今年、戦後80年を迎えました。当時の体験を語ってくださる方が少なくなる中、一人でも多くの方の戦争の証言を記録し、次の世代に伝えていくために聞き取りの活動を続けていきたいと思っています。
今回、鹿児島市永吉にお住いの脇昭夫さん91歳に戦争体験を伺うことができました。
鹿児島市の草牟田国民学校で受けた軍事教育や鹿児島大空襲の体験、フィリピンのルソン島で戦死した兄にまつわる話など、子供の目から見た戦争の記憶をいろいろお話しいただきました。
脇昭夫さんの生い立ち
鹿児島市永吉にお住いの脇昭夫さん(91)。生まれも育ちも永吉で、戦前から戦後にかけてずっとこの一帯の変遷を見てきました。
5人兄弟の4番目で、父親は運送業を営み、鹿児島駅に着いた荷物を奄美大島や沖縄に運ぶ船まで持って行き、積み込む仕事をしていました。その後自営業者となり、荷馬車を購入しました。「荷馬車は、車輪が前と後ろに2つずつある荷台を、1頭の馬で引く4輪荷馬車でした。当時の荷馬車は2輪がほとんどで、それだったらあまり安定しないんですよね。しかし、父の荷馬車は4輪でブレーキもついていたので、あの荷馬車は良いと軍の目に留まってしまい、買収されてしまいました。昭和18年ごろの事です。アメリカから日本への石油輸出が禁じられ(昭和16年~)、ガソリンの供給が少なくなり、車での運搬が難しくなってきたのです。だから、その荷馬車を軍にやれと。軍の命令だから従わないといけないのでした。それで父も運送業の仕事ができなくなったんです。」
そこで、軍からもらったわずかなお金で牛を買い、土地を借りて農業を始めたそうです。
「当時は、鹿児島市の玉江橋から原良、永吉、西田のあたりまでずっとこの辺りは田んぼだったんですよ。」
やむなく運送業をやめた脇さんの父親は、米や畑で野菜を作るなどして、生計を立てることになりました。
草牟田国民学校での軍事教育
昭和16年4月、国民学校令により、尋常高等小学校という名称が国民学校に改められました。それは、「必勝の信念」「堅忍持久」の精神をたたきこみ、お国のために命を惜しまない国民になるよう、統一的な人格の育成をしようとしたからです。教育に国家主義的な色彩が濃厚に加味され、教育も戦時体制になっていきました。
脇さんは、ちょうど国民学校に名称が変わった昭和16年4月、鹿児島市の草牟田国民学校に入学しました。
当時の教育の様子を、いろいろ話してくださいました。
重んじられた学校行事
教室の前面には天照大御神の額が飾ってあり、朝と変える時は拝礼させられていました。
それから、国民学校では儀式・学校行事がより重んじられるようになりました。当時はどの学校にも奉安殿があり、そこには、天皇陛下と皇后陛下の写真(御真影)と教育勅語が納められていました。
そして、入学式や卒業式、また、2月11日の紀元節(神武天皇の即位日)、4月29日の天長節(昭和天皇の誕生日)などの儀式があり、その際には奉安殿から天皇陛下と皇后陛下の写真が出され、講堂の正面に飾られました。
「校長と教頭がうやうやしく天皇陛下の写真を持ってきて、正面に飾るんです。その間子供達は、奉安殿と講堂の脇に立って最敬礼をしていました。儀式では、旧憲法(大日本帝国憲法)や教育勅語の奉読などがありました。その間、子供たちはずっと頭を垂れておかなければならないんです。顔が下を向いていますから、鼻水が垂れてきます。鼻水をすする音があちこちで聞こえました。すると教頭先生が『鼻をすするな!』と厳しく注意されました。儀式がようやく終わったら、今度は子供達の『はあー』とほっとするため息があちこちで聞こえてくるのです。儀式は子供たちにとってとても緊張する時間でした。」
行進・円錐壕での体力作り・避難訓練
「体育の授業は行進の練習がほとんどでした。校庭を列を組んで行進します。曲がるときには内側の子供はゆっくり歩き外側の子供たちの歩きに合わせるんです。寒い冬の日もはだしで行進です。少しでも歩調が合わなかったりしたら、先生から竹の棒で足を叩かれたりして厳しい訓練でしたね。」
そして、校庭には大きな円錐形の穴も掘られていたそうです。
「円錐壕というすり鉢状の大穴でした。避難するための穴ではなくて、体を鍛えるためのものです。斜めになった斜面で子供たちを走らせて、そういった場所でも走れるように鍛錬させたんですね。それから避難訓練というのもありました。校門から外に出ると水が流れている側溝がありました。そこで先生が『空襲警報』というと、その側溝の中に素早く入ってかがむんですね。その際には、爆風で鼓膜が破れるといけないから耳をふさげ!目も飛んだらいけないから目もふさげ!と言われました。」
「そのほか、男子だけでなく高学年の女子たちも竹やり訓練をさせられていました。藁で作った人形を竹やりで突くんです。そういう訓練をしてもですね、竹を取りに行く間に鉄砲の玉が飛んできますよね。でも、先生たちは、精神一途、できることをなさい!と意味のない訓練をくり返させました。」
思いがけない光景
当時の国民学校では、軍国主義に基づいて授業や学校行事がいろいろ行われていました。
「講堂に集められて、ニュース映画も毎月見学しました。真珠湾攻撃で華々しく日本が勝ったという内容のものでした。月に一回程度、軍人さんや新聞記者たちが講演に来たりもしました。内容は、日本は神の国だから必ず勝つ!一致団結して頑張ろう!というような子供たちの気持ちを鼓舞する話ばかりでした。」
そんな中、脇さんはこんな光景を目にしました。
「昭和20年2月11日、紀元節の式典の日だったと思います。その式典のために校庭で待っていると、敵機のB29が高度約1万メートルぐらいの高いところを飛んでいるのが見えました。強い日本だから撃ち落とすんじゃないかと期待して見ていたら、日本の戦闘機は桜島くらいの高さの低い上空を弱々しく低速で飛んでいて、当時空港のあった鴨池のほうから逃げていくんですね。やっと高射砲で、敵機を迎撃する火砲も撃っているのですが、飛んでいる敵機の三分の一の高さの所しか届かないのです。その光景が学校の校庭から見えたんです。その時、子供心に日本は負けるんじゃないかと思いましたね。映画や講話では華々しい日本の勝利の話ばかりでしたが、実際とは違うんじゃないかって。ちょっと日本は先がないんじゃないかと不安を覚えた光景でした。」
空襲始まる・・目にしたすさまじい空襲
昭和20年3月から本土への空襲が本格化してきました。4月の沖縄への米軍上陸以降、次の上陸地点は鹿児島県とされていました。また、鹿児島からは特攻機が飛び立っており、米軍の鹿児島に対する攻撃は他の地方都市と比較にならない激しさでした。
鹿児島市が直接の攻撃目標になったのは、昭和20年3月18日から8月6日の計8回の空襲でしたが、九州全域への攻撃のため、鹿児島市は米軍機の通過地点にあたり、機影を見ない日はほとんどないという状況でした。
(総務省 鹿児島市における戦災の状況より)
以下、空襲の説明、被害状況は、このホームページより引用しています。
「防空壕も原良の山の崖を掘って作っていましたが、歩いて10分ほどかかりました。そのため、警戒警報が鳴ってそこまで走っているうちに敵機が来てしまうから、どの家も自分たちの家に防空壕を作りなさいということになりました。私の家も入口のところの地面を1メートルくらい掘って、柱を四本立てて、板を渡してその上に畳を敷いた防空壕を作りました。しかし、周りは田んぼの低地ですし、梅雨の時なんかは膝まで水が溜まる。空襲警報が鳴ると、その水につかりながら防空壕の中でじっとしていました。」
そんな中、防空壕の前方の空に、敵機の編隊が見えて鹿児島市内を攻撃している様子を見たそうです。
上記の総務省の記録によると、おそらく4月8日の空襲の時の記憶だと思われます。
昭和20年4月8日の空襲
「空襲警報もならないまま、突然、鹿児島市内の東側、城山の方から飛行機がずらーっと編隊で飛んできました。そして、今の鹿児島中央駅の方向に向かって次々と爆弾を落としていったんです。これは大変なことだと思いました。」
当時城山の麓には、数多くの防空壕が掘られていました。そのうち新上橋の鉄橋の際から照国神社の横に5~6箇所掘られていた横穴壕は規模も大きかったそうです。
「その新上橋の近くの防空壕付近が永吉の方から見えるんですが、そこに爆弾を落としている様子も見えました。大きな爆発音がして、防空壕に避難してきた人がたくさんの人が犠牲になったのではと思いました。」
記録によると、4月8日の午前10時30分、突如米軍機数十機が鹿児島市上空に現れ、市街地を空襲しました。この日の罹災場所は田上町、加治屋町、東千石町、西千石町、新照院町付近で、死者587人、負傷者が424人に上ったといいます。
脇さんが目撃した新上橋付近の防空壕は250キロ爆弾の直撃を受けて、数十人が生き埋めになったそうです。
昭和20年6月17日 鹿児島大空襲
この日の空襲は最大のものでした。午後11時5分、突然焼夷弾が鹿児島市街地に無数に投下されました。鹿児島市を襲った米軍機は、百数十機の大編隊で、しかも今までの爆弾攻撃を変更して、深夜に全市を焼き払う焼夷弾作戦の第一弾で、空襲警報は発令されませんでした。
「永吉から見る鹿児島市の中心部は、もう町全体が真っ赤になっていて、まるで溶鉱炉の中のような様子でした。絨毯(じゅうたん)爆撃ですよ。絨毯爆撃とは、ある地域に絨毯を敷き詰めるように隙間なく一面に攻撃することで、敵機が鹿児島市の上空に集結して、一斉に爆弾を落としていったんですね。ヒュー、ヒューという爆弾が投下される音はごうごうと鳴り、火が燃え広がる音はすごく、一面の火の海で、もう鹿児島市がなくなるんじゃないかというくらいの恐ろしい空襲でした。」
投下されたのは焼夷弾。焼夷弾は攻撃対象を爆弾で破壊するのではなく、攻撃対象に着火させて焼き払うために使用するものです。焼夷弾は中に入っている油の燃料が燃焼することで対象物は火災に追い込まれることになるのです。
この夜、鹿児島市に投下された焼夷弾は13万個(推定)とみられ、鹿児島市街地は一気に焼き尽くされたのでした。
「この永吉付近にも空襲が広がらなければ良いがと思っていましたが、幸いこの付近はほとんど田んぼで、集落があまりありませんでしたから、攻撃は受けませんでした。しかし、鹿児島市の中心街に父の妹夫婦が住んでいたのですが、妹(脇さんの叔母)が空襲の犠牲になりました。」
突然の空襲に見舞われた叔母さん夫婦は慌てて避難しようとしました。しかし、避難の途中で叔父さんが大事な鍵を忘れたことに気づきます。そこで近くの防空壕に叔母さんを避難させ、おじさん一人で家に取りに帰って、また、叔母さんのいる防空壕の方へ引き返したら、その防空壕が爆弾に直撃され、避難した全員が亡くなったというんです。
「空襲が終わった次の日から、私の父と叔父さんの2人で、叔母さんの遺体を探しました。しかし、無残に焼き焦がれている死体が並んでいて、どの死体が叔母さんなのかわからない。そこで周囲を入念に探すことにしました。その状況が2日ほど続きました。すると叔母さんが金歯を奥にはめていたということを思い出し、そういう死体がないか探したら、金歯のある女性を見つけたんですね。これがきっと叔母さんだろうと。ようやく3日後に見つけることができたそうです。」
「突然妹を亡くした父も、妻を亡くした叔父さんも、つらかったと思いますよ。」
焼き尽くされた街には、無残にも亡くなられた方の遺体が多く残されていました。生き残った肉親がその中から大事な人を探すという事は、どんなにつらく苦しいことだったでしょうか。
焼け跡の鹿児島市内は、水道のパイプが折れ曲がり、その管から水が噴き出していたそうです。
6月17日の鹿児島大空襲で亡くなった方は2316人。負傷者は3500人。11,649戸の家屋が被災しました。
一夜でこれだけの被害が出たのです。突然命を失ってしまった人、家族を奪われ、住む家を焼かれ、悲しみに暮れる人たちがどれだけ多くいたことか、その悲惨さを想像し、胸が痛みました。
「町の中心地は焼き尽くされ、建物も鹿児島市役所くらいしか残っていませんでした。それで、永吉から約4キロ先の天保山にあった当時のNHKの放送塔が見えていました。敵機の攻撃のすごさに圧倒され、被害の大きさに驚き、もうこれで日本も終わりかなって子供心に思いました。」
ルソン島で戦死した兄のこと
脇さんには、10歳年上のお兄さんがいました。長崎の海軍工廠(工廠・・軍隊直属の軍需工場)に勤労奉仕で動員されていましたが、昭和19年、20歳の時に召集令状を受けました。
入隊まで日がなかったそうですが、鹿児島市の実家に帰ってきて両親に挨拶した後、鹿児島駅から出征していったそうです。
「兄の名前の書かれた祝入隊の幟を先頭に、親類縁者の人と一緒に行列を作って、永吉から鹿児島駅まで歩いて向かいました。当時私は国民学校の4年生だったんですが、華々しく出征していく兄の事を誇らしく思いました。そして、鹿児島駅に着いたらみんなで「万歳!万歳!」と言いながら、兄を見送りました。」
お兄さんは、教育期間を終えた後、台湾に派遣され、その後しばらくしてフィリピンのルソン島に移動しました。
戦後生き残った方が、自分たちの部隊やお兄さんのことをわざわざ話に訪ねてこられたそうです。その方が、話してくれた状況は、大変壮絶なものでした。
飢えとの戦い
「派遣されたルソン島は、すでに米軍の勢力下で、戦いどころではなく、ジャングルの中を逃げ回る日々だったそうですよ。戦争末期、もう日本軍が劣勢に立たされている頃ですから、軍備もなくなり、食料も底をついていたんですね。草や木の皮、カタツムリや昆虫などで飢えをしのぐ有様で、みんな消化不良と下痢に悩まされる日々だったそうです。」
そして、食料が極度に不足している中、こんな悲惨な状況もあったそうです。
「上官が部下の兵士に食料を盗んでくるように命じるんです。それで、部下の兵士たちは夜に地元の集落を襲い,食料を奪ってくる。奪ってこられなければ、上官が鉄砲を部下に向けて脅すんだそうです。その恐怖の中、また取りに行く。そして、奪ったものは上官達が独占してしまうのです。」
そういう状況ですから、兵士たちは体力を奪われ、そのうえ蚊に襲われてマラリアに罹り、やせ衰えて死者が続出したそうです。お兄さんも、こうした状況の中、飢えとマラリアのため亡くなりました。
昭和20年4月30日でした。
それから、生き残った方がこんな話もされたそうです。
「敗戦で引き揚げて帰ってくるときはですね、部下の兵士は上官と一緒の船には乗りたくないと。船に乗ってからも、上官が食べ物を独り占めするんじゃないかって。もうあんな思いはいやだっていう事ですよね。」
敵との戦いではなく、もはや、飢えとの戦いで、さらに味方への憎しみも生まれ、なんのための戦いなのかと、こんな戦場に未来ある若者たちが送られていったことを思うと、何かむなしい気持ちになります。
では、家族への戦死の知らせはどのようにしてあったのでしょうか?
一片の竹片
「終戦後、半年ばかり過ぎたころ、兄の戦死を伝える公報が届きました。しばらくして、遺骨を渡すからという知らせがあったので、父と私が受け取りに行きました。今の玉江小学校のあるところで、四十五連隊の跡の援護局というところでした。そこは、戦時中、父の荷馬車を取り上げた所でした。」
そして、渡されたのは、白い布にくるまれた遺骨箱だったそうです。
「父が、白い遺骨箱を私に持つように言ったので、私は遺骨箱をくるんだ白い布を首に回して両手で持ちました。その瞬間、あまりの軽さに驚きました。何の重さも感じないんですよ。そして、歩き始めると、中から「カラカラ」と乾いた音が聞こえました。」
「家に帰って、遺骨箱を開けてみると、兄の名前が書かれた竹のヘラが1片入っていただけだったんですね。遺骨箱を渡されるときは何の説明もなかったです。一片の竹片、それが兄だったんです。
何かがこみ上げるようなものがあり、涙がこぼれましたね。」
そして、お母さんにそれを見せると、お母さんは慟哭し、畳の上にうつぶせになり、顔を上げることができなかったそうです。そして、何日も食べられず半病人状態になり、約半年間も納戸で寝たきりの状態になったそうです。
「よくできた兄だったんですね。長崎にいる頃は、2か月に1回程度、パイナップルやリンゴなどを送ってくれていたんですね。そして、何の楽しみもないだろうからと当時はまだ珍しかったラジオも買ってくれたりしていました。長男を失った母の悲しみはいかばかりだったでしょうね。」
戦争への思い
国民学校5年生の時に終戦を迎えた脇さん
「あぁ、もうこれで空襲はないんだ。敵から攻撃を受けることはないんだ。もう殺し合いはないんだという安堵感ですよね。」
「戦争だけはしてはいけない。戦争は一言で言ったら殺し合い。何の罪のない人までが犠牲になってしまう恐ろしいものです。そして、今の若者たちに伝えたいのは、時流に流されることなく、しっかりとした考えを持って、戦争に向かうようなリーダーを選ばないようにしてほしいことです。今の若い人たちは様々なことに挑戦できる自由があるし、積極的な生き方ができるから、そういう若者が、戦争のない平和な世の中を作っていってほしいと思います。」
戦後、脇さんは、お父さんの農業の手伝いをする傍ら、夜間高校に通い、その後鹿児島大学の教育学部に進み、小学校の先生になりました。
定年退職後は、生まれ育った永吉の地域づくりのために尽力されました。
「1993年(平成5年)に8・6水害があったでしょう。この辺りも甲突川の近くだから大変な浸水被害を受けたんですよ。しかし、私たちは戦前からこの永吉に住んでいたから、大雨が来ると水害を受けるってわかっていたから、土台を高くして家を建てていたので浸水被害に遭わなくて済んだんですね。そのことがきっかけとなり、地域の復興のためにどうしたらよいか、2度と災害を起こさないためにはどうしたらよいかと考え、鹿児島県の専門防災アドバイザーの資格を取ったんです。私が第一号のアドバイザーでした。」
そして地域の自治会長を務めたりしながら、災害に強い街づくりのために尽くしてこられました。
「やはり生まれ育ったこの永吉のために、少しでもお役に立ちたいという思いですよね。」
最後に・・
今、脇さんは奥様の妙子さん(85)と穏やかな日々を過ごしています。
およそ3時間という短い時間でしたが、80年以上前の戦争の体験はもとより、戦後の復興期、様々なご苦労やひたむきな努力を重ねられて、教職の道を選んだこと。教師生活の中で取り組まれた様々なこと。退職後は地域のために惜しみなく時間を注がれてきたことなど、色々とお話を伺い、常に人を思いやりながら生きてこられた脇さんの生きる姿勢に心を打たれました。
戦争という壮絶な体験をされ、戦後の復興期を生きてこられた方たちのたくましさと、二度と戦争を繰り返してはいけないという強い思いを改めて感じます。
平和な世の中である今、私たち次の世代がしっかりとその思いを受け継いでいかなければと、思いを新たにしました。















