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「歴史」

戦時中に発行されていた「少国民新聞」は子供たちに何を伝えていたのでしょうか?


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たまたま古本フェアーで見つけた「少国民新聞」。戦時中に子供たちが読んでいた子供向けの新聞です。
掲載された文章や絵、マンガなどはどれも戦争に関するもので、幼い子供たちに軍国主義を浸透させていった当時の状況を「少国民新聞」を通して知ることができました。

本屋に行ったらたまたま古本フェアーをしていて、古い新聞や雑誌などが無造作に山積みされている中から偶然この「少国民新聞」を見つけました。発行された日を見ると昭和16年~17年のもので、日本は軍の力が強くなり戦争を進めていたころです。
当時このような子供向けの新聞が発行されていたことは知らなかったのですが、少し立ち読みすると、記事の内容がどれも戦争に関するもので、子供たちに戦争をすることの正当性を伝え、軍国少年や軍国少女に導く内容となっており、驚きました。
当時の子供たちに戦争がどのように伝えられていたのかがわかる貴重な資料だと思い、3日分購入しました。1部千円でした。
80年以上も前の子供たちが実際読んでいた古新聞を手に入れることができました。

80年以上も前の子供たちが実際読んでいた古新聞を手に入れることができました。

私が手に入れたのは、

  1. 昭和16年(1941年)1月1日の新聞
  2. 昭和17年2月15日の新聞
  3. 昭和17年10月18日の新聞 です。

少し破れたり、茶色く変色したりしていますが、内容はきちんと読めます。

少国民新聞とは?

この「少国民新聞」について調べてみました。
少国民新聞とは、現在の「毎日小学生新聞」にあたります。
当時の日本は軍国主義が強まっていました。軍国主義とは軍事力を強めるのが1番大事で、政治や経済、教育文化など国民生活のすべてを軍の都合の良いようにすることです。
昭和12年(1937年)日中戦争がはじまります。日本と中国の戦争で、日本は広い大陸に目を向け、自分たちの領土をもっと増やそうと思いました。
そして、昭和14年(1939年)第二次世界大戦が起こります。日本の軍部は、ドイツやイタリアと手を組んで、その当時イギリスやアメリカなどの植民地となっていた東南アジアを日本の支配下に置こうとしました。
そんな中、子供たちは「少国民」と呼ばれるようになりました。少国民とは、天皇陛下に仕える小さな皇国民(こうこくみん)という意味で、少国民と呼ばれていたのです。
そういう背景から、それまで「大毎小学生新聞」だったのが昭和16年1月から「少国民新聞」と名前を変えることになったそうです。

著作権の保護期間は原則的に著作権者の死後70年という事です。
少国民新聞は、マンガや童話など著作名が書いてありましたので、著作者の生没年を調べ、保護期間を過ぎたと確認できたものは写真でご紹介したいと思います。

昭和16年1月1日の少国民新聞

昭和16年1月1日の少国民新聞を少し詳しく見てみることにします。

昭和16年1月1日の少国民新聞を少し詳しく見てみることにします。

新春マンガは「八紘一宇」と書かれた凧を持った男の子が描かれていて、その横には戦闘機に乗った飛行兵が「バンザイ バンザイ イマニ セカイノトナリグミガ デキルヨ」と言っています。

新春マンガは「八紘一宇」と書かれた凧を持った男の子が描かれていて、その横には戦闘機に乗った飛行兵が「バンザイ バンザイ イマニ セカイノトナリグミガ デキルヨ」と言っています。

「八紘一宇」(はっこういちう)とは、全世界を天皇のもとに一つの家にするという意味で、太平洋戦争期に、日本が海外進出することを正当化するために用いられたスローガンです。
また、「トナリグミ」とは「隣組」と書き、戦争中、国民を統制するために作られた地域組織の事です。10家庭前後がひとつの隣組を作り、食料の配給や防空演習などを共同で行いました。一方で、組員同士を監視し、思想の統制を行う役目もありました。

紙面中央には、世界地図が描かれ、日本の子どもと外国の子供が笑顔で手をつなぎ「ヒガシノ トナリグミ」「ニシノ トナリグミ」と書かれています。

紙面中央には、世界地図が描かれ、日本の子どもと外国の子供が笑顔で手をつなぎ「ヒガシノ トナリグミ」「ニシノ トナリグミ」と書かれています。

当時、軍が進めていた戦争の正当化を、子供たちにも伝えていたことがわかります。

羽子板をする女の子たちは「アタシ フリソデヲ モンペニ シチャッタワ」「アタシモヨ」と言っています。
また、ウサギたちの絵には「ヘイタイサンヘ ヰモンブクロヲ オクリマセウ」(ヘイタイサンヘ イモンブクロヲ オクリマショウ)という言葉が添えられています。

ウサギたちの絵には「ヘイタイサンヘ ヰモンブクロヲ オクリマセウ」(ヘイタイサンヘ イモンブクロヲ オクリマショウ)という言葉が添えられています。

慰問袋(いもんぶくろ)とは、戦地で戦う出征兵士などを慰め、また、勇気づけるために、日用品や食料品、手紙などを入れて戦地に送られた袋の事です。

子供向けのかわいらしい絵のマンガ全体が戦争に関するもので、戦時中の子供達の心得も伝えているようです。

また、「漁村曙」という童話も掲載されていました。

また、「漁村曙」という童話も掲載されていました。※挿絵は著作権の保護期間を過ぎているのか確認できなかったので、加工しています。

この童話のあらすじです。「漁村の貧しい少年がなんとかして慰問袋を兵隊さんに送りたいと思いました。しかし、なんの蓄えもないので自分の一番大事なもの、削りかけのえんぴつや半分すり減った消しゴム、キャラメル10個、お小遣いをためておいた12銭などに手紙を添えて慰問袋を作りました。この慰問袋は中国に派遣されていた品川部隊長のところに届きました。品川部隊長は、兵隊たちを喜ばせようと小さい頭をひねっている贈り主を思い浮かべ、思わず声をあげて泣きました。そして、1年後立派な軍人さんが少年の通う学校を訪れます。無事帰還した品川部隊長が直接少年にお礼を言いたいと訪れたのです。そして、部隊長はクレヨンやえんぴつ、絵本などたくさんお土産を渡し、『人間に一番尊いのは真心です。君の贈り物は、お金持ちが百萬圓(ひゃくまんえん)かけてつくった慰問袋より尊くいただきました。いつまでもその心持を忘れないで、よく勉強して、陛下の立派な軍人になってください。』といって、少年の手をしっかりと握って、何度も強く強く振りました。」という内容です。

こういう話を読んだ当時の子供たちは、素直に「自分たちも慰問袋を兵隊さんに送ろう。」「自分も立派な軍人さんになりたい。」と思っただろうなあと思いました。

この他、この昭和16年1月1日の少国民新聞には、富士山を背景に昭和天皇が白い馬に乗った姿を描いた絵がカラーで大きく掲載されていました。

そして昭和16年12月8日、太平洋戦争がはじまります。
太平洋戦争がはじまったころは、日本軍も勢いがありました。昭和16年12月10日、日本軍はマレー沖海戦でイギリス艦隊を破ります。そして、日本軍は香港を占領するなど、ラジオや新聞は大本営の発表として、連日、日本軍の華々しい活躍・勝利を伝えていました。

昭和17年2月15日の少国民新聞

昭和17年2月15日の少国民新聞には、マレー沖の海戦で日本軍が撃沈し、海に沈みゆくイギリス軍の戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」の絵が、カラーで大きく掲載されています。

この他、童話では、自分の大事にしていた自転車を売って国防献金にしたいという少年の話が載っていました。
国防献金とは、兵器の生産や軍人への援護のために国民から軍部に献上されたお金のことです。
そして、この日の少国民新聞にも兵庫県のある地域の児童たちが、日曜作業でもらった一円四十銭を国防献金として校長先生を通して毎日新聞に寄託したという小さい記事が載っていました。
※寄託・・物品などを他人に預け、その処理や保管を頼むこと。

このような童話や記事を読むと、子供達も「自分たちも国防献金をしたい。」「お国の役に立ちたい。」という気持ちを持っただろうなあと思います。

ではその頃、日本軍はどのような状況にあったのでしょうか?

劣勢に立たされていた日本軍

太平洋戦争が始まったころは勢いのあった日本軍ですが、その後は、各地の戦いで負け、劣勢に立たされていました。
昭和17年3月、ジャワ島のオランダ軍を降伏させる頃までは日本軍は華々しく勝利をおさめていました。日本は、開戦からわずか半年足らずのうちに、東は太平洋のギルバート諸島からフィリピン・インドシナ・インドネシアを経てビルマにいたる広大な地域を支配下に置きました。
しかし、昭和17年6月5日のミッドウェー海戦で日本軍が大敗し、戦局が一変します。この戦い以降の戦争の主導権はアメリカが握ることになるのです。

しかし、当時はその情報は正しく伝えられていませんでした。
それは、昭和16年1月11日に公布された新聞紙等掲載制限令、昭和16年3月7日に公布された国防保安法などがあったからです。
これらの法律の下、軍による厳しい紙面の検閲が行われ、言論統制が行われていました。そして、新聞等は軍の発表をそのまま伝えなければならず、言論の自由は奪われていたのです。
そういう中で、これらの少国民新聞も作られていました。

昭和17年10月18日の少国民新聞

日本軍が劣勢に立たされていた頃の少国民新聞はどのようなことを伝えていたのでしょうか?
読み物では、南洋諸島の人々も日本人が「八紘一宇」の大理想で温かい手を差しのべれば、きっと立派な民族になるので、南洋の住民の生活を研究して良いところはのばし、悪い所は直してやるのがみなさんのつとめです。というようなことが書かれていました。

また、マンガのページでは、イギリス軍が落としていった英国旗を南洋のお母さんたちが赤ちゃんの良いおしめだと大喜びしているという絵が載っていました。

劣勢の事実は一切伝えず、戦争を続けることの正当性を伝え続けていることがわかります。

劣勢の事実は一切伝えず、戦争を続けることの正当性を伝え続けていることがわかります。

戦時中、子どもたちはこのような話やマンガを読んでいたんだという事を、実際の少国民新聞を読んで知ることができました。
当時、学校では軍国主義の教育が行われていました。また、こういう新聞を読んでいると、子供たちの心は素直ですから、子供達にも軍国主義が浸透し、軍人にあこがれを持ったり、お国のために尽くしたいと思う軍国少年や軍国少女になっただろうなあと思います。

戦後日本国憲法が施行され、言論の自由が保障されました。
少国民新聞も、1947年4月からは毎日小学生新聞に名前が変わったそうです。

事実を正しく伝えられなかった、その事で子供たちを軍国主義に誘導していった、そういう戦時中の状況を、今回具体的に知ることができました。
このことも、戦争を知る一つのエピソードとして語り継いでいきたいと思いました。

《参照》

 

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