今年の元旦。桜島から登る朝日です。明治維新から150年目を迎えた鹿児島の夜明けです。
以前、「てのん」の歴史探訪でご登場いただいた川原さんご一家、今年の元旦、家族でこの朝日を拝みました。
向かったのがここでした。
神社参りした後、隣の南洲墓地に行きました。ここに西郷どんが眠っています!
明治維新といえば薩摩の西郷さんや大久保さんが有名ですが、僕はもう一人、紹介したい人がいるんです。小松帯刀さんです!
小松帯刀さん、10年前の大河ドラマ「篤姫」で瑛太さんがその役を演じてから一躍その名が知られるようになりましたが、西郷さんや大久保さんに比べると、まだまだ知名度は高くありません。若くして亡くなったがゆえに、長い間、歴史の表舞台に登場しなかった小松さんですが、その隠れた功績と早すぎる死を惜しんで「幻の宰相」とも呼ばれています。
小松さんの事を学ぶと、歴史が大きく動くターニングポイントに、必ずと言って良いほど小松さんが登場していることに驚かされます。
小松帯刀さんってどんな人だったんでしょうか?
鉄平くんのご案内で、小松帯刀さんについて知る歴史めぐりに出かけてみましょう。
鹿児島市の中心部(山下町)の宝山ホール(県文化センター)の前に建ってるんです。
この小松さんの銅像のすぐ向こうには西郷さんの銅像が見えています。
小松さんは、武士の中でも家格の高い家の生まれでしたが、若い頃からどんな身分の人とも分け隔てなく付き合い、とても慕われていたそうです。下級武士の集まりにも、ひとりでどんどん出かけていって、西郷さんや大久保さんたちとも親しかったそうです。
21歳の時、この地の領主・小松家の養子となって肝付尚五郎から小松帯刀になりました。ここでも、お百姓さんの苦労を労い、宴会では武士、百姓、町民の分け隔てなく交わって、いつの間にか「小松家の名君」という噂が、薩摩藩全体に広がっていったそうです。
小松さんの噂は、時の島津久光公にも伝わって、27歳という若さで、藩の最高職・家老に抜擢されたのです。これはとても凄いことだったそうです。
小松さんは久光公から、藩の重要な仕事の(政治、軍事、財政、外交、産業振興など)ほとんどを任され「薩摩に小松あり」「小松あっての薩摩」と言われるようになったそうです。西郷さんや大久保さんも大事な役目に就けて活躍できるようにしました。
当時、龍馬さんは土佐を脱藩した浪士にすぎませんでした。小松さんはその龍馬さんと親しくなり、龍馬さんが作った会社に(亀山社中・海運業の会社)お金を援助したり、仲が悪かった長州と薩摩の間を取り持つ相談をしたりしました。
龍馬さんがこのお屋敷に滞在したのは、薩長同盟が結ばれる数か月前と言われています。
1866年(慶応2年)龍馬さんを仲介にして、運命の薩長同盟が結ばれます。仲が悪かった薩摩と長州が協力することになり、これが後に、幕府を倒す大きな力となったそうです。この席には、薩摩からは、小松さん、西郷さん、大久保さん、長州側からは桂小五郎さんがいたそうです。明治維新で活躍する人たちが勢ぞろいしていました。
この秘密の同盟が結ばれたのが京都の小松さんのお屋敷だったと言われています。
この時期、時代を動かしたのは、西郷さん、大久保さん、坂本龍馬さんと言った下級武士の人たちでした。でも、身分の低い彼らだけでは政治を動かすことは難しいことでした。小松さんという人がいて(藩や朝廷や幕府にも影響力を持った)みんなを結びつけたからこそ、西郷さんたちが歴史の表舞台で活躍することが出来たことを知りました。
そして、政治の権力を幕府から朝廷に返す「大政奉還」でも小松さんは大きな働きをします。
この時、いつもは穏やかな小松さんが、将軍・徳川慶喜公に「一刻も早く」と激しく詰め寄ったそうです。大政奉還がうまくいかなかったら、一気に武力による倒幕が始まろうとしていたそうです。ギリギリまで平和に解決したいと望んでいた小松さんの勇気はすごいなぁと思いました。
こうして260年以上続いた徳川幕府の時代が終わりました。
その後、新しい政府と旧幕府側との間では争いが起きてしまいましたが、明治という新しい時代がやって来ました。幕府や藩、身分や家柄に縛られていた時代が終わり、天皇を中心とした新しい国づくりが始まりました。
病に伏せっていた小松さんも、新政府の大事な仕事に就いて(参与や初代外交官など)頑張りましたが、改革がこれからという明治3年(1870年)に病のため36歳という若さで亡くなりました。
小松さんが治めていた日置市吉利の園林寺というお寺の跡に小松家のお墓があります。
小松さんは奥さんをとても大事にしていたと聞きました。奥さんのお近さんのお墓と隣り同士に並んで建っていました。
~鉄平くんの自由研究より~
僕は日本を大きく変えた人が鹿児島にいたと知って驚きました。そして、今回の研究で、小松帯刀がいなかったらあの有名な西郷、大久保、龍馬たちの活躍は無かっただろうと思いました。また、小松帯刀はとても頭がいい人なのに、とてもやさしくて、心が広く、すごいなぁと思いました。明治維新で活躍した鹿児島の人達のことを、もっと勉強したいです。
その鉄平くんから、先日、年賀状が届きました。
年賀状には、紙芝居会に来ていた鹿児島の歴史研究で有名な原口泉先生と一緒に写った写真が載っていて、「歴史が好きになりました」とありました。
鉄平くんは、紙芝居会で原口先生が「小松帯刀がもっと長生きしていたら、その後の、歴史は違っていただろう。」と話していたことがとても印象に残ったそうです。
歴史は人によって作られ、人の力で大きく変わっていくことを知ったのですね。
鉄平くんは、今「西郷どん」に夢中だそうです。
教科書から飛び出して歴史を学ぶと、先人たちの国づくりにかける思いやその生き方が見えてきます。「西郷どん」が始まり、新しい時代を切り開いていった先人たちの人間ドラマが見えてきそうです。
温故知新。明治維新150年にあたる今年、先人たちの生きた姿から、「古きに学び、新しきを知る」始まりの年にしたいものです。
【おわりに】
最後に小松さんの人柄を伝えるエピソードをご紹介します。
幕末、英国の外交官として活躍し、日本に派遣された多くの日本人と親交があったアーネスト・サトウ氏は自らの著書でこう述べています。
「私の知っている日本人の中でも最も魅力的な人物で、家老の家柄だが、そういう階級の人間に似あわず、政治的才能があり、態度が人に優れ、友情が厚く、そんな点で人々に傑出していた」類まれな人物として高く評価しています。
また、西郷さんとのこんなエピソードもあります。
西郷さんは、小松さんと初めて会った時、度量を試そうと、自分より身分の高い小松さんを部屋で横になりながら待ったそうです。小松さんはその様子を見ると、怒るどころか、西郷さんのために枕を持ってくるように伝えたそうです。下級武士に対しても、平等にふるまう度量の大きさに西郷さんは驚き、これをきっかけに小松さんに心酔し、慕うようになったと伝えられています。
身分や家柄にとらわれず人の意見に耳を傾け、人と対等に交わる姿勢は小松さんの人生で終始、貫かれていました。志半ばで亡くなった小松さんですが、封建的な身分社会が解かれ、一人ひとりが自由にものが言え、よその国とも対等に自由に行き来できる社会の到来は、小松さんが夢に描いていた新しい日本の夜明けだったに違いありません。
【小松さんゆかりの地】
・小松帯刀銅像(鹿児島市・山下町)
・小松帯刀邸跡(鹿児島市・原良)
・小松帯刀の墓(日置市吉利・園林寺跡)