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「福祉」

親が認知症になった時・息子介護② 通い介護のその先に…

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少子高齢化や家族形態の変化に伴って息子介護が急増しています。

主たる介護者(同居の場合)が息子の割合は、ついに嫁(16.3%)を超え17.3%となりました。(2016年版・国民生活基礎調査) 有村宣彦さんも息子介護を経験するひとり。

認知症になった母親を通いながら介護する中で、辿り着いた境地とは?

ひとりっ子の私が「通い介護」を選んだ理由(わけ)

母親が認知症と分かった5年前。その時、有村さんは40歳目前、理学療法士として病院に勤務、働き盛りで忙しい毎日でした。

一方、作業療法士の妻も、育児休業から職場復帰したばかりで、2歳にならない娘の育児と仕事の両立で、手一杯の状態でした。

「私は晩婚で、妻は高齢出産。子どもはまだ小さくて共働き。まさに今の日本の最先端の家族ですよね。」しかも有村さんは、ひとりっ子。頼れる兄弟はいませんでした。

認知症になったひとり暮らしの母親をこれからどのように支えていけばよいのか真剣に考えたそうです。

認知症の母親の介護問題に直面した 有村宣彦さん家族認知症の母親の介護問題に直面した
有村宣彦さん家族

「妻は『私がお母さんの面倒を看ても良いよ。』と言ってくれましたが、その時、妻には妻の人生があるんじゃないかと思ったんです。仕事も子育ても頑張っている最中でしたから、この事で、やりたい事を諦めてほしくないなぁとも思いました。だから、家族が今の生活を壊さないかたちで、母親を支えていく方法はないのか、自分なりに考えました。」

こうして選んだのが、「通い介護」というかたちでした。

日中は介護サービスを利用してもらいながら、朝や夜に車で15分ほどの距離にある母親の家を訪ねて、見守りや身の回りの世話をするというものでした。母親との適度な距離感を保ちたいという思いもありました。

お母さんは、レビー小体認知症との診断を受けていましたが、当時は介護1で、まだ軽度でした。デイサービス等の通いサービスで、食事や入浴、見守りなどをしてもらって、その他の時間に家族がサポートに回るという選択でした。でも、事はそう簡単には運びませんでした。

断固、介護サービス拒否!

「私はどこも悪くないのに、どうして行かなきゃいけないの。人様のお世話になるのは嫌。」公的な介護保険のサービスを受けることを、お母さんは断固、拒否。

「お願いだから、行ってよ~昼間は仕事があるんだから」これが本音でした。一見、何事もなく暮らしているように見えるお母さんでしたが、スーパーまでの道順が分からない、お金の計算が出来ない、料理の手順が分からないなど、生活は支障をきたしていました。「どげんかせんないかん。でも、無理やりはダメだな」と思いました。

そこで頼ったのが、お母さんの家から200メートルほどのところにある「おたふく」さんというデイサービスでした。相談したところ、「じゃぁ、夕食にお弁当を届けることから始めてみましょうか?」ということになりました。

協力依頼

「有難い。夕食を配達してもらえたら、食事の心配も減るし、会話もしてもらえる。介護スタッフに母の状態も毎日確認してもらえる。」介護保険外のサービスで実費でしたが、何にもかえがたい安心となりました。

お弁当の宅配で、デイサービスの職員さんと顔なじみになったことで、お母さんの表情も変わってきました。

デイサービスから届くお弁当に笑顔…デイサービスから届くお弁当に笑顔…

こうして3ヶ月でデイサービスなどの介護保険サービスの利用にこぎつけることができたのです。

それでも心配なことは起きました。3年程前のこと。大雨の日に警察署からの電話。お母さんが道に迷い、警察に保護されたのです。その日は、デイサービスの無い日でした。

何事もなく、ホッとしましたが、自宅近くにはJR線や市電も通っていて、危険個所がいっぱいあります。お母さんを守るという名目でこんなことまでしてしまったこともありました。

『ごめんね』と思いながらの玄関の施錠でした!『ごめんね』と思いながらの
玄関の施錠でした!

理学療法士として医療現場で働く有村さんにとって「やるべきことではない」ことは百も承知でした。仕方なく閉じ込めてしまっていることへの罪悪感。この状況を何とか打開したいと思っていました。

「認知症を隠さない」

そこで考えたのが、「認知症を隠さない」ことでした。地域の人にお母さんのこと知ってもらい、認知症のことを正しく理解してもらうことで、長年住み慣れた町で、これまでの地域との繋がりを保ちながら生活してほしいと考えたのです。

有村さんは、デイサービスおたふくさんの協力を得て、度々お母さんの家で小さな認知症カフェを開きました。

お母さんの自宅で開いた認知症カフェお母さんの自宅で開いた認知症カフェ
認知症カフェってどんなとこ?注目の認知症カフェに行ってみた!認知症カフェ、最近よく耳にしませんか? ここ数年、急増しています。認知症の方やその家族、地域の人、医療や福祉の専門職が気軽に集う語らい...

ご近所さん、民生委員さん、家族、デイサービスのスタッフ、地域包括支援センターの職員さんまで来てくれて、一緒にお菓子やお茶を囲みながら、和やかな語らいひとときが生まれました。

お母さんの状況を話したり、認知症のことを学んだり しましたお母さんの状況を話したり、
認知症のことを学んだりしました

すると近所の人たちからは思いがけない声が…

「そうだったんだね~最近外に出てこられないから、気になっていたんですよ。」
「家にわざわざ訪ねて行くのも何か気が引けて、声がかけられなかったんですよ。」
「これから時々、様子を見に行くね~」

最後は、握手でお別れ…最後は、握手でお別れ…

すぐそこに支えてくれる味方がいた…

あ~そうだったんだ。みんな気になりながら、どう関わったら良いのか分からなかったんだ。新たな発見でした。

認知症カフェでのお母さん認知症カフェでのお母さん

「私はいつも一緒にいてあげられるわけじゃない。すぐに駆け付けられるわけじゃない。うちの実家の鍵の開け方は、近所の方の方が良く知っています(笑)おたふくさんも『次の作戦会議をしよう』と言ってくれるし、有難いです。認知症の母とダメ息子のことをみんなが助けてくれる。壁を取り除いたら、扉は開くんだと思いました。」

自宅での認知症カフェに力を貸してくれた 「デイサービスおたふく郡元」のスタッフと…自宅での認知症カフェに力を貸してくれた
「デイサービスおたふく郡元」のスタッフと…

地域の人と繋がり、力を借りる…

有村さんはおたふくさんの企画するイベントにもお母さんを積極的に連れ出すようにしました。

夏祭りや、のきさき市にも出かけて夏祭りや、のきさき市にも出かけて

 

地域の人たちと交流地域の人たちと交流

すると、そこには、顔なじみのデイサービスの利用者や地域の人たちも顔を見せていて、表情が硬かったお母さんの顔は、柔らかく変わっていきました。この変化が何よりも嬉しいことでした。

有村さん親子も夏祭りに参加!有村さん親子も夏祭りに参加!

 

出て行くことで、自然な繋がり合いが生まれた…

「これは家族の力だけでは、とても出来ないことした。認知症になっても母は母。そのありのままを知ってもらうことで、地域の人たちと繋がり合って、暮らしていくことが出来ることを実感しました。勇気を出して『認知症を隠さないこと』から生まれた学びでした。」

家族とのこんなひとときも大事にしてきました(妻と娘と母のお散歩)家族とのこんなひとときも大事にしてきました
(妻と娘と母のお散歩)

転職と転居

しかし、シビアな現実もありました。認知症の診断を受けた時、介護1だった介護度はあっという間に介護4になりました。食事も声をかけないと止まってしまったり、歯磨きや顔を洗うこと、着替えにも手助けが必要になりました。

レビー小体認知症特有の幻視も頻繁になり、混乱することも度々でした。常時、身の回りの世話や見守りが必要になり、有村さん自身も生き方の見直しを迫られることになりました。

「母親の介護の問題に直面して、このままの仕事じゃとても無理だなぁと思いました。続けていたら職場にも自分にも無理がくる。ちょうど40歳を過ぎて自分の人生を見つめ直す時期でもありました。もっと時間の融通がきく仕事を考えるようになりました。」

有村さんは2年前の9月、長く勤めた病院を退職。理学療法士仲間と、NPOを立ち上げました。

これまでのキャリアを生かして高齢者や障がい者にとって役にたつ介護やリハビリの技術や知識を提供することを目指すNPOです。母親の介護によって迫られた人生の軌道修正を、自分の人生の転機として前向きに考えようと思ったのです。

住まいの転居も決意しました。車で15分ほどの距離にあった自宅マンションの売却を決め、昨年6月に母親の家から歩いて5分の中古マンションを購入。引っ越しました。

見守りや生活のサポートのために、毎日早朝や夜間に通っている負担が少しでも軽減されると考えたからです。

10年前に購入したマンションを離れることを決意10年前に購入したマンションを離れることを決意

 

 引っ越し前…引っ越し前…

有村さんのFacebookより

ここに住もうと妻と決め、購入。
色々な思い出もできた場所。この場を離れる決断をしました。

今に至るまでは色々悩みもしました。
一番何が良いのか分かりませんが、決めたことですので前進あるのみです。
しかし、何もない部屋は広く感じます。 寂しい気持ちになります。

「正直、きつい面もありました。前のマンションのローンも残っている。2重ローンですよね。(笑)妻は『同居しようか』と言ってくれましたが、私は家族の状況を考えて、妻や子供には、介護よりも母と接する時間を大事にしてほしいと考えました。

私自身が煮詰まらないためにも、適度な距離感が必要とも思いました。多くの方たちに支えてもらいながら「介護4」「認知症」「ひとり暮らし」この状況で、出来るところまでやってみようと思ったんです。」

どこまで出来る在宅介護

昨年になってお母さんの認知症はさらに進み、在宅中心の生活は厳しくなっていきました。自宅での転倒のリスクも高くなっていました。

介護保険で小規模多機能という施設があります。泊まったり、自宅に戻った時は、ヘルパーさんやデイサービスを利用できる、いわば「通い」「泊り」「訪問」のサービスを組み合わせながら、在宅生活を支えるというタイプの施設です。

有村さんのお母さんは、7月から小規模多機能施設を利用するようになりました。

有村さんは、お母さんが自宅に帰った時に、早朝と夜間の一日4回(朝5時と7時、夜7時と10時)お母さんの家を訪ね、食事や着替え、排泄などの介助や見守りなどのサポートを続けていました。

介護体験を語る有村宣彦さん(去年9月)介護体験を語る有村宣彦さん(去年9月)

「正直、いつまで続くかなぁ、もう限界かなぁと毎日のように思うし、揺れ動いてます。どうして頑張っているんでしょうかねぇ。それは、母の希望だからです。病気になった頃、『私はずっとこの家で暮らすよ』ってよく言ってました。『家が落ち着くんだろうなぁ。この家で暮らしたいんだろうなぁ。』というのがあって、それを出来る限り尊重したいという思いなんです。」

それでもその日はやってくる

今年に入ってから、有村さんからお母さんが施設に入所されたとの連絡を受けました。昨年の11月中旬のことだったそうです。認知症との診断を受けてから5年が経っていました。

決心がついたのには、ある出来事がありました。昨年秋、有村さんが自宅を訪ねると、お母さんが頭から血を流して倒れていました。慌てて病院に運び、縫合するなどの手当てしてもらいました。大事には至りませんでしたが、1歩間違うと命に関わる危険がありました。揺れ動いていた心に決心がついた時でした。

「何か糸が切れたっていうか、もう限界かなぁと思いました。それに、母が、私が息子だということや自宅で暮らしているということを認識できなくなってきていることも大きかったかもしれません。もういいよと言われているような気がしました。私の体力の限界もありました。施設に入ってから、落ち着いて暮らしているのが救いです。」

母の最期の子育て

認知症が重くなってからはお母さんに「今どうしたいの?こんな時、どうしてほしいの?」という答えを聞くことは出来ませんでした。有村さんのここ数年間の選択は、言葉として出てこない母親の意向と対話し、家族の実情と折り合いをつけながら手さぐりで選び取っていく日々でした。自分主導で進めざるを得なかった状況に、葛藤や迷いもあったことでしょう。有村さんは、元気なうちに、もっと母親とちゃんと話をしておけば良かったと振り返ります。

一方で、介護体験によって、思いもよらない多くのことを教えてもらっている自分に気づかされました。認知症の母親をありのままに受け入れること、人の助けを借りることで救われること、顔なじみの人たちに包まれると母親が笑顔になること、それでも限界がやってくること…

有村さんとお母さん有村さんとお母さん

「母は私の命に明かりをつけてくれた人。その命の行く末を見届けるのは私の責任だと思っています。母は認知症になることで、老いていく姿を見せながら、今も私に色々なことを教えてくれています。冷静に振り返ってみると、これは、母が私に最期にしてくれている『子育て』なんじゃないかと思えてくるんです。」

年が明けた1月。有村さんのお母さんの家に地域の方々が集まっていました。これまで認知症カフェに来て下さっていた方や近所で声かけして下さった方の姿もありました。

お母さんの自宅で(今年1月)お母さんの自宅で
(今年1月)

 

お母さんのことを報告する有村さんお母さんのことを報告する有村さん

有村さんはその人たちを前に、お母さんが施設入所した経過を報告し、これまで支えて下さったことへの感謝の気持ちを伝えました。

いつも自分の介護の様子を冷静に、どこか俯瞰するように話して下さった有村さんですが、お母さんの家のあちこちには有村さんが書いたヘルパーさんや看護師さんたちへ宛てた細やかな伝言が貼られていました。

ギリギリまで在宅生活を続けられないかと向かい合った日々が見えてきて、その苦闘と現実の重みが伝わってきました。

在宅介護の名残が自宅に…在宅介護の名残が自宅に…

おわりに

有村さんは「介護は何が正解か分からない。正解のない怖さがある。今でもこれで良かったのかと思うことがある。」と話します。

息子介護の時代が到来しています。しかし息子介護をめぐっては、介護離職、圧倒的に多い息子による高齢者虐待、介護疲れや介護うつなど、悲劇的な部分が社会の問題としてクローズアップされています。

そこからは、誰にも頼れず、助けを求めず、社会から孤立していく介護者の姿が見えてきます。

有村さんが、常に保とうとしていた「母親との距離感」と「人の助けを借りること」それは、全力で介護しようとする人たちが陥りがちな「心と体の疲弊」を回避するための自衛だったのかもしれません。

自らを「ダメ息子」と呼び、「いい加減」「抱え込まない(発信する)」を発信する有村さんから、息子介護の暗闇から抜け出す幾つものヒントが見えてきました。

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