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「歴史」

戦争の記憶を今に伝える福岡県筑前町とその周辺の戦跡を訪ねる


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福岡県筑前町。戦前、この地は「東洋一」と言われた大刀洗飛行場があり、陸軍飛行学校などもありました。筑前町にある大刀洗平和記念館を訪ねたことは前回お伝えしましたが、今回は、平和記念館の周辺に残る戦跡をご紹介します。また、ここは、大規模な空襲で壊滅的な被害を受け、幼い子供など多くの人々の命が失われた場所でもあります。その空襲の悲劇についてもお伝えします。

「東洋一」と言われた大刀洗飛行場のあった福岡県筑前町

福岡県筑前町は、福岡県の中南部に位置し、人口はおよそ3万人。
戦前、ここは大陸への中継地で、「東洋一」と言われた大刀洗飛行場がありました。

大刀洗飛行場大刀洗飛行場

そして、陸軍飛行学校や航空機製作所など次々と関連施設も開設され、軍都として栄えていました。
この大刀洗飛行場の跡地に、平成21年(2009年)に建てられたのが筑前町立大刀洗平和記念館です。

筑前町立大刀洗平和記念館筑前町立大刀洗平和記念館

この記念館については、前回ご紹介しました。

戦争の記憶を今に伝える福岡県筑前町の大刀洗平和記念館を訪ねて
戦争の記憶を今に伝える福岡県筑前町の大刀洗平和記念館を訪ねて福岡県筑前町。かつてこの地は「東洋一」と言われた大刀洗飛行場があり、陸軍飛行学校などもありました。鹿児島県の知覧は18あった分校のひとつ...

そして、この大刀洗平和記念館の周辺には、多くの戦跡が残っており、このような「大刀洗飛行場戦跡マップ」も作られています。

戦跡マップ戦跡マップ

このマップを見ながら、いくつかの戦跡を訪ねてみることにしました。

大刀洗飛行場の戦跡

※戦跡の説明は、戦跡マップに書かれていることを引用したり、参考にしたりして書いています。

第5航空教育隊正門

第5航空教育隊正門
第5航空教育隊正門

昭和14年(1939年)に開隊した航空技術兵を育成する「第5航空教育隊」の正門です。この部隊では、飛行機機体・精密機械・通信機材・無線・銃砲火器など、航空機にかかわるすべてを教え、最大時には6000人の航空技術兵が在籍していたそうです。
飛行兵(パイロット)を支える航空関連の技術者を育てていた場所という事です。最大で6000人もの隊員がいたという事は、当時、航空機の製作や整備に大変な力を入れていたということがわかります。
(この門は元々あった場所から、平成22年(2010年)に記念館前に移設されています。)

飛行第四連隊(飛行学校)営門

飛行第四連隊(飛行学校)営門
元々大正8年(1919年)に大刀洗飛行場で開隊した「飛行第四連隊」の営門として使われていましたが、その後、第四連隊は熊本県菊池市に移動。その跡に大刀洗陸軍飛行学校・本校が昭和15年(1940年)に開校し、その正門として使われました。

昔の営門の様子昔の営門の様子

大刀洗陸軍飛行学校は、パイロットを養成する学校でした。
パイロットは当時の少年たちのあこがれの的で、入校するのは非常に難しかったそうです。
入校できた少年たちはきっと意気揚々とこの門をくぐっただろうと思います。
そして、ここで学んだ飛行兵たちは、実戦部隊に配属されました。
戦争末期に特攻作戦が始まると、多くの飛行兵は特攻隊員となり、知覧の特攻基地などから出撃していったのです。

時計台跡

時計台跡
飛行学校正門跡の近くに時計台跡もあります。
この慰霊碑は、元々飛行学校の本部庁舎前庭に時計塔として設置されていたもので、戦後、慰霊碑に改修されました。当時は、隊員たちがこの前で記念撮影するなど親しまれていたそうです。

飛行学校内の時計塔飛行学校内の時計塔

現在、これらの戦跡の周りには、住宅や商業施設が立ち並んだり、田畑が広がっていたりして、その風景から当時、広大な面積を持つ飛行場や学校があったという事を想像するのは難しいです。
その中で、確かに飛行場があったという事がわかる戦跡も残っていました。

監的壕(かんてきごう)

監的壕(かんてきごう)
大刀洗飛行場に設置されていたコンクリート製の建造物で、軍用機による射撃訓練の様子を観測員が確認していたものだそうです。戦後に現在の場所に移設されました。
具体的には、別の飛行機が射撃用の「吹き流し」を引いて航行しており、その吹き流しに向かって、戦闘機や練習機に乗った隊員が実弾を使って射撃訓練します。その弾が吹き流しに着弾しているかどうか、観測員がこの監的壕に入って双眼鏡で確認していたそうです。
おそらく射撃の正確性などを確認していたんだと思いますが、別の飛行機の機体自体に着弾する可能性もありそうで、当時はかなり危険な訓練をしていたんだなと感じました。

掩体壕(えんたいごう)

掩体壕(えんたいごう)

敵の攻撃から飛行機を守るための格納庫。当時、大刀洗飛行場周辺などにはいくつも造られていたそうですが、現存しているのはこの掩体壕のみとなっています。コンクリート製で高さ7m30cm、幅が36mもあります。年々劣化が進んでいたため、筑前町では、貴重な戦争遺跡として後世に残したいと、2023年、クラウドファンディングを通して補修工事や施設整備にかかる資金への寄付を呼びかけました。そして、目標金額の500万円を超える総額700万円近くの寄付が集まり、2024年現在、保存工事が行われています。掩体壕の一般公開は来年の2025年になる予定だそうです。

2024年現在、保存工事が行われています。掩体壕の一般公開は来年の2025年になる予定だそうです。

このように、筑前町では大刀洗飛行場の周辺に残る戦争遺跡の保存・保全活動に取り組む他、この地で起きた歴史の真実を語り継いでいくために情報発信を続けています。
その真実の一つが、米軍による大規模な空襲で壊滅的な被害を受け、多くの人々の命が失われた場所であるということです。

大刀洗大空襲

空襲を受ける大刀洗飛行場空襲を受ける大刀洗飛行場

昭和20年(1945年)3月27日午前10時40分、米軍のB-29爆撃機74機が襲来。1,000発近い爆弾を投下しました。さらに4日後の31日にも空襲があり、飛行場は壊滅的な被害を受け、主要な建物は破壊し尽されてしまいました。米軍にとっては、ここには戦闘機が離発着する飛行場があり、戦闘機も多く待機しており、また、航空機を作る工場など重要な施設も集積していることから、大きなダメージを与えるため集中的に空襲を行ったと思われます。

大空襲で被害を受ける飛行場大空襲で被害を受ける飛行場

 

大刀洗飛行場上空 爆弾を落とす米軍機(昭和20年3月27日)大刀洗飛行場上空 爆弾を落とす米軍機(昭和20年3月27日)

結局、大刀洗飛行場にはB-29による計7回の空襲があり、巨大な飛行場は大正8年(1919)の誕生以来、わずか26年でその姿を消してしまうのです。
この空襲で亡くなった方の数は、飛行場で働いていた人や幼い子供たちなど、民間の人たちを含め600人から1,000人を超えるのではないかと言われています。
その空襲で、こんな悲劇もありました。

頓田の森の悲劇

昭和20年3月27日の大空襲の日、立石国民学校では終業式が行われていましたが、その最中に空襲警報が鳴り響いたため、子供たちは急いで地域別に集団下校をはじめました。そして、大刀洗飛行場に爆弾が落ち始めたので、一ツ木地域の子供たちは先生の指示で近くの「頓田の森」に逃げこみます。ここは木で覆われているから子供たちを隠せるとの判断だったのではということです。そして、子供たちが、木の周りで耳をふさぎ伏せの姿勢をとった直後、最悪なことが起きます。なんと、B-29が投下した爆弾が頓田の森を直撃したのです。この爆撃で小学生24人が一瞬にして亡くなり、後に担ぎ込まれた病院で7人が息を引き取りました。

頓田の森頓田の森

その頓田の森にも行きました。
現在は、「頓田の森 平和花園」として整備され、ここで起きたことを紹介する看板なども建てられています。

現在は、「頓田の森 平和花園」として整備され、ここで起きたことを紹介する看板なども建てられています。
現在は、「頓田の森 平和花園」として整備され、ここで起きたことを紹介する看板なども建てられています。

ここに爆弾が落ち、先生の言われたとおりに伏せの姿勢で隠れていた子供たちが一瞬で命を落とした場所だという事を考えると、胸が痛みました。
看板には「私達は、この事実を風化させることなく、戦争を知らない次の世代の子供達に残さなければならないと思います。」と書かれていました。

この他にも空襲の被害を物語る戦跡もあります。

菊池橋(バクダン橋)

菊池橋(バクダン橋)

大刀洗川にかかる小さな橋ですが、大刀洗大空襲ではここに何発もの爆弾が落ち、近くにあった利材工場で働いていた工員や女子挺身隊などの若い女性たちが犠牲になったそうです。

大刀洗川にかかる小さな橋ですが、大刀洗大空襲ではここに何発もの爆弾が落ち、近くにあった利材工場で働いていた工員や女子挺身隊などの若い女性たちが犠牲になったそうです。

何も知らなければ通り過ぎる風景の中にも、様々な戦争の悲劇があり、このような場所で少し足を止めて、なにがここで起きたのかを感じ取ることも大事だと思いました。

大刀洗平和記念館の中にある追憶の部屋

大刀洗大空襲では、多くの方が命を失いましたが、犠牲者の正確な数はわかっていないそうです。
記念館では、犠牲になった民間の方々や大刀洗飛行場に関わりを持った兵士たちの情報を集め、記録に残す活動を現在も続けています。
その中で、「追憶の部屋」ではこれまでに分かった犠牲者の方々の写真や名前の記録を公開し、遺影が並んでいます。
頓田の森で亡くなった子供たちの写真もあります。
また、大刀洗飛行場の上空でB-29に体当たりして命を落とした日本の隊員の名前と共に、撃墜されたB-29に乗っていた米軍の搭乗員11人の遺影もあります。

大刀洗上空で体当たり攻撃を受け、墜落して炎上するB-29大刀洗上空で体当たり攻撃を受け、墜落して炎上するB-29

兵士だけでなく、犠牲になった人がすべて等しく並んで掲示されていることに深い感銘を受けました。
戦争がなければ、敵を攻撃しなくても良かっただろうに、温かい家族に囲まれて幸せに暮らせていただろうにと、敵も味方も戦争の被害者であり、命の重さは同じだという事を改めて感じました。

戦争の記憶の残る福岡県筑前町を訪ねて

かつて「東洋一」と言われた広大な飛行場があった筑前町。
この地で教育を受けた飛行兵たちが特攻隊員になって出撃していったという場所でもあります。
そして、大規模な空襲で多くの人たちが犠牲になりました。
戦争の様々な悲劇がこの地であったという事を、訪ねてみて初めて知りました。
また、筑前町では、語り継いでいく・残していくということに力を入れているという事も知りました。

大規模な空襲で多くの人たちが犠牲になりました。

筑前町からの帰り、夕日がとてもきれいで、その夕日を見ながら、今日見てきたこと、知ったことを振り返り、現地に行って具体的に見ること、学ぶことの大切さをしみじみと感じました。
そして、私たち「てのん」も続けている「戦争を語り継ぐ」という活動を、やはりこれからも地道にやり続けたいという思いを強く持ちました。

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