福岡県太宰府市にある太宰府天満宮です。
菅原道真を祀っており、全国的にも学問の神様として有名な神社です。
そしてこちらは、太宰府天満宮の参道。最近は中国や韓国など海外からの観光客も多く、1年を通して多くの参拝客でにぎわっています。
その参道沿いに、江戸時代に建てられた風格のあるお店があります。
お店の名前は「松屋」。土産物屋と喫茶店を営んでいます。

喫茶店の名前はというと・・・
そして、喫茶店の入り口には、こんな看板も置かれていました。
旧薩摩藩定宿 松屋と書かれています。
江戸時代、松屋は旅籠を営んでおり、薩摩藩が定宿(じょうやど)として利用していました。
建物は当時のままです。
今回の話は、この松屋が舞台です。
ここにどんな歴史がかくされているのでしょうか?
第六代の松屋当主 栗原雅子さんです。
「江戸末期から、ここが薩摩藩の定宿になっていましたから、西郷隆盛や大久保利通など薩摩藩の人たちをお泊めしていたんですね。
その当時の当主は栗原孫兵衛というんですが、当然孫兵衛は西郷さんとも面識があったと思いますよ。」
そして、1858年の安政の大獄。追われる身となった勤王僧月照と共に京都から脱出した西郷は、薩摩へ逃げる途中、博多の商人の家にもかくまわれています。(前回、詳細は記しています。>>)
その後、一足早く西郷は薩摩へ向かい、月照は、この松屋でかくまわれることになるのです。
1858年10月のことです。
「孫兵衛は、薩摩や長州の志士達と広く交流していて、商人だけれども志士達を応援したいという気持ちを持っていました。
西郷さんは、そういう孫兵衛を信用して、ここなら安全と思い、月照さんをお願いしますって託されたんだと思います。」
そして、孫兵衛は月照を手厚くもてなしました。
「京都から逃げる道中は、大変辛く苦難に満ちたもので、時には野宿し、食事にも事欠いていたと伝えられています。
ですから、孫兵衛は緊迫した中であってもゆっくり畳の上で休んでいただきたいと、温かく月照をもてなしたそうですよ。」
そして、滞在中はちょうど紅葉の季節。近くの宝満山へ紅葉見物にも連れて行ったそうです。
「月照さんのお寺は、京都清水寺ですよね。九州の紅葉を見ながら、京都清水へ思いをはせられたんじゃないでしょうか。
孫兵衛は、月照さんの気品のあるお姿や、人徳に大変感銘を受けたそうですよ。」
月照は、松屋には数日滞在し、その後、西郷の待つ薩摩へ向かいました。
今回、栗原さんのお計らいで、普段は公開されていない二階を特別に見学させていただきました。現在は、旅館業はされていませんが、二階は、当時のままの部屋の様子が残っています。
広い和室の部屋が、いくつもありました。
かつて、この部屋で、西郷隆盛や大久保利通が、これからの日本のあり方などについて論じたり、また、布団に包まり旅の疲れをとっていたのだと思うと、感慨深いものがありました。
そして、月照もつかの間ではありますが、この畳の上に布団を敷いてゆっくりと休むことが出来たのです。
そして、和室の床の間には、二つの書が飾られていました。
「上が平野國臣さんの書で、下が月照さんの書です。複製ではなく本物ですよ。
月照さんの書は、月照さんが、薩摩へ旅立つ前に、孫兵衛への感謝の気持ちを詠んだ歌が書かれているんです。」
何が書かれているのか読むことはできませんが、月照の書からは、その気品さが伝わってくるようでした。
※ここでは詳しく紹介しませんが、平野國臣は福岡藩士で、西郷と同じ考えを持ち、月照のお供で一緒に薩摩へ向かった人です。
では、この書にはどんな歌が書かれているのでしょうか。
言の葉の花をあるじに旅ねする
この松かげは千代もわすれじ 月照
お礼の言葉を花にして主(孫兵衛)に贈りたい。
旅の途中で泊めていただいた松屋への御恩はいつまでも忘れることはないでしょう。

「孫兵衛は月照さんのお礼の言葉に、大変感動したそうです。
この歌は、代々松屋の家宝として受け継がれているんですよ。」
その後、薩摩に着いた月照を待ち受けていたのは、期待に反するものでした。
西郷は、薩摩藩が月照をかくまってくれると期待していました。
ところが薩摩藩はかくまうどころか月照の追放を決定します。
絶望した西郷と月照は、錦江湾に身を投げ、入水自殺を図るのです。
1858年11月16日のことでした。

二人は助け上げられましたが、月照は亡くなります。
西郷は、奇跡的に息を吹き返しました。
鹿児島市吉野町には、西郷隆盛蘇生の家が残されています。
そして、そこには二つの碑が建てられています。
一つは、西郷先生蘇生の遺蹟と書かれたもの。
そしてもう一つは、月照上人遷化(せんげ)の地。
遷化とは、高僧の死に用いる言葉です。
蘇生と遷化・・対照的な碑だなと思います。
そして一人生き残ってしまった西郷は、精神的に苦しみ、自分の事を「土中の死骨である」と生涯恥じたそうです。]
月照が錦江湾に入水し、不運な最期をとげられたとの知らせは孫兵衛のところにも届きました。
孫兵衛はとても嘆き悲しんだそうです。
そして、孫兵衛自身も、月照をかくまった罪で福岡藩に捕えられ、水牢に入れられ、拷問を受けました。
前回の白木太七もそうですが、ここにも、命がけで尊王攘夷派の志士達を助けた勤王商人がいました。
栗原孫兵衛もまた、歴史の影で西郷たちを支え、こういう無名の人たちが多くいたからこそ、新たな歴史が作りだせたのではないかと思いました。
さて、現在の松屋さんです。
喫茶店「維新の庵」には、季節の花が生けられ、月照さん達の事を紹介する掲示もあります。
そして、奥には素敵なお庭もあります。
この庭に、月照が贈った歌の歌碑が立っています。
平成2年、今から25年前に作られました。
月照が清水寺の住職だった縁で、清水寺とは交流が続き、歌碑の落成式には京都から森清範貫主(住職)も来られたそうです。
森清範貫主は、毎年、その年を表す一文字の漢字を清水寺の舞台で書かれている方です。
そして栗原さんは、庭の柿の実を干し柿にして、毎年、森清範貫主に贈っているそうです。
およそ160年前、月照を大切にかくまった縁で、今も清水寺とこのような交流が続いていて、素敵な事だなと思いました。
「太宰府は、西郷隆盛をはじめ、坂本龍馬、高杉晋作など勤王の志士達が度々訪れ、明治維新に向けてのいろんな策が話し合われた場所なんです。
その時代、新しい風が吹いていたところなんですね。
今は、観光客の方にもたくさん来ていただいていますし、いい時代なんですが、この歴史を守りながら、先祖たちの思いを受け継ぎながら、私達も、ここから新しい風をおこしていきたい、新しいことにも挑戦していきたいと思っています。」
追伸
喫茶店で、お抹茶と太宰府名物梅ヶ枝餅のセットをいただきました。
お気づきでしょうか?
梅ヶ枝餅がよもぎ餅になっていますよね。
梅ヶ枝餅というと白いお餅というイメージですが・・

「菅原道真が生まれた日が6月25日、亡くなった日が2月25日で、どちらも25日なんですね。
それで、10年位前から、毎月25日は天神様の日として、その日だけは、参道のお店でよもぎ餅も売るようになったんです。」
私が太宰府を訪ねたのは、9月25日。
偶然よもぎ餅に出会う事ができました。
そして、西郷隆盛の命日はその前日の9月24日だったことを後で知りました・・・
<<シリーズ1回目 こんなところに石碑が・・西郷さんの隠れ家跡
シリーズ3回目 西郷(せご)どんも訪れた「延寿王院」>>
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