習い始めました。
三線との出会い
「僕の先生、自分ではほとんど唄わないで見てるだけなんですよ。唄わないのに、習いに来た人がみんな笑ってる。何で?ぼくの住んでた村は、ふつーにあちこちで島唄が流れてるようなこところで、先生は、奄美の昔話なんかをしながら、ここぞという時に唄い出す。それが無茶苦茶、カッコ良くって。そうか、島唄って、ここぞって時に、みんなを笑顔にするための武器なんだって思いました。」
知れば知るほど、島唄の奥深さを知った麓さんは、「これを極めるのは至難の業。師匠を一生かかっても超えられない」と思ったそうです。
自分の武器は何だろう?
三線や島唄では敵わないけど、喋りなら、師匠に負けない自信がありました。
『自分は喋りを武器に身を立てよう。皆を笑わせる仕事、お笑いで一流になる!』麓さんの夢を追いかける青春の一ページが始まりました。
向かったのは、お笑いの本場、大阪の吉本興業。吉本の芸人養成学校に入り、そこでメキメキと頭角を現していきました。
「けっこう、エリート街道まっしぐらでした。漫才コンビが受けて、若手の劇場で月10本くらいのライブをもらって、なんばグランド花月にも出演。4年くらいで地元のテレビにも出るようになりました。でも、どこか焦りがあって、早くしなきゃ、立ち止まってなんかいられないという思いがあって、次はメジャーデビュー。それには、東京に行かなきゃと、吉本興業を離れ、単身上京しました。」
東京では、大手プロダクションに入り、若手の劇場ライブでファンが増え、ついに当時の人気お笑い番組「エンタの神様」に出演するチャンスを手にしたのです。
強烈なキャラクターを前面に出した「すもも」としてのメジャーデビューでした。
「同じころ、芸人にオードリーや、赤プル、狩野英孝なんかがいて競い合っていました。あの頃は、自信もあったし、競り合って『エンタ神様』の出演枠をもらって、これで売れた!夢を手に入れた!っていう達成感がありました。」
当時「エンタの神様」視聴率は20%を叩き出すお笑いの看板番組でした。ここを足掛かりにして、トップ芸人へとのぼっていく道がもう目の前に見えているように思えました。
しかし、試練はすぐにやって来ました。
「視聴率を落としたんです。20%だったのが、13%に急降下。これって700万人がチャンネルを変えたって言うことです。でも僕はその時まだ、本当の怖さを知りませんでした。」
プロデューサーから降板を告げられ、テレビの仕事はあっという間に無くなりました。
その日から世間の目がガラリ変わり、どこにいってもお笑い芸人としてダメだと言われているような気がして、気持ちが沈んでいきました。
活動の中心はテレビから舞台になり、少ない出番で笑いをとる仕事を続けながら、お笑いのR1グランプリでのリベンジを心に誓っていました。しかし結果は2回戦で敗退。完全な挫折でした。
故郷へ
もうこのキャラはやめよう、故郷に帰ってリセットしようと決意したのが28歳の時。
喋りで勝負したいのに結果が出ない事への苛立ちや葛藤を抱えたままの帰省でした。
島には帰らず、鹿児島の祖父母と同居しながら、パチンコ店の情報誌のカメラマンやライターをしたり、長距離トラックの運転手をしたりもしました。
「心に空いた穴を埋めるために、とにかく動いていた感じでした。がむしゃらに色々やってみるんだけど、結局、その穴は埋まりませんでした。お笑いのチームを立ち上げて、細々とライブをやってはいましたが、これからどこに向かっていけばいいんだろう?と悩み続けていました。」
島唄との再会
ちょうどその頃です。島の同級生から、「島唄やってるんだけど、一緒に手伝ってくれんけ?」って声がかかったのです。
三線も弾けるし、喋りも出来るから、「いいよ。」と気軽に引き受けました。
10年ぶりの島唄でした。友人が仕事の傍ら続ける島唄ライブにボランティアとして加わり、島唄を弾いたり、喋ったり、とても楽しい時間でした。
そんな中、麓さんは、神が降りてきたような出来事に出会います。
「交通費でも出ればいいなぁと思って、天文館の路地裏で路上ライブをしたんです。そしたら、僕らが島唄を唄い出すと、みんなが足を止めて、人の輪がどんどん広がっていって。島出身でもない人達が『頑張って!』と声をかけ、お金まで入れてくれて…泣いてくれる人までいたんです。
「今度、行きつけの飲み屋でライブしてよ。」「うちの町のお祭りやるから来てよ。」という人まで出てきて。
あれ?何これ?何でみんなこんなにあったかいの?
嬉しくて、嬉しくて、この時、島唄ってすごいんだ!故郷って、何てあったかいんだって肌で感じたんです。
人に裏切られたような気持ちを引きずっていた僕にとって、なんかすごいものを見つけたような気がして、雲が晴れていくのを感じました。
しまんちゅ(島の人)を、やまとんちゅ(本土の人)が助けてくれたんです。」
島唄のこと…
島唄を習い始めた頃「島唄は人を笑顔にする武器」と感じていたことが、蘇ってきました。
奄美島唄には「唄半学」という言葉があるそうです。島唄を覚えたら「人生勉強の半分は学んだようなもの」という言葉です。
島唄の世界はとても奥深く、多様です。「かけ唄」(恋の駆け引きから唄あそび)から「神・物語唄」(神様に感謝や願い事をする唄)「人生哲学唄」(苦しいときや困ったとき、人としてのあり方を教えてくれる唄)まで、シマ(集落)の人たちの暮らしの中から生まれ、長い間、受け継がれてきたものです。
麓さんは、そのどれもが、人の心に寄り添い、人の心を耕し、生きていく力を与えてくれるものだと確信し、心が決まりました。
自分が島唄で助けられたように、『今度は島唄でみんなを勇気づけたい、笑顔にしたい』そんな気持ちが湧きあがってきました。
こうして麓さんは、同じ思いの仲間と共に、島唄を通して故郷、奄美の文化を受け継ぎ、伝えていく!NPO法人あまみ紬人~つむぎんちゅ~を立ち上げたのです。
夢はすぐ近くに!
麓さんたち「あまみ紬人」の活動は、直に島唄を届けるライブが中心です。県外から来たお客さん、修学旅行生、県内各地のイベントやお祭りなど、呼ばれたところには喜んで出かけています。
目指しているのは、島唄を知らない人も知ってる人も、お年寄りも若い世代の人も、誰もが楽しめる島唄ライブ。触れて、楽しんで、島唄のことをもっと知ってほしいと思っています。
「都会で夢を掴もうと必死になっていたけれど、夢は、すぐ近くにあったんだなぁって思います。そのことを気づかせてもらって、今はその宝をみなさんの元に届けることでご恩返しをしていきたい。島唄を唄っていると、『大丈夫だよ。あなたが笑ってるだけで、生きてるだけで、誰かを助けてるんだよ。あなたがいるだけで、誰かを支えてるんだよ。』って思えてくるんです。」
島唄は生きるための智恵
麓さんは、島に古くから伝わるこの言葉が好きで、この言葉を島唄に乗せて、ライブでよく唄うそうです。
木や山うかげ(木は山のおかげ)
水や海うかげ(水は海のおかげ)
ちゅう(人)や世間うかげ(人は世間のおかげ)
千年近く唄い継がれてきている奄美の島唄の節や唄は、その言葉に色んな力が宿っている。それをどう解釈し、どう伝えるか、これが僕ら世代がやることだと思う。
(あまみ紬人~つむぎんちゅ~の活動報告より)
「色んなところに、色んな方に助けられ、ここまでやってこれた。うかげ(おかげさま)です。一緒に同じ思いでやって来た仲間がいたこそ、ここまでやってこれた。うかげ(おかげさま)です。決して一人ではできなかった。」
これからの夢は?
「やっぱり僕の基本は、お笑い芸人「ふもと」かなぁって。だから「ふもと」は、島唄やりながら、司会、お芝居、書、曲…色んなことに挑戦していきます。ふるさとからお笑いありきのリミックスを目指します。」
麓さんが、暗闇の中にあったとき、再起を後押ししてくれたのは「ふるさと」とそのふるさとで長い間大切にされてきた「島唄」でした
宝物は、すぐ近くにあることを見つけて、これからの道が見えてきました。人と人、街と街、心と心を紡ぐ紬人(つむぎんちゅ)として、仲間と共に「ふるさとの心、豊かさ」を耕し続けます。
NPO法人 あまみ紬人
~つむぎんちゅ~からのお知らせ
出張!島唄♪出張!蛇皮線教室、福祉活動など様々な取り組みを行っています。
詳しくは、下記のホームページをご覧ください。
>> NPO法人 あまみ紬人~つむぎんちゅ~