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「歴史」

戦争体験記vol.8 命は紙一重。終戦間近、アメリカ軍の九州上陸に備えた日々


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今回は、太平洋戦争末期、連合国軍の日本本土上陸作戦「オリンピック作戦」に備えて日南海岸での守備警護に当たった大坪敏夫さん(95)のお話です。本土決戦に備え、死と隣り合わせの日々を送った大坪さんにお話を伺いました。

大坪敏夫さん(95)大坪敏夫さん(95)

大坪さんは台湾の台北生まれ。6人兄弟の5番目の次男として幼少期を台湾で過ごしました。14歳の時に日中戦争(1937年)が始まり、それに続く太平洋戦争…日本が軍国主義へと進む中で少年期を過ごしました。

台北市・錦小学校時代(前列左から2番目)台北市・錦小学校時代
(前列左から2番目)

台湾での軍国少年時代

「当時の男の子の遊びは戦争ごっこ。歌う歌といえば軍歌でしたよね。食料不足になって、畑の開墾やさつま芋づくり、軍事訓練に精を出す毎日でした。女子も兵器の部品作り、縫製工場に通って軍服などを縫っていました。もう世の中は戦争一色ですよね。私も、そんな中で育ちましたから、男子は20歳になると兵隊に行って、戦場へ行くもんだと当たり前のように思っていました。男子の寿命は20歳までで、国難に殉じるのが男の使命、それが名誉なことだと信じていましたよね。」

台湾時代の家族写真(前列中央が大坪さん)台湾時代の家族写真
(前列中央が大坪さん)

その後、大坪さんは台北師範学校に入学。在学中に徴兵検査を受け、台北の部隊への入隊が決まっていました。ところが特令が出来て、師範学校や医学部の学生たちは卒業するまで入隊が延期となったのです。

「先生方も次々出征して戦死して、教える人がいなくなっていたんですよね。お医者さんもそうでした。野戦病院がどんどん増えてきて、お医者さんが足りないんですよ。だから師範学校や医学部の学生は、資格を取るまで、学校に留まりなさいということになったんです。」

志願して陸軍予備士官学校へ

しかし、その卒業も6ヶ月早まり、昭和19年(1944年)9月に卒業することになりました。

当時、戦況が厳しさを増す中、不足する指揮官の養成を急ぐため、陸軍には予備士官学校、海軍にも予備学生の学校が作られていました。

大坪さんはどうせ死ぬなら、先頭に立ち華々しく死のうと、陸軍予備士官学校に志願したそうです。選考の結果、入学が許可され、卒業式を待たず、9月24日(1944年)基隆(キールン)の港を出て門司へと向かいました。卒業式の26日は、東シナ海の船上でした。

「その時、見送りに来た父親は『しっかりお国のために働いてこい。』と言いましたよね。母親は『志願してまで行かんなならんのね』と、そっと涙を拭っていました。

父の晴れやかな顔と母の涙ぐんだ顔は今も忘れられません。当時、東シナ海はとても危険な海域で、台湾航路の客船が何隻も沈められていました。

乗船した船は、プールもある三万トン級の外航船「浅間丸」でしたが、船名は秘密にしたままの出航でした。(この船も後に魚雷を受けて沈むことになる。)潜水艦があちらこちらに隠れていて、私の船も東シナ海と五島列島付近で狙われました。積んでいた小型飛行機の爆雷攻撃で何とか助かったんですが、こんな状態では、客室になんか入ることは出来ません。

甲板に板張りのベッドが作られていて、枕元に救命具を置いて、いざという時には、いつでも飛び込める用意をしていました。まさに命がけの航海でした。」

厳しかった予備士官学校での訓練

昭和19年(1944年)10月1日、大坪さんは、念願の熊本予備士官学校に入り、10ヶ月間の訓練を受けることになりましたが、そこでの訓練は想像を絶するものでした。

昼は武装して、健軍演習場までの駆け足。ガスマスクをかぶっての訓練は、息が詰まり倒れそうになることもありました。熊本の夏は暑く、冬はツララの下りる寒さ。台湾生まれの大坪さんの身にはこたえました。

「夜は不寝番が回ってきます。軍旗の前で1時間。銃を立てると眠るので、抱えたまま。夜中の2時から3時頃の番が一番苦しかったです。寒くて朝まで眠れません。熊本を夕暮れに出て、阿蘇山の演習場まで寝ずの行軍。雪の中での訓練。手の指はただれて、しっかり伸ばすこともできなくなりました。でも、あの経験は、私を大きく変えてくれました。その後どんなに苦しいことがあっても、『あの時よりはまだ良いのではないか』と思うようになりました。人間の運命は分からないものですね。2月の頃(1945年)、たたきあげの大隊長、勝木少佐が馬に乗って『今から沖縄に赴く。戦い易い戦場にして、お前たちを待っている。』との訓示を残して、沖縄に発っていかれました。もし、予定通り私たちも沖縄に行っていれば、今ここにはいないと思います。」

本土上陸作戦に備えての守備警護

その後、戦況はさらに緊迫。在校期間は10ヶ月が8ヶ月になり、卒業したのは、昭和20年(1945)6月でした。その頃は、もう沖縄はアメリカ軍に占領され、日本軍には戦える飛行機も軍艦も無くなり、あとは本土に上陸してくるアメリカ軍を迎え撃つだけになっていました。

すでに連合国軍による九州南部への上陸作戦「オリンピック作戦」、その後、関東平野を占拠するという「コロネット作戦」が計画されていました。九州上陸の「Xデー」は11月1日。この動きを察知していた日本軍は、上陸地点として宮崎海岸、志布志湾、吹上浜を挙げ、本土決戦に備えてそれぞれに軍隊を配置。

大坪さんは、その一つ、日南海岸の守備に当たることになったのです。見習士官小隊長として赴任した先は、宮崎県児湯郡(こゆぐん)富田村(とんだむら)大渕(おおぶち)でした。

「私は大渕神社の社殿に、兵隊たちは、その周りにテントを張りました。配属された招集兵は、3分隊で36人。後に招集兵12名が加わりました。私の部隊は、鳥取や島根から来た兵隊たちでしたが、大工さん、左官さん、ほんとにいろんな職業の人たちが招集されていました。中には40歳を超えた老隊兵もおりました。兵隊が足りないんですよね。この頃は、まさに『国民総武装』となっていましたよね。」

大坪さんたちは、上陸してくる戦車を迎え撃つために、タコツボを掘って隠れ、戦車が近づいたら火薬の入った白木の箱を胸に抱いたまま、戦車の下に飛び込む訓練や陣地を構築する仕事。雨の日は、図上作戦の指導や兵器の手入れ、軍装の点検などを行いました。

「集落の人たちはとても親切で、兵隊たちに野菜などを届けてくれました。また私たちも、出征して男手のなくなった家庭や集落の作業などを手伝っていました。集落の人たちに喜んでもらうために、兵隊たちによる演芸会を催したこともありました。演習から帰る途中、集落の人たちは、私たちの隊列を拝んでくれるんですよ。『見ろ、一般の庶民が我々を拝んでいるんだから、しっかりせよと』と言って、士気を高めていました。」

九死に一生を得て

そんな中、7月10日、大坪さんたちは米軍の爆撃を受け、九死に一生を得ます。
7月10日、大坪さんたちは米軍の爆撃を受け、九死に一生を得ます。
「朝10時頃でした。「隊長殿~空爆~」けたたましい声に空を見上げると、B29の編隊が北九州方面に向かって飛行中で、その中の一機から、ウサギの糞のように爆弾が降ってきます。

私は大声で『鉄カブトをつけよ。両目両耳を抑えて、塹壕(ざんごう)に伏せろ。』と命じました。300メートルほど離れたところにあった日豊線の鉄橋を狙っての爆撃だったと思われましたが、爆弾は私たちの真上に落ちてきます。どうする事も出来ません。

残念。何の功績も残さずに死ぬとは。両親の顔が一瞬パーッと浮かび、血の気が引いて体が硬直しました。

ところが、不思議な現象が起こりました。今まで真っすぐに頭上へと落ちてきた爆弾がほぼ300メートルぐらいの上空から急に角度を変えて、100メートルほど離れた一ツ瀬川へ、大きな音を立てて落ちていったのです。

砂利が雨のように鉄カブトに降ってきましたが、爆弾の破片は全部堤防が受け止めてくれたのです。こうして、私の部隊は、一兵も失うことなく爆撃は終わりました。まさに天佑(てんゆう)と思いましたよね。しかし、少し離れたところで鉄橋を守っていた機関銃隊の兵隊たちは木っ端みじんになって、軍服の切れ端が竹やぶに引っかかっていました。

この時、人間の命は、わずか300メートルの差。紙一重なのだと心の底から思いました。その頃から、グラマン戦闘機が毎日のように飛んでくるようになりました。グラマンは低空で飛んでくるので、操縦士の顔がはっきり分かるんです。

兵たちは「隊長殿、撃たせてくださ―い」と何度も迫るんです。でも私は撃たせませんでした。たとえ一機であっても撃墜すれば、ここに兵ありと知って、必ず何十機もの編隊で逆襲してきます。そうなると何人かの兵は命を落とし、集落までも壊滅的な被害を受けます。そうなることが目に見えていました。

本土決戦までは一兵たりとも失ってはならない。『ならぬ堪忍。するが堪忍。』これが私の考えでした。その後、終戦を迎え、村の人たちに見送られて、みんな元気で故郷に帰っていく兵たちの姿を目にした時、改めてあの時の判断に誤りのなかったことを感じる事でした。」

人生で一番忘れられない日

そして迎えた終戦の8月15日。本土上陸の「Xデイ」(11月1日)を目前にした終戦でした。大坪さんは、95年の生涯の中で一番心に残っているのがこの日だと言います。

大坪敏夫さん(95)大坪敏夫さん(95)

「『只今から、重大放送があるから、至急集合せよ。』との知らせです。耳にしたのは陛下の終戦のお言葉。全身の力が抜け落ち、ああこれで死なずにすんだ、という思いと、自分たちだけが生き残り、戦死した多くの戦友に申し訳ないという気持ち、軍人としての責任感…こもごもの思いが頭の中を駆け巡りました。

でも、これで長く続いた戦争が終わった。兵隊のひとりも傷つくことなく故郷に帰すことが出来る、これが嬉しかったです。彼らには妻、子もいるわけでしょう。弾一発撃つことなく、敵を倒さず、我々も傷つくことなく、これが私の戦争でした。」

勇気を振り絞って発したひと言…

大坪さんは、戦時下で自ら志願して軍人としての道を選びました。しかし、生きて帰れて、いつの日か平和な時代が来たら、自らの夢だった教師としての道を歩みたいという思いを胸にしまっていました。こんなエピソードを話してくれました。

「予備士官学校時代にね、私たちの覚悟を量ろうとしたんでしょうね。上官が『お前たちの中で現役(一生兵隊でいること)を志望する者は一歩前へ!』と言われました。私は前に出ませんでした。

あともう一人、鹿児島の師範学校卒の戦友も出ませんでした。上官は『貴様たち!どうして現役を志望せんか!』って激しく詰め寄られました。その時、私はとっさに『私は、師範学校を出て、教師になるのが使命だと思っております。戦場に立とうが小国民の次の世代を育てようが、国を思う気持ちは同じであります。』と言いました。そしたら『よし』と言われましたよ。勇気がいりましたよ。戦争というのは、殺すか殺されるか、血も涙もない世界でしょう。

それは、私にとっては、とても苦しいものでした。」

いただいた命を大切に…

この時の言葉通り、大坪さんは戦後、中学校の教員となりました。心を傾けたのは、一人ひとりの個性といのちを大切にする障がい児教育の道でした。

その道の草分け的存在となり、戦後の人生を歩んできました。大坪さんは「生き残った命」は「天からいただいた命」だと話します。

天からいただいた命を大切に生きる毎日…天からいただいた命を大切に生きる毎日…

「あれより辛く苦しいものはない。あれに比べればまだ良かと思います。平和の有難さをしみじみ感じます。一度は、二十歳で死んでいる身ですから、その後は余った命、余命です。いただいた命だから大事にせんな、と思って生きてきました。」

生き残った者として「いただいた命」を精一杯生きる大坪さんの長い長い人生が始まったのです

軍服姿から大坪さんの教員生活はスタートした…(写真・左)軍服姿から大坪さんの教員生活はスタートした…
(写真・左)

(大坪さんのその後の人生ものがたりは福祉のお話
Part1大坪敏夫さん「この子らと出会って」
Part2「天におまかせ」
でご紹介しています。ご覧いただければと思います。)

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