有村宣彦さん45歳。妻と7歳になる娘の3人家族です。
5年程前、ひとり暮らしだった母親の異変に気づき、認知症と診断されました。
当時、共働きの妻と2歳に満たない子どもの子育て真っ最中でした。
今、日本では、有村さんのように子育てと介護を並行して行っているダブルケアと言われる人たちが2万5000人いると言われています。
不安、混乱、諦め、気づき…様々に揺れ動きながら、認知症の母親と向き合う有村さんの息子介護のお話です。
体験を話すことが「抱え込まないこと」だった
去年の9月、ある認知症の研修会の壇上に有村さんの姿がありました。
有村さんは、自分の体験を出来るだけ包み隠さず伝えたいとの思いから、このような場に積極的に出て行っています。
「私は、理学療法士です。医療の現場でよく認知症の方を介護している家族の方に『抱え込まないで。何かあったら相談して下さいね。』と言っていました。
でも、実際、相談に来る人は、ほとんどいませんでした。自分の母親が認知症になって、自分もその当事者になって『これでは、まずい』と思いました。
私は、全然スゴイことをやっている訳でありません。今も、うまくいったり、いかなかったり、悩んだりの毎日です。
だからこそ、迷ったこと、困ったこと、感じたこと、私が体験したことを声に出して言うこと、伝えることが大事だと思っています。」
その有村さんが体験したこととはどんなことだったのでしょうか?
異変を知らせる従妹からの電話で始まった…
それは、5年半前の事でした。有村さんの元に従妹から一本の電話が入りました。
「お母さんが、家に男の人が住み着いてるって言ってるよ。物騒だから、警察に連絡した方が良いんじゃない。」
母親は父親が亡くなってからひとり暮らしでした。
有村さんは慌てて、実家に向かいました。すると母親は、何事もなかったように一人でテレビを見ていました。
でも、テーブルの上にはカレーが二人分用意されていました。
これはおかしい…不安がよぎり、それから毎日、仕事帰りに母親の家を訪問するようにしました。
すると、お金の保管場所が分からない、11月なのに蚊取り線香を焚いている、近くの小学生が家に上がってきて帰らないと訴えるなど、おかしな行動や言動が見られるようになっていました
不安が膨らみ、脳神経外科を受診することにしました。
認知症と分かるまで、病院を転々とした日々
認知症のことが頭によぎってのことでした。でも当時、母親は、まだ60代後半。違ってほしいと祈るような気持ちでの受診でした。病名はすぐには分かりませんでした。
認知症と診断されるまでの紆余曲折
幾つもの病院を渡り歩き、認知症と診断されるまで、半年近くもかかりました。その経過はこうです。
- 最初の脳神経外科で…
心配いりません。年相応の海馬(脳の記憶や空間学習能力に関わる器官)の萎縮ですよ。痩せていらっしゃるので栄養をしっかり摂りましょう! - 眼科へ…
目に問題があるのではないかと思い、眼科を受診。様々な検査を受けるが、質問にうまく答えられず、意味を理解できていないのではないかと不安になったそうです。でも結果は、問題なし。やっぱり、栄養をしっかり摂りましょう!と言われました。 - インターネットサイトで必死に調べ「専門外でも、ゆっくり時間をかけて向き合います」と書かれた病院を見つけ、藁をもすがる気持ちで受診。ここでも駄目でした。「うちの対象の患者さんじゃないですね。ここに来るのは場違ですよ。」とまで言われ、ガーン。もう訳が分からなくなったそうです。
「母親に何が起こっているのか分からない。」この時期が一番、焦りと不安が募った時期だったと言いまず。
そして、ようやく知人の紹介で認知症専門医のところに辿り着き、レビー小体型認知症であることが分かったのです。
奇妙に見えた行動はレビー小体型認知症の症状だった
ひと口に認知症と言っても様々なタイプがあり、あらわれる症状も様々です。
レビー小体型認知症は、物忘れなどの記憶障害や認知機能障害の他に、見えないものが見えたり(幻視)理解や感情の変動が大きい(良い時と悪い時の差が目立つ)歩行などの動作の障害(パーキンソン症状)大声での寝言や行動化(レム睡眠行動障害)など特徴的な症状があらわれると言われています。
有村さんのお母さんは特に幻視が強く見られました。有村さんは、こうした症状について頭では理解しているつもりでした。
しかし、鏡に映った自分にずっと話しかけている母親や家に誰かが来ていると言って布団を二つ敷いている母親を目の当たりにする度に、冷静でいられなくなる自分がいました。
言ってはいけない言葉を連発してしまっていた頃
「頭では分かっているんです。でも、当初は『違うでしょ。誰もいないじゃない。』『何してるの!しっかりしてよ。』を連発してましたね。(笑)すると
母親も『私をバカにして。帰りなさい。』となる。言ってしまった直後から、自分が嫌になって、私もイライラ。
そんなことが続きましたね。私の気持ちの切り替えが必要でした。
当初は、『母を救わないと。何とかしないと。』という気持ちが強くて、良くケンカもしました。そのうち『間違いを正すことが重要じゃない』ということが分かってきました。
否定しないで「ありのまま」を受け止める
『ちゃんとしなさいよ。』『そんなこと言わないの。』これは言ってはいけないワードだったんですよね。
今は、『家に一緒にいてくれる人がいて良かったね~ひとりじゃ寂しいもんね~。何か心配なことがあったら言ってね。』です(笑)
母の介護を通して思うこと
有村さんはこの日、認知症カフェで今の心情をこの二つの言葉にして伝えました。
「後悔」とは、母親の異変にどうしてもっと早く気がついてあげられなかったということ。思い返せば、心当たりがありました。
ひとり暮らしになってからもお母さんの勝代さんは、お達者クラブや触れ合い会食など、地域の交流の場に積極的に出かけては楽しんでいました。それがいつの頃からか、外での活動に出かけなくなっていました。
「その頃から母親の中に、意欲の低下や、上手く段取りが出来ないなどのことが起きていたんじゃないかなぁと思います。でもその時は、気にも留めなかったんですよね。その小さな変化に気づいてあげられなかったことへの後悔は今もあります。」
「介護者は孤独なもの」介護者の思いを伝えていきたい…
そしてもう一つが「不安」
「この半年で、母の認知症は急速に進んできています。今は母のひとり暮らしを介護サービス、私の通い介護、地域の方々の見守りなどで支えています。でもこの先、この生活がいつまで続くのだろうかという不安がいつも頭の中にあります。家族や色々な方の支えを有難いと思いながらも、ふと孤独感に苛まれることがあります。『この先、どうなるんだろう?』介護者は、やはり孤独です。私の不安や孤独も含めて介護者の思いをお伝えしていきたい。」
認知症と診断された時、介護1だったお母さんは、一年後には介護4になり、重度化が進んでいます。
最近では、息子の有村さんのことを「お兄さん。お兄さん。」と呼ぶことが増え、食事は声かけをしないと止まってしまいます。ズボンを頭にはこうとしたり、排泄の失敗も増えてきました。
取材をさせて頂いた昨年の秋、有村さんは、介護サービスを使いながら、早朝と夜間の一日4回、母親宅を訪問し、見守りながら食事や排泄の介助をするという通い介護を続けていました。
有村さんは『介護のかたちは、一人ひとり違う。これが正解という答えは無い。私の経験が同じように介護の真っ只中にいる方々やそれを支える人たちにとって、ひとつの参考になればと思っています』と語ります。
この時、自身の介護体験を淡々と語りながらも、有村さんの心の内では「施設」か「在宅」かのギリギリの苦悩が続いていました。
「仕事」に「子育て」そして「介護」と重なった時、有村さんは、その事をどう乗り越えてきたのでしょうか。次回は、有村さんが認知症になったお母さんの在宅生活をどのように支えたのか、息子介護、その現実についてお伝えします。
認知症かな?と思ったら…
有村さんの後悔。「もう少し早く気がついていたら…」という言葉が心に残りました。
認知症は、治すことは難しいけれど、早期発見・早期治療に繋げることで、進行を遅らすことが出来ると言われています。
「早期発見チェックリスト」などネットでも多数、掲載されていますが、その中の一つをご紹介します。
「公益社団法人 認知症の人と家族の会」のホームページ
※ 家族がつくった「認知症」早期発見のめやすが掲載されています。
また「認知症が心配になったら、早めに医療機関で受診を」と言われますが、実際どこに行けばよいのかとなると困ってしまう方も多いかもしれません。
こちらも「公益社団法人 認知症の人と家族の会」のホームページの中に全国もの忘れ外来一覧が掲載されています。
※ このリストは医療機関を推奨するものではありませんが、情報の一つとして参考にして頂ければと思います。
都道府県、市町村によってはホームページ上で情報提供
鹿児島県はホームページの中の「認知症かな?と思ったら(専門医療相談)」の中で、認知症疾患医療センター、もの忘れの相談ができる医師、認知症サポート医、認知症専門医などについての情報を公表しています。
身近に気軽に相談できる「かかりつけ医」がいらっしゃれば、そこから紹介して頂くのも良いかもしれません。
また、「認知症に関する心配事やご相談事」に関しては、お近くの地域包括支援センターにご相談することもお薦めします。
「まずは身近などなたかに相談すること」が大切です。