6月17日は、今から79年前の太平洋戦争末期、鹿児島市に大規模な空襲があった日です。その記憶を「てのん」に語ってくださった方のお話を改めてご紹介します。また「てのん」では、こうした戦争を体験した方々から受け取ったことづてを語り継ぐお話会を夏休みに開催します。
太平洋戦争末期に受けた大空襲
太平洋戦争末期、アメリカ軍は沖縄に上陸し、多くの市民が巻き込まれる戦場となりました。そして、次の上陸地点として鹿児島が標的にされ、また、特攻基地もあったことから、地方都市ながら幾度も攻撃されることとなりました。鹿児島市は1945年の3月18日から8月6日まで、合わせて8回の空襲を受け、なかでも最も大きな被害がでたのが6月17日の大空襲でした。
午後11時5分に始まった空爆は1時間以上にわたって続きました。この日、B29百数十機の大編隊から投下された焼夷弾は13万個(推定)(「鹿児島市史」)とみられ、鹿児島市は一面焼け野原となりました。そして、死者2,316人、負傷者3,500人という大変な被害が出たのです。
その鹿児島大空襲の体験者の一人、海江田順三郎さんが当時のことを語ってくださいました。
海江田順三郎さんの記憶

当時鹿児島市の潮見町(現在の泉町)にあった海江田さんの実家に焼夷弾が直撃。すさまじい火の勢いで消火することもできず、家族ではだしで海岸の方にあった大型の防空壕に逃げ込み、なんとか命が助かったというお話です。「もう街中が火の海で、城山の木々は赤く燃え、ビルの窓という窓からは火が勢いよく噴き出し、あの光景は、今でも目に焼き付いて忘れることができません。」などと語る海江田さんのお話から、大空襲がどれだけすさまじく、突然の空襲に襲われた人々の切羽詰まった状況が想像できます。
鹿児島市が焼け野原になり、一夜のうちに2、300人を超える方がなくなったという、今では考えられないような状況がかつて鹿児島でもあったことを忘れてはならないと思います。
終戦間際にもあった鹿児島空襲の悲話
鹿児島大空襲の後も、鹿児島市は空襲を受けています。
「かつて、この場所で空爆があり、戦争の犠牲になった人たちがいたことを知っている人は、ほとんどいないですよ。」と語る、岡村寛次さん。
太平洋戦争末期の1945年7月27日、鹿児島市の七窪水源地周辺に4発の爆弾が投下され、岡村さんの祖母フミさんが犠牲になりました。岡村さんは戦後生まれですが、自分の生まれ育った場所でかつてあった戦争のことを調べ、体験者の声を聴き、記録として残す活動をされています。
岡村さんの思いを伺いました。
空襲で犠牲となった祖母について語る岡村寛次さん

岡村さんのお話を伺うと、歴史の中に埋もれている戦争悲話があちこちに残っているんだろうなあと感じます。それを今から掘り起こしていく作業はとても大変で、なかなか進まないと思いますが、せめて、これまでお話を伺ってきた方たちの戦争体験を、私たちが語り継ぐことはできるのではないかと思い始めました。
8月3日に戦争を語り継ぐお話会を開催します。
そこで、「てのん」では、今年の夏休みの8月3日に、戦争を語り継ぐお話会を開催することにしました。
内容としては、私の母親の体験をまとめた本「私が子供だった頃~戦争の記憶~」をもとに、戦時中の教育、食べ物、空襲を受けた日々など、当時日本中の誰もが経験した労苦などをお話したいと思います。
この本は、戦中戦後の人々の暮らしがわかる資料として、国立博物館「昭和館」から提供の依頼を受けて同館に収蔵されています。
また、「てのん」で紹介した鹿児島大空襲のお話など、これまでお伝えしてきた戦争を体験された方のお話もしたいと思っています。
戦争について深く知るきっかけを作り、戦争の記憶を語り継いでいけたらと思っています。
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