2020の東京オリンピックに向けて、代表選手を目指してアスリート達がしのぎを削っています。
アスリートにとってオリンピックは特別な舞台。かつて、その舞台に立ち、2大会連続でメダルを獲得した鹿児島出身の元レスリング選手・平山紘一郎さんが福岡から帰省。ひっ飛べ精神で切り拓いたオリンピックへの道のお話を伺いました。
郷土のオリンピックレジェンド
平山紘一郎さん、72歳。鹿児島市出身の元アマチュアレスリング選手です。平山さんは、1972年のミュンヘンオリンピックで(52キロ級・グレコローマンスタイル)で銀メダル、続くモントリオールオリンピックで銅メダルを獲得しました。
地元鹿児島は、戦後初めてのメダリスト誕生に大フィーバーとなり、郷土のオリンピックの星となりました。
「故郷での大歓迎、嬉しかったですね。実家の紫原に帰ったら、近所おばさんたちや子どもたちがいっぱい集まっていて、銀メダルを宝物みたいに触りましたよ。
『紘ちゃん、よく頑張ったね』の声が嬉しくてね。でも、ひとりの男の子が『何で金じゃないの。』って言って(笑)私も一瞬、「ウッ」と詰まってね。小さな声で『ごめんね』(笑)言いましたよ。」
18歳、ボストンバック一つの上京
当時を懐かしそうに振り返る平山さんですが、この8年前、オリンピックを目指して上京した時は、ひとり特急列車に乗って、何の後ろ盾も無い中での出立でした。
「私は、母子家庭だったんですよ。だから早く自活しなきゃと思っていて、高校を卒業したら、就職するものと決めてたの。名古屋の鉄鋼会社に内定ももらっていたんです。その気持ちが大きく動いたのが、東京オリンピック。ちょうど高校3年生の時でした。
テレビで一流のアスリートが活躍する姿を見ていたら感動してね。『なんてかっこいいんだ。自分もスポーツを極めて、世界を目指したい。』っていう気持ちが沸々と湧いてきたんですよ。就職か、スポーツかで、散々迷いましたけど、夢にチャレンジする道を選んだんです。」
母親の喜子さんは「やるだけやってみなさい。ダメだったら帰って来なさいよ。」と送り出してくれました。
背中を押してくれたのは、幼なじみの親友たち
夢へのチャレンジを後押ししてくれたのが幼なじみの親友でした。小学校時代の同級生だった入江正介さん(千葉県在住)と伊集院寛邦(東京都在住)さんの2人でした。
2人とは別々の高校でしたが、ずっと付き合いが続いていました。
平山さんは…
「正介も寛邦も、東京の大学に進学することが決まっていたんだよね。私の胸の内を話すと2人が『一緒に東京に行こう』と言ってくれたんですよ。道を開いてくれたっていうか、いつもそばにいてくれました。あの一言が無かったら、私のオリンピックは無かったと思います。」
転スポで道を拓く
上京したものの、『この競技で頂点を目指す』という確固たるものはありませんでした。高校時代(鹿児島工業高校)は柔道部でしたが、公式試合への出場機会はほとんど無く、チャンスが巡ってきた最初で最後の公式戦(インターハイ県予選)でも準優勝でした。
「県代表になれなくて、どこか燃焼しきれない気持ちを引きずっていました。そんな時、東京オリンピックで見た重量挙げとレスリングに希望の光を見出したんです。どちらも階級制でしょ。これだったら、体の小さい私にもチャンスがあると思って、柔道をしながら、自己流で重量挙げのトレーニングを積んでいました。
格闘技には自信がありましたから、まずは給料がもらえて、スポーツができる職場を探そうと思いました。最初に目指したのは重量挙げでした。」
しかし、競技実績のない平山さんに、給料を払って、十分な練習時間まで与えてくれる会社などありませんでした。バイトで生活費ギリギリの暮らしが続き、気持ちは焦るばかり。
そんな時、たまたま目にした自衛隊の新聞記事に「ここだったら働きながらスポーツができる」と思い、すぐさま自衛隊の入隊を決意。そこから競技人生の道が拓けていきました。
振り返れば、思い通りにいかなかったことが、幸運をもたらしてくれたことが数多くありました。
「人生って分からないですよね。重量挙げをするつもりが、道場を見つけられず、風呂帰りに、たまたま駐屯地にあるレスリング道場を見つけて。夢中になって練習を見ていると『お前、レスリングをやりたいのか』と声をかけられて『はい、やりたいです』と答えて、『じゃぁ、明日から練習に来い』とボロボロのレスリングシューズを渡されたのが始まりなんです。
千載一遇のチャンスと思いました。そこには、オリンピック代表選手もいて、宝物を探し当てたような気分でしたよ。」
最初の配属先も第一志望が叶わず、第二志望の朝霞駐屯地でした。でも、そこに世界に通用するアスリート養成のための自衛隊体育学校(第二教育課特別体育過程)があり、2度のトライアウトの末、精鋭たちの仲間入りをすることが出来たのです。
「私の場合、オリンピックに行きたい一心の『泣こよか、ひっとべ精神』ですよ。それまでやったことのない競技で世界を目指そうというんだから、ほんと、ぼっけもんですよね。
でもね、当時は、私みたいな『転スポアスリート』が多くて、オリンピック出場を夢見て、水泳や陸上、野球などから転身する選手が多かったんです。プロレス界で活躍したあのジャンボ鶴田(鶴田友美)選手もバスケットからレスリングに転向して、一緒にミュンヘンに行ったんですよ。転スポは、夢を叶えるための再挑戦だったんです。」
足がかりを掴んだものの、夢はすぐには手に届きませんでした。技術は日本代表クラスのレベルまで達したものの、メキシコ大会への挑戦は減量の失敗で選考レースから脱落、4年後のミュンヘンを目指して猛練習を続けますが、大事な時期に左足首を骨折して、半年間も戦線離脱するなど試練が続きました。
運命の試合 ~丸に十の字が私を支えた~
忘れられない人がいます。強力なライバルだった杉山三郎選手です。平山さんの前にはいつもこの人が大きく立ちはだかり、全日本選手権や国体でも万年2位が続いていました。
互いにメキシコ大会行きを逃し、ミュンヘンへかける思いは並々ならぬものがありました。オリンピック代表選手を決める最終選考会は引き分け。再試合で決着をつけることになりました。
「前の晩、宿泊していた旅館で『明日、自分は何を賭けて戦うのか』と自問しました。心の拠り所がほしかったんですね。そうしたら、高校時代に県代表になることを夢見て頑張っていた自分が蘇ってきて、旅館のおばさんに、布切れをもらって、マジックで丸に十の字(薩摩藩島津家の紋所)を書いたんです。」
平山さんは、試合着の日本代表のワッペンをはがして、そこに丸に十の字を書いた布切れを針と糸で縫い付けました。故郷鹿児島を胸に抱いて戦おう!丸に十の字は、その決意の証でした。
試合は壮絶なものとなりました。3ラウンドで決着がつかず、サドンレスの延長戦に…互いにヘトヘトになりながら気力を振り絞った戦いでした。死闘の末、勝ち取った日本代表の座でした。
ライバルは最大の師なり
「オリンピックを目指しているアスリートのみなさんは、今、その真っ只中にいると思うんですが、国内選考に勝ち残っていくというのが本当に厳しい、命がけの闘いなんです。
でも私は、杉山くんという存在がいなかったら、あそこまでの闘争心を持ち続けることは出来なかった。
強力なライバルがいたことが、私を強くしてくれた。オリンピックから帰ってきて、彼と再会した時、色紙をもらったんです。『最大のライバル平山くんへ、健闘祝オリンピック 今後は最大の友人を願う』と書いてありました。オリンピックに行けなくて人一倍、悔しかったと思いますが、互いの存在を認め合う気持ちは同じだったんだなぁと思いました。
まさに「ライバルは最大の師なり」です。」
私のオリンピック
友好ムードいっぱいで開幕したミュンヘンオリンピックでしたが、パレスチナのテロリストによる選手村襲撃というショッキングな事件が起きました。
選手や人質が犠牲になるという最悪の事態となり、大会は中止も懸念されましたが、最終的には一日順延して再開となりました。
「テロという暴力によって、オリンピックの舞台が台無しになってしまうことが、ほんとうに悔しく、恨めしかったです。でも私は、目の前のことに集中することだけを考えました。気力は充実していました。」
これまでの自分を信じ、目の前の相手を倒すことだけを考えて挑んだ予選ラウンド。初戦突破で勢いに乗り、5戦5勝で通過。ファイナルマッチに臨みました。
決勝戦の相手は、世界チャンピョンのキロフ選手(プルガリア)でした。
「いよいよ試合が始まるという直前のアップ中に、選手村から国際電報が届いたんです。『サイゴノ フントウヲイノル』鹿児島の武中学校の同級生一同と母からのものでした。私は、電文を切り取ってハンカチに挟んで、試合着に入れてマットに上がりました。」
試合は、相手を追い詰めながらも、両者警告失格で終了。予選からの罰点差で銀メダルとなりました。試合が終わった時、胸に入れていた故郷からの電文は、粉々になっていました。
「私にとっては悔しい『銀』でしたが、メダルを真っ先に鹿児島の母に見せたいと思いました。女手一つで家族を支え、ずっと私の夢を応援してくれた母でしたから。鹿児島への帰国報告はブルートレイン「はやぶさ」で帰ってきました。飛行機もあったんですけどね。(笑)
中学校時代、校庭から見えるブルートレインにずっと憧れていてね。『これに乗っている人はどんな人なんだろう。いつか自分もこれに乗って、遠くに行ってみたい。』と思っていました。
いつしか、それが県を代表する選手になって、ブルートレインに乗って全国でナンバーワンになりたいという夢に変わっていきました。あれが私の夢の原点だったんですよね。」
もう一つのオリンピック
平山さんには、もう一つ、叶えたい夢がありました。それは、一か月後に迫った鹿児島で開催される太陽国体での優勝でした。高校時代、県代表になれなかった平山さんにとって、国体での優勝は、夢の集大成。もう一つのオリンピックでもあったのです。
「母は、私の試合をじかに見たことがありませんでした。母の目の前で優勝する姿をみせたくてね。私をずっと応援してくれた故郷の人たちにも見てもらいたいと思っていました。
決勝の日は、母や親戚、友人や知人が大勢応援に駆けつけてくれて、その前で優勝することができました。私にとっては、ある意味、オリンピックのメダルよりも重みのあるものでした。」
いつも、どんな時も自分を励まし続けてくれた故郷へのご恩返しのつもりで臨んだ太陽国体でした。
オリンピックは人類の財産 ~2020東京への思い~
平山さんは4年後のモントリオールオリンピックにも出場、銅メダルを獲得しました。引退した後は、日本レスリング界の指導者として、日本代表監督やコーチなどを歴任。
ロサンゼルスオリンピックでは、鹿児島出身の宮原厚次選手(金)江藤正基選手(銀)をメダルに導くなど、日本の男子レスリングを牽引し、その黄金期を築きました。
選手として指導者として様々な成果を残してきた平山さんですが、オリンピックは、それ以上に目に見えない果実をもたらしてくれました。
それは、精一杯に力を尽くしてその場に辿りつけた人たちが、国や競技を超えて互いを讃え合い、繋がり合う喜びでした。
平山さんの、スポーツ人生は、オリンピックと共にありました。18歳の時、東京オリンピックに胸を躍らせた青年は、72歳になりました。再び巡ってくる母国でのオリンピック開催を特別な思いで見つめています。
「私は、オリンピックによって、自分の生きる世界を大きく広げることが出来ました。来年のオリンピックで多くの子どもたちや若い人たちも、自分の国で開催されるオリンピックを見ることでしょう。
私は、オリンピックは人類の財産だと思っています。だからこそ、スポーツが世界を豊かにすることを多くの人に知ってほしい。そのことを伝えるオリンピックにしてほしいと思っています。
学生時代、ぼっけもんで、われこっぼ(悪戯坊)、はめを外すことが多かった私がオリンピアンの一員になれたのも、多くの人たちとの出会いや支えがあったからこそ。そして、自分が描いた夢を諦めなかったこと。
私は『転スポ』することで、一つの夢が叶わなくても、諦めず、新たな夢に向かっていくことで道が開けることを学びました。「再挑戦」が次への扉を開いてくれたんです。私が経験を通して学んできたことを、これからの子どもたちに伝えていきたいですね。」
オリンピアンから子どもたちへの贈り物
2020東京オリンピックを前に、平山さんのところには、故郷鹿児島から、子どもたちに夢と勇気を与えてほしいという依頼が相次いでいます。
先日は、母校の鴨池小学校から、子どもたちにオリンピアンとしてのメッセージを届けてほしいという依頼があり「青春の夢に忠実であれ」という言葉を贈りました。
また、今年の11月には、2020東京オリンピックの事前合宿の受け入れ先のホストタウンとなっている三島村に行くことになっています。三島村には、2つのメダルと親友(中学、高校時代の同級生、伊地知好和さん)が東京オリンピックで聖火ランナーとして走った時の聖火とトーチを持っていくことにしています。
55年前に見たオリンピックが平山さんの夢の扉を拓いてくれました。再び巡ってくる東京オリンピックが、子どもたちに夢の光を届けてくれると信じて、思いの種まきに心を傾ける日々です。
平山さんの著書お知らせ
平山さんの、自らのオリンピック挑戦の日々を綴った本が出版されました。「2020東京」を待つなかで、今しかないと書き記したものです。オリンピックという夢に向かって、ひっ飛べ精神でチャレンジし続けたオリンピアンの記録です。
平山紘一郎さんの著書“64東京オリンピックの光「ひっ飛べ 夢へ」
定価:600円(税込)
購入のお問い合わせ先
TEL:0949-33-3557
(平山紘一郎さんまで)