夏休みの自由研究として、娘が、戦時中に女学生だった方から体験を聞いたこと。そして戦争中の暮らしについて知るために久留米市の平和資料展に行ったことについては、前回お伝えしましたが、その続きです。
女学生の方が、当時の軍事教育についても話してくださいました。
国語の教科書も「サクラ サクラ サクラガサイタ」から「ススメ ススメ ヘイタイススメ」に変わったこと。そして、教科書に「爆弾三勇士」の話が英雄として載っていたこと・・。
では、爆弾三勇士とはどんな話なのでしょうか?
「平和資料展 軍都久留米の風景とくらし」の中に、爆弾三勇士の資料が、
1932年(昭和7年)の上海事変での中国軍との戦闘での話です。
中国軍陣地前面に広がる鉄条網を破壊し、突破口を開くことになりました。
この時、志願した工作兵の兵士3人が、点火した破壊筒(爆弾)を抱えて突撃。
鉄条網の爆破に成功しますが3人は爆死しました。
(久留米の風景とくらしの解説より)
という話です。
そして、その3人は、久留米第十二師団の兵士だったのです。
久留米市の平和資料展に行って、その事がわかりました。
娘も「えっ?爆弾三勇士って久留米の兵隊さんだったの?」ととても驚いていました。
では、当時、この三人の事がどのように伝えられていたのでしょうか?
上掲載の新聞を大きくしてみます。
天晴れ九州男児の本懐・・と書かれています。
教育した中隊長は、「我隊の名誉のために勇気と精神は全く感激の外はない」と語っています。
この3人の活躍は美化して報道され、国民は興奮し熱狂したそうです。そして、戦争遂行の機運に大きな役割を果たしていくのです。
(久留米の風景とくらしの解説より)
当時、三勇士の花瓶や、皿、メダルなども作られ、また映画や歌も作られ、全国的に大変なブームとなったそうです。
そして、その後続く戦時体制の中で、美談として語り継がれ、軍事教育の良い教材として教科書にも取り上げられていたのです。
当時女学生だった方も「爆弾を抱えて突入した3人はすごいなあ。偉いなあ」と思っていたそうです。
会場には、3人が破壊した鉄条網や杭の破片も展示されていました。
そして、三勇士の慰霊碑は、久留米市山川町の「山川招魂社」に建てられています。
自らの命を惜しまず、戦った兵士たちがいたこと。それを、美談として、戦争遂行のために教育の場でも取り上げられていたこと。それを素直に、英雄としてあこがれていた子供たちがいたこと。そんな、戦時中の事実も伝えていかなければならないと思います。
※この「平和資料展 軍都久留米の風景とくらし」は、今月24日(日)まで、六ツ門図書館展示コーナー(久留米市六ツ門町3-11)で開かれています。
