来年の大河ドラマは「西郷(せご)どん」
てのんでも、西郷さんゆかりの地をたずねます。
明治維新からちょうど150年となる、2018年の大河ドラマの主役は西郷隆盛。維新の立役者で、情愛が深く、日本の歴史上の人物の中で最も多くの人に愛された人ともいわれています。各地に西郷さんゆかりの地があり、今も、その歴史を大切に受け継いでいる方たちがいます。
シリーズでは、てのんらしく、西郷さんを支えた、歴史の表舞台には登場しない市井の人々と西郷さんとの関わりもお伝えできたらと思います。
シリーズ1回目
こんなところに石碑が・・西郷さんの隠れ家跡
福岡市中央区天神にある親不孝通り。バブル期には九州最大級のディスコが建てられるなど、若者が集まる繁華街として全国的に知られた通りです。
しかし、不良少年が増えるなどの理由から2000年に「親富孝通り」と改称。
ところが今度は、若者の足が遠のき、街が閑散としてきたとして、かつての賑わいを呼び戻すきっかけになればと、今年からまた、旧称「親不孝通り」を復活させました。
通りの標識はまだ「親富孝通り」のままですが、今後、「親不孝通り」に書き換えられる予定です。
前置きが長くなりましたが・・・
そんな、全国的にも知られた親不孝通りの西側の路地を少し入った居酒屋の入り口にこんな石碑が建っているのです。
石碑には、西郷南洲翁隠家乃跡(なんしゅうおうかくれがのあと)と書かれています。西郷南洲翁とは西郷隆盛のことです。福岡市の中心街に西郷隆盛の隠れ家があったのでしょうか?
この疑問を解決するために、親不孝通りの東側にある老舗の醤油屋「福(ふく)萬(まん)醤油」を訪ねました。
お話して下さったのは、福萬醤油の七代目 白木正四郎さんです。どこかでお見かけしたことが?と思いましたら、RKBテレビで2014年まで放送されていた「探検九州」のキャスターをされていた方でした。
「実はですね、西郷さんをうちの醤油蔵でかくまったことがあるんですよ。」
「かくまったのは、白木家11代目で、福萬醤油2代目の白木太七です・・・」
これからどんな話をされるのか、知らなかった事実を教えていただけるので、ワクワクしました。
白木さんは、どうしてかくまう事になったのか、その経緯をまとめ、ご自身のブログや著書にも記しています。その記述とお話しくださった事をもとに歴史の一コマをひも解いていきましょう。
安政5年(1858年)の事です。
幕府の大老井伊直弼は、幕府に反抗する尊王攘夷派の志士達に対し、過酷な弾圧を加えました。いわゆる「安政の大獄」です。清水寺の住職で尊王攘夷派の勤王僧月照にも身の危険が迫っていました。西郷は盟友である月照を助けるために、薩摩藩でかくまう事を決意。西郷と月照は京都を脱出し、薩摩に向かう途中でかくれたのが、この福萬醤油の醤油蔵だったのです。
「当時は、商人でも討幕を志す人たちがいて、その代表的な一人が山口県下関市の商人、白石正一郎という人です。
白石は、西郷隆盛をはじめ、坂本龍馬、高杉晋作らと交流があり、尊王攘夷派の志士達に資金面でかなり援助した勤王商人です。
西郷さんと月照も、まず白石の家にたどり着き、その後、博多に向かっています。そして、あまり知られていませんが、博多にも勤王商人がいたんですね。
それが白木太七と親せきの石蔵卯平。太七は卯平に頼まれてかくまうことになったようです。
山口と博多の勤王商人が連携して西郷と月照を必死で守ろうとしたんですね。」
「これが、当時の店の見取り図なんですが、おそらくこの蔵に西郷さんはかくれたと思いますよ。」
この蔵があった場所が、現在石碑が建っている場所なのです。
「太七はですね、西郷と月照を一緒にかくまうのは危険と判断したんでしょう。月照は隣の家の目明(めあか)し 高橋屋平右衛門の奥座敷にかくまわせたようです。」
白木家には、西郷をかくまったとの記録は残されていないそうですが、こんな話が残っているそうです。
「曾祖父の半四郎が小さい頃、醤油蔵にいた体が大きくて、少し変わったしゃべり方をする男の人から使いを頼まれたそうです。おそらく西郷さんだと思うんですよね。自分は外に出られないから、子供にお酒か何かを買ってくるように頼んだんでしょうね。」
西郷さんとの関わりが具体的にわかるエピソード。
薄暗い醤油蔵に、腕組みしながらどっしりと座っている西郷さんを想像しました。
西郷さんが醤油蔵に潜んでいたのは、数日ではなかったか?という事です。
「幕府や福岡藩が血眼になって二人の行方を捜している中、町中にかくまうなんて大胆ですよね。でも、同じ場所に長くとどまるのは危険ですから、また、別の場所にかくまわれることになったと思います。」
この後の西郷と月照の足取りは、具体的にはわかりません。
しかし、その後月照は、西郷の手引きで太宰府の旅館「松屋」でもかくまわれたことがわかっています。(月照と松屋の話は、次回お伝えします)
そして西郷は、月照の受け入れを整えるために、一足早く薩摩に帰っていたのでは?と思われます。
さて、その後白木太七ら、西郷と月照をかくまった商人たちはどんな運命をたどったのでしょうか?
目明しの高橋屋平右衛門は、月照をかくまった罪で福岡藩に捕まり、姫島に明治4年まで監禁されました。
また、白木太七と石蔵卯平は長崎に逃げ延びますが、勤王派に味方したとして、明治元年に福岡藩の佐幕派(勤王派に対して幕府を援護する勢力)に暗殺されました。共に33歳の若さでした。
とても恐縮したのですが、白木家代々の当主の位牌が置かれている仏壇を拝見させていただきました。
立派な当主の位牌が並ぶ中で、11代当主白木太七の位牌は見当たりません。
「白木家の仏壇には、福岡藩に配慮して正式な太七の位牌はありません。お墓もないんです。」
実は、長らく太七の位牌はないと思われていました。
しかし2009年、幼くして亡くなった白木家の子供たちの位牌をまとめて入れた集合位牌の中から、偶然太七の位牌が見つかったのです。
「本来、当主だったら立派な位牌があるはずなのに、童子・童女と一緒の薄い板1枚の位牌なんですよ。やはり藩に逆らうことになりますから、表向きは位牌がないことにしたんだと思います。
しかし、それではあまりに不憫だという事で目立たないようにして位牌だけは作っていたんですね」
太七の戒名は 寒梅自香居士
(誰も春を知らない時に咲く寒梅、その香りは自分だけが知っている)
※梅は、坂本龍馬が身を守る変名として才谷梅太郎、高杉晋作が谷梅之助と名乗ったように勤王の志士達がよく使った言葉だそうです。勤王商人にふさわしい戒名だと白木さんは話されていました。
かくまったことがわかっったら、自分の命もないと十分承知の上で、勤王の志士達を援助した人たちがいた。その市井の人たちが陰で支えていたからこそ、西郷さんも命を落とさずに、その後、明治維新の立役者として歴史の表舞台で活躍できたのだと感じました。
「太七は、これまで歴史に封印された人でした。しかし、先祖にこう言う人がいた。西郷を助けた人がいたという事を、多くの人に知ってもらいたい。後世にも伝えていきたいと思いますね。」
一つの小さな石碑から見えてきた歴史の一コマ。
福岡市の親不孝通りに行かれた時は、探してみてください。
追伸
ここで、現在の福萬醤油を少しご紹介しましょう。
福岡市中央区天神の福萬醤油本店。
一階が醤油のブレンド工場。そして、二階には、日本で初めての醤油がティスティング出来るバーと醤油を販売する所があります。
福萬醤油オリジナル商品をはじめ、醤油ソムリエが選んだ、全国や海外のおよそ200種類以上の醤油が用意され、香りや味をティスティングしながら、醤油の購入、ランチなどの食事ができるスペースとなっています。
アクセス
★兼平鮮魚店 天神舞鶴店(西郷さん隠れ家の石碑があるところ)
★福萬醤油 本店
※下の地図の赤のマーカーをクリックすると場所が表示されます。