私たち「てのん」では、一人でも多くの方の戦争体験を記録し、次世代に伝えていくための聞き取りの活動を続けています。今回は、鹿児島市にお住いの永田昌子さん(94)の戦争体験です。
満州で生まれ、現地の学校で学び、苦労されながら敗戦後、家族で引き上げてきました。銃を持った敵兵から脅され、お金を奪われるという緊迫した体験もお持ちです。満州での暮らしや敗戦後の混乱、引き揚げまでの様々なエピソードをお話しいただきました。
永田昌子さん(94)の生い立ち
鹿児島市にお住まいの永田昌子さん(94)。
昌子さんが生まれたのは、満州国の營口(えいこう)です。
満州国は、1932年(昭和7年)から1945年(昭和20年)まで、中国東北部に存在した国家です。
1931年、現地に駐屯していた日本軍(関東軍)が中華民国(当時の中国の国名)を攻撃し、中国東北部(満州)を占領下に置きます。これが満州事変です。そして、翌年、関東軍の主導の下、中華民国から独立した「満州国」が建国されました。
現在の中国東北3省(黒竜江省、遼寧省、吉林省)にあたります。
満州国は、日本人、漢人、朝鮮人、満州人、蒙古人による「五族協和」を建国理念としていましたが、実態は、主要な役職は日本人が掌握するなど、日本の傀儡国家でした。
※傀儡国家とは、外見上は独立しているものの、内政や外交の大部分が他国によって実質的に支配・操縦されている国家のこと。
つまり、満州国は、実質日本が支配・操縦していた国ということになります。
※中国・・日中戦争や第二次世界大戦時の中国の正式名称は中華民国です。日本で中国という表記が一般的になったのは戦後ですが、以下、当時を説明する文章に関しても現在定着している「中国」と表記します。
満州へのあこがれ
昌子さんのお父さんは、満州事変よりも前に中国に渡っていました。
「父は鹿児島の銀行に勤めていましたが、外国へのあこがれとか、大陸で一旗揚げようとか思ったんですかね。銀行を辞めて中国に渡ったんです。そして結婚し、昭和5年に長男が生まれ、次に昭和7年に私が生まれました。その後、弟と2人の妹が生まれ5人兄弟、父と母合わせて7人家族でした。父親は金融組合に勤めていました。それで、おそらく支店がいろいろあったんでしょう。奉天、大連、旅順と引っ越し、また、大連に戻り、そこで終戦となりました。」
当時、なぜ人々は満州に渡ったのでしょうか?
1929年の世界恐慌後、日本国内も深刻な不景気に陥り、農村も疲弊していました。そこで満州には広大な土地と豊かな資源があり「移住すれば20町歩(ヘクタール)の地主になれる」と政府が大々的に移民を推進。また、人々は、閉塞感のある日本から抜け出し、満州で新しい生活を築けるという希望や新天地での成功を夢見ました。
こうしたことから、開拓団として渡った農業移民だけでなく、満州国の官吏、関東軍の軍人、都市で商工業を営む人々など様々な立場の人が満州に渡りました。
昌子さんたちは、満州では恵まれた暮らしをしていたそうです。
「日本人のお手伝いさんと、中国人の使用人もいました。食事を作ったり、子どもの世話をしたりですね。食べ物に困ることもなかったし、大陸の冬は寒いけど、部屋にペチカ(ストーブ)があって冬でも部屋はあたたかだったですよ。」
旅順第一小学校に入学
昌子さんは1939年(昭和14年)に旅順第一小学校に入学します。
「ほとんどの子どもが日本人の日本人学校です。日本人の教師がいて日本の教育をする。日本国内の教育とあまり変わらなかったんじゃないですかね。でもね、クラスに2人~3人は中国人や朝鮮人もいましたよ。その中国人の子供たちはお金持ちの家だったんじゃないでしょうか。その子の家なんか立派でしたからね。お金持ちの中国人・朝鮮人だけは優遇されて日本人学校に入れたのかもですね。」
これは旅順第一小学校の卒業生たちが作成した記念誌です。
その中には、校舎や授業風景、街の様子など貴重な写真などが載っており、当時の校歌なども紹介されています。
※以下の写真は、「旅順第一小学校白玉会作成の創立90年記念誌より抜粋」
「立派な建物でしたよ。卓球場や運動場もあって、きちんと制服もありました。」
昌子さん自身は、引き揚げの混乱の中、命を守ることが精いっぱいで、当時の写真や学校時代の思い出の品は一切持ち帰れなかったそうです。そこで今回の取材を機に、昌子さんのお兄さんのご家族に当時の写真や資料が残っていないか相談したそうです。お兄さんは旅順時代の同窓生たちと戦後もつながりを持ち、戦後になってから、現地にも数度足を運ばれたそうです。そこのつながりから、記念誌や学校の資料をお兄さんが手に入れることができ、長年大切に保管されていました。お兄さんは他界されましたが、今回、お兄さんのご家族からこれらの資料をお借りすることができました。
その写真や資料を見ることで、昌子さんは当時の記憶が細やかに思い出されてきたそうです。
「それで、授業の時に使っていた世界地図には、満州国も日本と同じ赤く塗られていました。満州国は日本であるという事ですよね。校歌は今でも口ずさむことができます。」
校歌の歌詞は、当時の満州国の位置づけや、そこで学ぶ子供達へ日本国民としての心得を説く内容になっており、その当時の満州国での教育の在り方がわかります。
跳び箱などを使っての体操の授業や、女子は薙刀の訓練などもありました。
「それでね、少し違ったと言えば一週間に1回~2回、支那語(中国語)の授業があったという事ですかね。教科書もあって、簡単な支那語を習いましたが、覚えているのは『先生が来ました。』という『センション ライラ』という言葉くらいですかね。でも普段は日本語しか使わないから、支那語を使うことはありませんでした。」
昌子さんが貴重なものを見せてくださいました。
実際、昌子さんが当時使っていた「初等支那語教科書」です。
これも昌子さんのお兄さんが同窓生の方からコピーさせてもらい保管していたものです。
※支那・・戦前~日中戦争期の日本で、中国侵略と結びついたスローガンなどに使われ、現在の日本語では、中国や中国人への差別的な呼び方と受け取られる語です。戦前の日本では中国を示す語として一般的に使われていました。
「それでね、学校の一番高い所にある部屋に、乃木大将が座ったという椅子と机が飾ってありましたね。
私達はその部屋にはめったに入れなかったんですが・・」
乃木大将とは乃木希典のことで、日本の陸軍軍人です。1904年に日露戦争が開戦すると、第3軍司令官に任命され、旅順攻囲戦を指揮しました。ロシア軍との激戦の末、旅順を陥落させました。この日露戦争での功績から「軍神」と称され、国民から絶大な尊敬を集めました。
昌子さんたちはその旅順に住んでいたので、乃木大将の功績をより身近に感じ、教育にも浸透していたと思われます。
にぎやかだった日本人街
旅順には日本人街ができていて、お店や薬局、病院、市役所など日本と変わらない暮らしがありました。
「乃木大将を称えるためでしょうね。街の通りにも乃木町通りとかありましたよ。もう日本人街の中にどっぷりつかっているんですから。日本語で話して、通りの名前もお店屋さんの看板も日本語。日本から離れて外地で暮らしているとかそんな意識なんてありません。私たちの国、日本という感じです。」
家族で大連へ
その後、昌子さん一家は大連に引っ越します。
昌子さんのお兄さんが通っていた大連第一中学校の「生徒心得」も、昌子さんのお兄さんがコピーを保存されていて、今回見せていただくことができました。
服装や教室、講堂での態度、放課後の過ごし方、校外での禁止事項など、生徒の行動に対する心得が実に細かく書かれています。
「必勝ノ信念ヲ鞏固(きょうこ)ニシ不屈不撓ノ敢闘精神ヲ旺盛ニスルコト。宿敵米英撃滅ノ精神ヲ盛ニスルハ勿論・・・」
中学校の生徒心得の中に、「必勝ノ信念」「宿敵米英撃滅ノ精神」という文章などがあり、この「生徒心得」の中からも、当時の軍国主義の教育を実感することができました。
敗戦からの混乱
そして、終戦の前日からの話です。
「その頃は勤労奉仕で、学校には行かず、近くの公園の土を掘って、貯水池を作る作業をさせられていました。自分の家から弁当を持って行って、朝から土を掘って運んで、弁当を食べた後また土を掘って。そんな作業をしている中、明日は天皇陛下の大事な話があるから、学校に出席しなさいと言われたんです。それでね、8月15日、学校の講堂で玉音放送を聞いたと思います。だけど、電波が悪くてよく聞こえないし、何のことかわからない。そしたら、どうやら日本が負けたっていうのね。その日から、がらりと生活が変りましたよ。今までは威張って歩いていた日本人が、みんな下を向いて歩いていましたから。」
終戦直前の1945年8月9日、ソ連は日本の日ソ中立条約を一方的に破棄し、満州へ侵攻してきました。このソ連軍の侵攻と日本の敗戦により、満州国は実質的に崩壊し、満州は極度の混乱と悲劇的な状況になります。
満州に進出していた日本企業は、終戦によりその事業のすべてを失いました。そして、日本人に対する抑圧が始まり、治安は極端に悪化したのです。
約155万人いたとされる満州在住の日本人にとって、命がけの避難と引き揚げの苦難が始まるのです。
「終戦後、しばらくは学校があったのですが、奉天とか新京とかから逃げてきた女子は、坊主の子もいました。女性だとわからないようにするためにですよね。どれだけ避難が大変だったかその姿を見てかわいそうだなあと思いましたよ。」
満州からの引き揚げ時に、ソ連兵や中国人から辱めを受ける女性が多くいました。そのあまりにも悲惨な事が繰り返される中、暴行を受ける前に自決をするため、女子に青酸カリを持たされることもあったそうです。
その終戦の混乱の中、昌子さんの父親は結核を患い、牡丹江の病院に入院していました。
「家に父がいなくて母もすごく不安だったと思いますよ。一人で5人の子供を守らないといけないわけですから。一方父は、ソ連軍が来るから危険だという事で、その病院から貨車に乗せられ、別の場所に移されたそうです。それで、一刻も早く家族のもとに戻ろうと思ったんでしょうね。そこから、白い患者衣のまま、自宅に帰ってきました。」
八路軍が家に・・
家族全員が揃い、ひとまず安心する中、大きな出来事が起きます。
「ある日、家の裏の台所のドアを『トントン』と叩く音がしたんです。それで、ドアを開けると、パパパッと3~4人の八路軍が入ってきたのよ。それで、まず、さっと電話線を切ってね。そして、拳銃で脅しながら家族を一つの部屋に集めたんです。その時に、弟がちょうどトイレに入っていてね、トイレから出てきたら八路軍の人がびっくりして、拳銃を持ちながら弟を追っかけるわけよ。それで、私たちは『しょうちゃん、しょうちゃん、こっちよ』と呼んでね。」
八路軍とは、日中戦争中に華北で活動した中国共産党軍の通称です。日中戦争において抗日戦の主力となり、ゲリラ戦などを展開しました。八路軍は、民衆の支持を受け、日本軍にとって強敵でした。
その日本が負け、混乱した状況の中で、八路軍が満州にもやってきたのです。
「私たちに銃を向けながら、テーブルに腰かけてね、父に向って『お金を貸してください。必ず返しましから』って言うんですね。『必ず返しますから』って、本当に返す訳ないと思うけど。それで、金融組合の隣に自宅がありましたから、そのまま父を金融組合に連れて行ってね。当時、父は金融組合の理事をしていましたから、金庫の鍵とか持っているのよね。それで、父は、最初、少ししかお金を渡さなかったのかな?八路軍の人が『もっとあるだろう』と言ってね。」
それで、ある程度のお金を渡したら八路軍の人たちは去っていったそうです。
そのお金が、何の紙幣だったのか、昌子さんもはっきりとは記憶されていないそうですが、当時満州国では、「満州国圓」という通貨が流通しており、満州中央銀行が発行していました。終戦後、満州中央銀行がソ連軍に接収された後も、ソ連軍発行の軍用手票(軍票)や中国の国民政府が出していた法幣という銀行券よりも信用が高く、しばらくは流通していました。
「もう、怖かったですよ。拳銃を持っているしね。母はね、これで私たちの命も終わりだって思ったみたいです。でも、私達にはそれ以上乱暴な事はしませんでした。」
八路軍は、その後も2回、お金を要求しにきたそうです。
「それで、3回目に来た時、『ここは私たちが事務所として使うから出ていきなさい』というんですね。それで、日本人の警察官が住んでいたところが空いているから、そこに移るように言われたんです。でも、警察官の住宅は、これまで虐げられていた満州人や朝鮮人が襲撃して、めちゃくちゃに荒らされたりしていたんですね。夜になると、遠くから『わ~』という群衆の声がしてくるんです。あちこちで暴動が起きていましたから、その声が不気味で怖かったですね。」
これまでの日本人の支配に対する満州人や朝鮮人の不満が爆発し、日本人に対する略奪や暴行も多く発生しました。それで、警察官の住宅に移るとなると、自分たちも被害を受ける危険性があるということで、他の家に移ることになりました。
目途が立たない引き揚げ
「同じ鹿児島出身の方で、ご主人が召集されて不在で、生まれたばかりの赤ちゃんと2人で暮らしている女性の方がいたんです。その方から、心細いから一緒に住んでもらえませんか?と頼まれ、そこに住むことになったんです。」
その2部屋しかないアパートに、合わせて10人ぐらいが身を寄せ、しばらく暮らしていました。
お父さんは仕事を失い、収入も途絶えましたが、家族を養わないといけません。日本に帰れるという目途はなく、中国の地でしばらく生活せざるを得ない状況が続きました。そこで、治安も少し良くなってきたこともあり、学校の運動場に出来た市場で野菜を売ることにしたそうです。
「その頃はもう昭和21年になっていたかな。それでわずかばかりの収入を得ていました。また、金融組合で働いていた頃の貯えがまだあったんだと思います。そのお金を取られないように両親が話し合って、裁縫箱の裏側に紙幣を張り付けていたような記憶があります。そうしたお金でなんとか暮らしていたと思います。」
その後、日本人が集められ、収容所みたいな建物に入りました。いよいよ帰国できるかと期待もありましたが、まだ、引き揚げには時間がかかりました。
満州に取り残された日本人の送還に対しソ連軍が無関心であったため、引き揚げは大幅に遅れ、集団引き揚げが開始したのは1946年の5月でした。
「それにですね。お金持ちや、戦前良い職場についていた者は、日本に帰さないとか帰る順番を後にするとかいう状態だったそうです。私の父は戦前金融組合の理事をしていた立場から、順番が後になっていたのだと思います。」
私たちはいつ帰れるんだろう。もしかしたら帰れないんじゃないかとか不安を抱えての日々が続きました。」
早く帰国するために・・
昭和22年の1月になっていました。
昌子さんは14歳になっていましたが、ソ連の漁網工場に働きに行くことになったそうです。
その頃の思い出を、昌子さんは、今から40年ほど前、ノートに記していました。
「父も元々体が弱かった事もあり、野菜屋も辞めていました。家族7人何の仕事もしないで暮らしているという事は、まだ余裕があるという事なので日本に帰すのは後回しと言われたらしいです。それで、子どもが働きに出て、生活が大変なんだという事を見せた方がいいとなったんでしょうね。私がソ連の漁網工場に働きに行くことになったんです。」
そこで昌子さんは、お母さんが作ってくれたコウリャン団子を弁当にして、電車に乗って漁網工場に通いました。漁網工場は、広い大きな倉庫にむしろを敷き詰めて何百人もの日本人が膝を寄せ合わせ、糸をまく人、網を編む人、出来上がったものを検査する人、若い人からおばさんたちまでびっしりいたそうです。
そうして、日本に帰国できていない日本人が、ソ連の工場で働いていた事実があったことを今回初めて知りました。
「その頃は学校も閉鎖されていたんですが、工場では小学校の同級生だった人が私よりも前から働いていました。まだ中学生の頃の14歳の女の子が、それぞれいろんな苦労をしながら引き揚げを待っていたんですね。母は、晩年になっても私を漁網工場に仕事に行かせたことをかわいそうだったと後悔していたようでしたが、私自身はあまり苦にも思っていませんでした。」
一方で父親も帰国できるよう動いていました。
一緒の建物に住んでいた男性があるニュースを持ってきたのです。
「そのニュースというのはですね、ソ連のホーロー製の食器を作っている工場が、近いうちに材料がなくなり閉鎖されるので、そこで働いている日本人を一つの団体として一括して日本に帰すというものです。それで、父親に、今のうちにその工場に入って働いたら、食器団体として日本に帰れるかもしれないという事なんです。」
帰国の目途が立たず困っていた父親は、わずかな可能性を信じて、その食器工場にボイラー焚きとして働くことになりました。
そこからはあまり時間はかかりませんでした。1週間~10日ほど働いた後、その工場で働いていた人たちは「食器団体」として、日本に帰国する許可が下りたのです。
敗戦から1年半後の引き揚げ
昭和22年2月のことです。
「帰国できるとなると、母親は布団袋で大きなリュックを作り、白い布に「食器団体」と貼り付けました。私たちもそれぞれ似合いのリュックを用意して、着替え、学用品などを入れました。そして、朝早く、食器団体に入ることを教えてくれた男性家族と一緒に日本人ビルをそっと出ました。何しろ他の住民たちは、私たちはまだ帰国させてもらえない状態と思っているから、気づかれないように「食器団体の集合場所」まで行きました。そこにはソ連のトラックが迎えに来てくれていました。」
昌子さんの家族は、そのトラックで、大連の埠頭近くの収容所に行きました。そこで何泊かしましたが、今度は、次の難関が待っていました。
「船に乗るまでに荷物の検査があったのですが、写真機や時計を持っている人がいたらその団体の荷物は没収されるというのです。そこで食器団体の人たちと話し合って、時計や万年筆などソ連兵の喜ぶ品を用意して、わいろとして検査官に渡すようにしたんです。それが功を奏して、食器団体は荷物検査もなく、『ダバイ』と言って無事検査官の前を通過することができました。
※ダバイとはロシア語で、別れ際などに「じゃあね」といった意味で使われたりする。
そして、大連港の埠頭に立ち、日本の船の接岸を待ちました。
「その待つ間の長いこと。凍てついた風は冷たく、手も足もかじかみ、じっとしておれず、ずっと足を動かしていました。その私に母が『船に乗りさえすればもう安心、ソ連兵も中国人も来やしないから』と言って私を励ましてくれました。」
そして、いよいよ船に乗り込みます。待ちに待った日本への帰国。終戦後の苦しい異国での生活は1年半に及びました。日本へ帰りたい、帰ったら何とかなる、その一心でこの時を待ち続けていたそうです。
そして、昌子さんの家族は、昭和22年2月25日、長崎県の佐世保港に着きました。
これは、上陸の際に佐世保引き揚げ援護局が出した引き揚げ証明書です。
裏面には同伴家族として、妻と5人の兄弟の名前が記されています。
この引き揚げ証明書も昌子さんのお兄さんがきちんと保存されていたものです。
貴重なものを見せていただいたと思いました。
そして、家族は故郷である鹿児島へ帰るのです。
「父と母にとってはおよそ20年ぶり、兄、私、弟、妹2人の5人の兄弟にとっては初めての日本でした。中国大陸に比べて緑が多いなあというのが最初の印象でした。」
「夢と希望を持ち、満州の地で父と母は一生懸命頑張ってきたと思います。その満州を離れる時、父母はどんな思いだったのかなあと思います。」
苦難の引き揚げからの出発
終戦当時、推定155万人いたとされる満州の日本人のうち、引き揚げたのは127万人。軍人と民間人合わせて24万5千人もの命が満州で失われました。
多くの命が失われたのは、引き揚げの途中で、現地住民やソ連軍兵士の襲撃を受けて虐殺されたり、集団時自決をせざるを得なかった人たちが多くいたという事。また、食料不足や寒さの中での避難は困難を極め、幼い子供らが栄養不足や病気などで途中で亡くなる事も多かったことなどが挙げられます。
また、親と死別したり生き別れたりした多くの子供たちが中国人の父母に引き取られ、中国に残された中国残留孤児も多くいました。
さらに、戦後ソ連軍の捕虜となり、シベリアなどに連行された日本の兵士の数はおよそ60万人。そして、厳しい環境下で長い間過酷な労働を強いられ、栄養失調や伝染病などで約6万人が亡くなりました。
満州からの引き揚げがいかに過酷で、さまざまな悲劇をもたらしていたのか、犠牲になった人たちの数の多さからもその当時満州で暮らしていた人たちの極めて困難な状況を想像できました。
こうした状況の中、様々なご苦労はされたものの、家族全員無事に日本に帰国できたという事は、本当に
奇跡のような事だったのかもしれないと思います。
その後、昌子さんは昭和35年に結婚され、2人の子どもにも恵まれ、ご高齢になられた今もご夫婦で穏やかにお暮しです。
現在90歳を超えてらっしゃるとは思えない若々しさで、日々を大事に暮らしてらっしゃるお姿に、私もまだまだ頑張らないといけないなあと力を頂いたような気がしました。
「振り返るといろいろなことがありましたけど、今こうして夫と2人で元気に暮らせて幸せだと思います。今の人たちは何でも好きなことができる自由さがあり、うらやましい気もしますが、自由さに甘えず、自分というものをしっかり持って生きてほしいですね。」
今回、永田昌子さんの戦争体験を伺い、戦争当時、日本本土、満州・・住む場所や環境は違っていても、あの時代に生きたすべての人々が、戦争に巻き込まれ、苦難の経験をされていることを改めて感じました。
お一人お一人の証言が積み重なることにより、私たち自身も今まで知らなかった事実を重ねることができ、学びを深めることができます。それをまた、次の世代に伝えていく事が私たちの役目だと思っています。





















