昭和館は、戦争の記憶と戦中戦後の国民生活の労苦を次世代に伝えるために作られた国の施設です。その昭和館に2年半前、母の戦争体験記を寄贈させていただきました。そこで、ぜひ一度訪ねてみたいと思っていましたが、昨年母が亡くなり、その慰霊の気持ちも込めて今回初めて訪問しました。図書室の本棚に母の本が並べてあり嬉しく感じるとともに、展示品や貴重な映像、写真などから当時の人々の暮らしを具体的に、より深く知ることもでき、とても有意義な訪問となりました。
昭和館を訪ねる
昭和館は東京都千代田区九段南にあります。東京に行くのも20年ぶりで、高層ビルと人の波とその歩く速さに少々気後れしながらも、地下鉄に乗って昭和館に向かいました。「九段下」駅を降り、案内にあったように駅出口4から地上に出たら、目の前に昭和館が建っていました。地上7階地下2階の建物で、その日の快晴の青空の下、すっくとそびえ立つ立派な建物だというのが第一印象でした。
昭和館は、国民が体験した戦中・戦後(昭和10年頃から昭和30年代)の労苦についての歴史的資料・情報を収集、保存、展示し、次世代に伝えるために厚生労働省が平成11年に開設した国の施設です。国民の生活を伝える実物の資料等を展示した「常設展示室」、当時の貴重な写真や映像をタッチパネル式のパソコンを使って検索・視聴できる「映像・音響室」、戦中戦後の国民生活に関する図書や雑誌の他、地図、海図などの資料を検索、閲覧できる「図書室」などの施設があります。
まず、今回の訪問の一つの目的だった母の本を見るために図書室を訪ねました。
母の戦争体験記が収蔵された4階図書室へ
図書室に並べられた本。・各地の戦災記録や戦記 ・部隊史、戦争に係わった人物の著作や伝記 ・戦中・戦後に刊行された様々な雑誌 ・戦中・戦後のくらしの体験記 など約14万7,000冊が展示、収蔵されています。
その中の体験記のコーナーに母の戦争体験記「私が子供だった頃」も並べられていました。
多くの戦中戦後に関する著作の中に母の本が加えられ、実際に書棚に並べてあることを確かめることができ、本当に嬉しく感激しました。
これまでてのんの中で度々「私が子供だった頃」についてはお伝えしてきましたが、母の戦争体験を記録として残したいという思いで母の話を聞き、それをまとめて出来上がった本が、昭和館という国の施設にこうして収蔵され、大変ありがたく何か少し誇らしいような感情も生まれました。
図書室では、戦中・戦後の生活に関する手記や体験記を積極的に収集しており、新聞やその他様々な手段で情報をチェックしているそうです。その調査の過程で母の戦争体験記のことを知ってくださり、本を提供していただけないかとのご依頼があったのです。
自費出版で、印刷した部数も少ないこの本の事が、まさか昭和館の方の目に留まるとは夢にも思わず、大変光栄に感じています。図書室の方々がいろいろきめ細やかにアンテナを巡らせて、収集活動をして下さっているおかげだと思います。
こうした取り組みにより、年々収蔵部数は増えていっているそうです。
図書室には、実に様々な戦中・戦後に関する本が並んでおり、当時の事をあらゆる角度から知ることができる資料が揃っていることを実感しました。
また、一般の図書館ではなかなか見られない戦時中の子供向けの雑誌なども手に取ることができ興味深かったです。
ただ、資料は貴重なものが多いため、資料の館外貸し出しは行っておらず、図書室内での閲覧となるそうです。
また、これらの収蔵資料はすべてデータベースに入力されており、検索端末で様々な目的に応じて素早く検索ができます。
母の戦争体験記も、当時の教育や子供たちの生活の様子などを具体的に知っていただく資料として、多くの方に活用していただきたいと思いました。
図書室を後にし、今度は常設展示室を見学しました。
常設展示室は7階が「戦中のくらし」、6階が「戦後のくらし」になっています。
まずは、7階の「戦中のくらし」から見学しました。
※資料交換に伴い、展示資料は変更する場合があります。
7階 常設展示室 (戦中のくらし)
「戦中のくらし」は、昭和10年頃から昭和20年(終戦)までの戦中における国民生活を伝える実物資料を展示しています。
「家族の別れ」「統制下の暮らし」「戦中の学童・学徒」「銃後の備えと空襲」などのタイトルがつけられ、そのブースごとにわかりやすく展示されています。
その当時使われていた物、貼られていたポスター、生活の品々、着ていた服、子供たちの教材やおもちゃなど実物の資料や品々が並んでいます。映像や写真などでは見たことがある戦時中のものを、実際、自分の目で見ることができ、実物から受ける説得力の大きさを感じるとともに、その時代の空気感みたいなものも伝わってきました。それは何かどんよりとした重苦しい、閉塞感が感じられる空気感です。と同時に、それらの品々は、その時代の人々が、実際見たり、手に取ったりしていたもので、どんな思いで使っていたんだろう、どんな思いで暮らしていたんだろうと、その展示されている品々から当時の人たちの思いにまで想像を膨らますことも大事ではないかと思いました。
1937年(昭和12年)日中戦争がはじまります。日本は大陸に目を向け領土拡大を目指し始めました。そして、だんだん軍の力が強くなり、軍国主義が強まっていきました。
それまでつつましやかでのどかな日常を送っていた人々が次第に戦時体制に巻き込まれていく事になります。
戦争を遂行していくために、国民にも耐乏生活を強いるようになります。
1940年(昭和15年)に国家精神総動員運動の一環として制定されたのが「贅沢品は敵だ!」というスローガン。街頭に看板が立てられるなど、その考えは全国に広まっていきました。

そして、徴兵制度により若い男性のもとには召集令状が届きます。いわゆる赤紙です。
当時はお国のために戦えるのは名誉なこととされていましたが、赤紙を受け取った本人や家族の本音はどうだったんでしょうか?
そして出征する兵士の無事を祈って女性たちが贈った千人針。
展示された千人針の説明を読むと、出征する兵士の母や妻が他の女性に、腹巻用の布やチョッキなどへ糸玉を一針ずつ結んでもらい、戦地での弾除けのお守りとして贈られたと書かれていました。
また、「虎は千里を走り、千里を帰る」という言い伝えがあるといわれ、「虎」の絵が描かれるものも多く、「死線(四銭)を超える」「苦戦(九銭)をまぬがれる」ということから五銭・十銭硬貨を結び付け、あわせて「銃後(十五)の護り」ともされたと説明に書いてありました。
固く結ばれた糸玉一つ一つに、強い願いが込められている事を感じました。
この展示された千人針は、おそらくこれを贈られた兵士が無事帰ってきたから、現存しているのだと思いますが、願いむなしく千人針と共に亡くなっていった兵士たちも多くいたんだろうなと、そういう事にも思いを巡らしました。
昭和16年4月、国民学校令により尋常高等小学校という名称が国民学校に改められます。
皇国の道に則(のっと)る皇国民の錬成という戦時教育目的を強化することになります。
お国のために命を惜しまない国民になるように教育によって誘導していったのです。
当時の子供たちの使っていたおもちゃや、教科書、実際当時の子どもが書いた習字などが展示されていました。
兵士をかたどった節句人形や兵隊ごっこに使われた鉄兜やサーベル。
当時の国民学校3年の子どもが書いた習字の文字は「軍用犬 少年兵」となっています。
これは「航空機乗員養成所生徒募集」のポスターです。
本科生は国民学校初等科終了の満12歳から14歳が募集対象だったと書かれています。
母の体験記の中に、国民学校の授業の中で「少年飛行兵になって米英をやっつけたいです。」と発表したら「女子はなれないのですよ」と先生に言われ、悔しくて泣いたという事が書かれています。
母の話によると、その頃の子供たちの将来の夢は、兵隊になること、航空パイロットになることだったそうです。
軍国主義の教育を受けた子供たちはこのポスターを見て、あこがれを持ったり応募したいと思ったりしたんだろうなあと考えました。
1941年(昭和16年)11月、国民勤労報国協力令が公布され、14歳以上40歳未満の男子と14歳以上25歳未満の独身女性の勤労奉仕が義務化されます。1944年(昭和19年)8月には、学徒勤労令や女子挺身勤労令が公布され、中学生以上を軍需工場などに動員する方針がとられました。農村や工場の労働不足を補うためで、学校教育を受けることよりも優先して、勤労が重視されました。
このような日の丸の鉢巻きともんぺ姿で、弱音を吐くことも許されず「お国のために」と必死に働く若い女性たち。おしゃれやスイーツとは無縁の青春時代を送っていたと思うと何か切ない気持ちになりました。
1941年(昭和16年)8月に、金属類回収令が公布されます。武器生産に必要な金属資源の不足を補うために取られた政策で、工場、お店、お寺や神社、家庭の区別なく根こそぎ金属類が回収され、お寺からは釣り鐘(梵鐘)も回収されました。
戦争が長期化すると、金属や革などが不足し、代用品が作られるようになりました。
竹製のランドセルやヘルメット、陶器製のアイロンなどが展示されていました。
また、1941年(昭和16年)4月に生活必需物資統制令が公布されます。国民が必要とする日用品は全面的に統制され、米や燃料、繊維製品等ほとんどの日用品は配給制になりました。

配給だけでは生活は成り立たず、物資不足は深刻でした。
十分に食べられず、自由に物を買えず、金属類は供出しなければならず、どれだけ人々は不自由を耐えなければならなかったんだろうと思います。
さらに昭和17年4月、日本本土に対する初めての空襲がありました。
本格的な空襲に備えて、様々な対策がとられたことも説明されています。
学童疎開、防空壕作り、灯火統制などです。
灯火統制は、夜の空襲に備えて、屋内のあかりが外に漏れないようにするもので、電灯に覆いをしたり、着色された電球を用いたり、様々な対策がとられました。
そして、昭和19年12月から終戦にかけ空襲は激しくなり、全国の都市に被害が出ることになります。
その空襲の怖さを体験できるコーナーもあり、私も体験しました。
実寸大の「防空壕」の模型で、その狭い空間に入って座り、黒いカーテンを閉めると、防空壕の中は暗くなります。すると、B29の飛行音がしてきました。そして、2~3秒後だったと思いますが、爆弾の落下音と炸裂する音がし、振動も感じました。その爆弾の音や炸裂する音が大きく、本当に空襲を受けたかのような恐怖を感じ、思わず「あっ!」と声が出ました。とてもリアルで怖さのため涙が出そうになりました。
防空壕に避難していても防空壕に爆弾が直撃し、各地で多くの方が亡くなった話も聞いたことがあります。こんな死と隣り合わせの日常があったなんて本当に怖くて、その事を体感でき、得難い経験となりました。
私が訪れた日に、東京都の石神井町の中学生が見学に来ていました。
防空壕の体験コーナーの前で2人~3人の生徒に昭和館の感想を聞いてみました。
「空襲体験はとても怖かったです。当時の人たちはこんな大変な経験をしていたんだなあと思いました。」
「当時のものがいろいろ展示されていて、戦争中の事が良くわかりました。」
「やはり、僕たちのような若い世代の人たちが、このような施設の見学をして、戦争の悲惨さを理解し、絶対に戦争をしない世の中を作っていかないといけないと思いました。」
中学生たちがメモを取ったりしながら熱心に見ている姿を見て、若い世代の人たちがこの施設を見学することはとても大切なことだなと思いました。
防空壕の体験の後、階段を降り、6階の「戦後のくらし」の展示室に向かいました。
その階段の途中に当時のラジオが置かれ、その下のボタンを押すと、1945年(昭和20年)8月15日の天皇陛下の玉音放送が流れ始めました。
「・・堪え難きを耐え、忍び難きを忍び、以て萬世のために太平を開かんと欲す・・」
これまで何度も聞いたことのある音声ですが、戦時中の様々な展示を見たり、防空壕の体験をしてきたばかりだったので、当時の人たちがどんな思いでこの放送を聞いていたのか、悲しいという一言では言い表せないような複雑で虚しい感情が沸き上がったのかなあと、その当時の人たちの思いを少しだけ理解できたような気がしました。
6階 常設展示室(戦後のくらし)
「戦後のくらし」は、昭和20年(終戦)から昭和30年代までの戦後の国民生活を伝える実物資料を展示しています。
戦後は食糧難が深刻で、配給が滞り、非合法の闇市や買い出しで食料や日用品を手に入れるしかありませんでした。
国民全体がとても苦しい生活を余儀なくされる中、戦争で夫や父親を失った遺族の生活は一層苦しく、また、家族を失った戦災孤児も多くいました。
昭和23年の厚生省の調査によると戦災孤児の数は12万人を超えていたそうです。
その戦災孤児の実態や、夫や父親を失った妻や子供たちが内職などをして生計を立て、苦労しながらも生き抜いてきた実態などがパネルなどを使って紹介されていました。
一方で学校も再開し、校舎が焼失した学校では運動場などを使って授業を行う青空教室が行われました。
そして、新しい教科書ができるまでの間、それまで使っていた教科書が使われましたが、国家主義や戦意を鼓舞する内容の部分に、子供自身の手で墨を塗って、教科書を修正しました。いわゆる「墨塗り教科書」です。
軍事教育から戦後の民主教育へ、教育の在り方が大きく変わりました。
その中で、子供のおもちゃも、軍事色の強いものからがらりと変わりました。
また、大衆娯楽やスポーツなども復興し、産業基盤も整い始め、徐々に国民生活が安定の方向に向かい始めました。
昭和30年頃、白黒テレビ、電気洗濯機、電気冷蔵庫が三種の神器と呼ばれ、当時の豊かな生活やあこがれの対象とされていました。
この辺りを見学する頃には、それまでの暗い雰囲気から、なにか室内の照明も明るくなった感じがして、これからの高度成長期に向かう日本の明るい兆しを感じました。
戦時中と戦後の婦人雑誌や子供向けの雑誌が展示されているコーナーでは、時代の変化がとてもわかりやすく感じられました。
戦時中の雑誌のタイトルは「愛国婦人」「訓練」「日の出」などで、表紙の絵も体を鍛える少女や、戦闘機を背後にした兵士たちなどで、そのタイトルや絵からだけでも軍事色の強いものだという事がわかります。
一方戦後の雑誌は、「ロマンス」や「ひまわり」などのタイトルがつけられ、表紙は、おしゃれをした綺麗な女性たちです。
昭和館の展示は昭和30年代までのものですが、日本は1955年(昭和30年)頃から1970年代初頭にかけ高度経済成長期を迎え、敗戦からの復興を経て、急速な工業化と技術革新が進みました。
そして国民の生活水準も向上しました。
戦中から戦後にかけての日本の歩みを実際の資料などを見学し、戦争の悲惨さ、人々の生活の苦労など、戦争の実像を表面的な理解ではなく、より具体的に、実感を伴って学ぶことができました。
また、この苦しみの日々から、人々は前を向いて立ち上がってきたんだなあと、その生きるエネルギーも感じました。
そして最後に訪れたのが「映像・音響室」です。
5階 映像・音響室
映像・音響室では、戦中・戦後の人々のくらしを主とした写真(約32,000点)や映像(約3,600点)、SPレコードの音源(約14,000点)などをデジタル化したデータベースから検索、閲覧、視聴できるようになっています。
私も少し検索してみました。
戦争体験を語ってくださった方が、国民学校の頃、講堂に集められて、ニュース映画を毎月見ましたと証言してくださっていたので、まずは当時のニュース映画はどんなものがあったのか検索してみました。
- 1941年(昭和16年)12月8日の太平洋戦争が始まったことを知らせるニュース。
ハワイ、マニラ、香港などに致命的な打撃を与え、早くも戦果が挙がったと伝えていました。 - 1942年(昭和17年)2月シンガポール要塞の敵軍を無条件降伏(シンガポール陥落)した事を伝え、喜びに沸く人々の様子も伝えていました。
こういうニュースを子供たちに見せ、気持ちを鼓舞していたという事がわかりました。 - また、1945年(昭和20年)1月ごろのニュースでは、日本の艦隊が本土に接近していたB29約50機のうち41機撃墜という輝かしい大戦果をおさめたと伝えていました。
そのころの戦局は日本軍が劣勢に立たされ、全国の都市で空襲の被害を受けていたにもかかわらず、そのことを伏せて、あくまでも戦争を継続させようとする姿勢が見えました。
また、鹿児島に関する空襲の被害や戦中戦後の様子がわかる写真はないか検索してみました。
すると、館内限定公開なのでここではご紹介できませんが、空襲を受けた鹿児島市の様子を伝える写真が多く保管されていることがわかりました。鹿児島市が大空襲を受けた後の写真は、城山から鹿児島市街地を見下ろす遠景の写真しか見たことがなかったので、被害を受けた建物や町の様子を近くで撮った写真は、さらに説得力がありました。
当時の映像や写真、軍歌や流行歌など、これまで見たことも聞いたこともない戦中の様子が、よりリアルに理解でき、大変興味深かったです。
昭和館を見学して
以上、図書室、常設展示室、映像・音響室を見学し、様々な角度から戦中戦後の事を詳しく知ることができました。
それぞれの見学先で、担当の職員の方が丁寧に説明してくださり、大変ありがたかったです。
展示物や資料、データで保存されているものが膨大で、まだまだいろんな本を手に取ってじっくり読んでみたり、映像や写真などを検索したりして学びを深めたいと思いました。
「伝えたい 戦争の記憶と戦中、戦後のくらし」とする昭和館の本気の姿勢を感じ、戦争を経験していない私たちがより具体的により真実味をもって戦争の事を知ることのできる施設だという事を感じました。
これまで「てのん」では、多くの戦争体験者の証言を聞き取ってきました。その方達が必ずと言っていいほど最後に「二度と戦争を繰り返してはいけません。」と話されていました。その言葉の持つ重みを、これまでよりも自分の心の中で消化できたような気がします。私たち「てのん」も当時の人たちの思いや暮らしに思いを馳せながら、戦争を体験された方の思いを受け継ぎながら、微力ながら戦争を伝えるという活動を続けていきたいと思います。
資料寄贈のお願い
なお、昭和館では様々な資料寄贈をお願いしています。
資料寄贈のお願い – 昭和館
また、昭和館の方から戦争に関する他の2つの施設についてもご紹介いただきました。
「帰還者たちの記憶ミュージアム(平和祈念展示資料館)」と「しょうけい館 戦傷病者史料館」です。
「帰還者たちの記憶ミュージアム(平和祈念展示資料館)」
「帰還者たちの記憶ミュージアム(平和祈念展示資料館)」は、さきの大戦における兵士、戦後強制抑留者、海外からの引き揚げ者の労苦についての資料の常設展示を行い、次世代に語り継ぐことを目的として平成12年11月に開館しました。
平和祈念展示資料館(総務省委託)
「しょうけい館 戦傷病者史料館」
また、「しょうけい館 戦傷病者史料館」は、戦傷病者とその家族等が戦中・戦後に体験した様々な労苦についての証言・歴史的資料・書籍・情報を収集、保存、展示し、後世代の人々にその労苦を知る機会を提供することを目的に、平成18年3月に設置された国立の施設です。
しょうけい館 戦傷病者史料館
このような施設があることも今回初めて知りました。
今回は訪問できませんでしたが、次回、東京を訪ねた時に、ぜひ見学したいと思います。
























