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鹿児島の偉人というと、真っ先に西郷さん、大久保さんをあげる人が多いと思いますが…
この人がいなかったら、薩摩の明治維新での活躍はなかったかも…
今回は、薩摩の影の立役者、調所笑左衛門広郷さんのお話をご紹介します。
鹿児島市の島津家の菩提寺「福昌寺跡」

この福昌寺跡の一角に、調所さんのお墓があります。


福昌寺ゆかりの方々を偲び、歴史を子どもたちと楽しく学ぼうという会の活動で去年、「さつまを救った男・調所笑左衛門さん」を取り上げました。
鹿児島での歴史研究の第一人者原口泉先生や調所さんの7代目子孫・調所一郎さんも横浜から駆けつけて下さって、オリジナル紙芝居を披露しました。
江戸時代も幕末近い頃。
薩摩藩は500万両という巨額の借金を抱え、まさに破産寸前の状態でした。
当時の薩摩の年収が12~14万両だったといいますから、桁違いの借金です。
時の島津重豪公は一介の茶坊主上がりの調所さんを藩の最高職・家老に抜擢、財政の立て直しを命じたのです。
当時、お殿様の命令は絶対でした。調所さんは、覚悟を決めて、命がけの改革を断行。
離島の特産品である黒砂糖をはじめ、様々な商品作物を開発、それらを藩の専売制にして高くで売ったり、琉球を通じて清との密貿易を行ったりして莫大な利益を得ていきました。
そして、わずか10年あまりの間に巨額の負債を解決し、貯えまで残すという信じられない財政改革を成し遂げたのです。
しかし、あまりに徹底した改革で、奄美をはじめとする島民が重税に苦しめられたことや幕府に密貿易の嫌疑をかけられ、藩主に迷惑がかかることを恐れて自殺したことなどから、汚名をきせられることになります。
調所家は屋敷も取り上げられ、一族は離散。名前を変えて居場所を転々とする等の迫害を受けました。
そんなこともあり、調所さんが藩の財政を立て直した薩摩の救世主として評価されるようになるまでには、とても長い時間がかかりました。
お話し会で原口泉先生は、子どもたちに…

「薩摩に大きな貯えがあったからこそ、他の藩に先駆けて軍事力を強化したり、産業の近代化を図れたんだよ。強い薩摩の礎を作ったのが調所さんで、調所さんがいなかったら、あの明治維新での西郷さんや大久保さんの活躍もなかったかも。調所さんは、まさに薩摩の大恩人。」と話されました。
調所さんの7代目子孫の調所一郎さんも…
「歴史には表と裏があって面白い。どっちから見るかで違ってくる。
本当はどうだったのか知りたくて、今も全国あちこち歩き回っています。
自分の目で見て、足で歩いて歴史を調べてみたら面白いですよ。」と話しかけました。
驚くことに、この会に、調所さんの子孫という方が参加して下さっていました。
7代目子孫にあたる明子さんは…
「母から調所笑左衛門さんの事を薩摩の重臣として活躍したと聞いていました。
でも一方で、庶民を苦しめた話も聞いたりして、悶々としていたけど、胸のつかえがとれて、何だかすっきりしました。」と笑顔。
となると…
息子の颯人くんと鉄平くんは、調所さんの8代目の子孫ということですが、この時初めて、調所笑左衛門さんがどんな人だったのか詳しく知ったそうです。
「もっと詳しく知ってみたい!」そんな小さな8代目子孫の好奇心からデジカメと筆記用具を持って見て歩いて訪ねるご一家の「ご先祖様・笑左衛門さんをめぐる旅」が始まったのです。
今度は、そんな川原さん一家の歴史を訪ねる小さな旅話についてご紹介しますね。