令和7年5月5日、元高島屋開発の社長、海江田順三郎さんが亡くなりました。97歳でした。海江田さんは、長年ファッションビル「タカブラ」の運営会社だった高島屋開発の社長を務め、鹿児島の経済発展に尽力してこられました。
その一方で、県や市の日中友好協会の会長を長年務め、両国の草の根交流にも力を注いでこられました。そこには自ら鹿児島大空襲を経験し、戦争の悲惨さを知る一人として、「友好こそが最大の安全保障」をいう揺るぎない信念があり、最晩年まで一貫して反戦・平和を願い続けてきました。奇しくも戦後80年の今年ご逝去された海江田さんを偲び、4年前、私共「てのん」に語って下さった戦争体験のお話を改めてご紹介したいと思います。
◆ 平和を願い続けて…
5月6日、7日に行われた海江田さんの通夜、告別式には、多数が参列し、海江田さんの誰に対しても垣根をつくらない穏やかなお人柄と生前の偉業を改めて感じることができました。県内の政治、経済の関係者はもちろんのこと、長年心血を注いできた日中の友好親善の活動を称える方たちも多く、平和主義を貫き、人生を全うされた姿に胸が熱くなりました。
てのんで海江田さんの戦争体験を伺ったのは、令和3年のことでした。佐世保への勤労動員、帰省中に鹿児島大空襲に遭遇し、実家が焼失し、死を覚悟したこと。自らが、軍国少年だったことを振り返り、当時の危うい日本の空気などについて、詳細にお話して下さいました。93歳のご高齢にもかかわらず、時間を惜しまず、長い時間を費やしてお話して下さったのは、戦争の体験を風化させてはいけないという強い気持ちがおありになったのだろうと感じました。昭和20年6月17日、17歳の少年が体験した鹿児島大空襲とはどんなものだったのでしょうか。
◆おわりに
かつて軍国少年だったと語る海江田さんの戦後は、反戦を声高に訴えるのではなく、隣国が人と人で繋がり合い、理解し合い、友好の絆を築いていく地道な草の根の平和活動の実践でした。告別式で聞かれた中国の関係者からの数多くの感謝の言葉は、「力ではなく、相互理解を」と訴えた海江田さんの蒔いた種が成果となって根づいていることを感じさせました。世界では、国家間の対立と分断による戦争や紛争が今も続いています。戦後80年、体験者としての海江田さんが生涯をかけて伝えようとした次世代へのバトンをしっかりと胸に刻みたいと思いました。










