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「歴史」

「戦争を知る」勤労奉仕の日々と戦中戦後の食糧難・・さつまいもとかぼちゃにまつわる話


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母の戦争体験をじっくり聞いてまとめた『私が子供だった頃~戦争の記憶~』の中から、これまでも戦時中の暮らしや教育についてお伝えしてきましたが、今回は、国民学校4年生(現小学4年)から田植え・開墾などの勤労奉仕をさせられていた日々、食糧難の中、食糧増産のために植えられたさつまいもとかぼちゃにまつわる話です。

食糧難の中、食糧増産のために植えられたさつまいもとかぼちゃにまつわる話です。

これからお伝えするのは、現在の鹿児島県薩摩川内市で戦中戦後を過ごした母の体験です。
母の住んでいたところは広い畑や田んぼが広がる農村地域でした。

国民学校4年生から勤労奉仕に・・

昭和16年12月太平洋戦争が始まりますが、日本が少しずつ戦時体制へと変わっていく中で、その年の4月には尋常高等小学校という名称が国民学校に改められました。「必勝の信念」や「堅忍持久(辛さや苦しさに耐え我慢強く持ちこたえること)」の精神をたたき込み、お国のために命をおしまない国民になるよう教育も戦時体制になっていくのです。
実際、どんな教育が行われていたのかについては以前お伝えしました。

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そして、軍国主義の教育が行われるのと合わせて10歳の子供たちにも勤労奉仕を強いるようになるのです。

出征兵士の家の手伝い

出征兵士の家には、一目でそれがわかるようにと、先端に日の丸を掲げた孟宗竹(もうそうちく)が立てられました。集落のあちこちの家に、孟宗竹が立てられていました。
「出征兵士の家」は、若い働き手がいなくなって困っているだろうと、国民学校四年生(昭和17年)になると、私たちも勤労奉仕として、学校から手伝いに行かされました。勤労奉仕の日は、授業はありません。田植え・麦踏み・稲刈りなどの手伝いをしました。

中でも大変だったのは、田植えです。田んぼには蛭(ヒル)がたくさんいて、よくヒルにかまれました。足にたくさんはりつき、血をたくさん吸って体が太ったヒルが、その重みでコロッと落ちるほどでした。かまれたところから血が出て、泣いてる子もいました。ヒルにかまれた後は、かゆくて,腫れて、傷もできました。つらい作業でしたが、弱音を吐くわけにも行きません。みんな、黙って手伝いました。

ある日、作業が終わった後、家の方が、手伝いのお礼にと、小さなじゃがいもを丸のまま茹でて持ってきて下さった事がありました。おやつが出て、とても嬉しかったです。クラスのみんなで、あぜ道に並んで座って食べたのを覚えています。

勤労奉仕の日々

国民学校五年になると(昭和十八年)、授業よりも勤労奉仕が多くなりました。
秋には、さつまいもの茎をきれいに束ねる作業もしました。一班五人ほどの班を作り、その班で、農家の畑に行きます。そして、芋の茎から葉を取って、きれいに茎だけにして、長さをそろえて、五十本程で一束にします。その束を班で十束作ったら、学校に帰っていいことになっていました。早く束ができるように、ひたすら作業をしました。その芋の茎は、軍馬の飼料になるようなことを先生がおっしゃっていました。

初霜が降りた日も、その作業に行かされました。はだしで畑に入って作業をするのです。手も足も冷たくて仕方ありません。手がかじかんで、思うように手が動かず、班のみんなで、「かあちゃん、かあちゃん」と、しくしく泣きながら作業をしました。しかし、先生から「茎が霜にやられると黒くなって使い物にならない。作業は今日が最後になると思うから頑張りなさい」と励まされ、辛抱しながら頑張りました。

藁(わら)で縄(なわ)をなって、軍隊に供出する作業もしました。机と椅子を全部教室の後ろにやって、教室の床に座って、縄をないます。材料のわらは、各自、家から持ってきます。縄をないやすいように、家で、藁をたたいて、柔らかくしてから持って行きました。農家の家も多いでしたから、四年~五年になると、ほとんどの子が、上手に縄をなえました。出来た縄は、五十センチ程の間隔をあけた二本の杭に、ぐるぐる五十回ほど巻きます。そして、ほどけにないように四か所をひもでとめて、くるくるねじって束にしました。一校で供出する束の数も決まっていて、子供たちにも、作業を強いたのです。その縄は、軍隊が戦地で使うものだと教えられました。

年に一回、薩摩郡内の国民学校が集まって、縄ない競争大会も開かれました。私が参加したのは、五年生のときでした。大勢の子供たちが、一人一人校庭にむしろを敷いて、だれが一番早く、長く、きれいになえるか、競争するのです。私も「負けるもんか!」と必死で頑張りました。結果は一位となり、とても誇らしい気持ちでした。

このように、10歳になったばかりの子供たちにも、勤労奉仕を義務付け、労働力として使われました。小さい子供にとってつらい作業も多いでしたが、「すべてはお国のためだ!」「戦地の兵隊さんは、もっと大変な思いをしているんだ」という思いで、日本の勝利を信じて耐えました。

戦時中の食糧難・・

当時私の家でも畑ではさつまいも・かぼちゃ・じゃがいもなどを作り、田んぼでは米や麦も作っていましたが、軍への米や麦の食糧供出があり、供出した後は満足に残っていませんでした。

戦時中は、毎日、野菜を刻んだ雑炊が主食になり、最後はお椀に米が十粒ほどしか入っていない野菜くずだけの雑炊になりました。
さつまいもやかぼちゃは、実だけでなく、茎や葉っぱも食べました。

このような戦時中の食糧事情については以前詳しくお伝えしました。

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高等女学校に入っても勤労奉仕の日々
~食糧増産のために~

戦時中の大変な時期でしたが、もともと勉強が好きだったので、国民学校初等科6年の時、高等女学校を受験しました。勤労奉仕などでほとんど授業らしい授業を受けていませんでしたが、父や兄から勉強を教わり、無事合格することができました。
そして、昭和20年4月、高等女学校に入学しました。
しかし、高等女学校に入ってからも授業はほとんどなく、勤労奉仕の日々でした。

セーラー服の上着にもんぺ姿で登校しました。
その当時、国内では、若い男性が兵隊にとられたため、労働力が不足していました。そのため、学徒勤労令や女子挺身勤労令が公布され、旧制中学校や高等女学校の生徒たちも、兵器工場や、軍服を作る工場などで働くことが決められました。私たちの一年先輩の人たちは、加世田の軍需工場に挺身隊として派遣されました。白いはちまきをして出発していった先輩たちは、とてもりりしくみえました。

そして私たちは、入学してすぐ、学校から五~六キロ離れた皿山という所に、食料増産のための開墾に行かされました。開墾した場所は、茅立て野(かやたての)といって茅葺(かやぶき)の屋根に使う茅を育てている所です。その頃は、多くの家が茅葺でした。茅葺は数年ごとに新しく葺き替えないといけなかったので、集落ごとに茅立て野があり、そこで茅を育てていたのです。その茅立て野をさつまいも畑にする作業が私たちの仕事でした。茅立て野の土を掘り起こし、さつまいもの苗を植える畝を作っていきます。その作業が毎日続いたので、学校へは登校せず、直接皿山に集合でした。私たちは皿山学校と言っていました。

茅立て野は広かったので、開墾作業は大変でした。すぐにもんぺのひざがやぶけてしまいます。はじめのうちは、裏から別布をあてて目立たないように伏せをしていましたが、頻繁にやぶけるので、後からはひざの上から四角い布を縫いつけるまっがいふせをしました。以前は、まっがいふせをしている服を着るなんて恥ずかしい事と思っていましたが、その時はそれが当たり前でした。みんなまっがいふせをしたもんぺをはいていました。

毎日、朝から夕方まで勤労奉仕でした。家に帰ると疲れてへとへとでしたが、家では風呂を沸かしたり夕食の準備をしたり手伝いもあり、まだ12歳~13歳なのに本当に朝から晩まで弱音を吐かずに一生懸命働いたなあと思います。
学問へのあこがれ、新しい知識を吸収したいという気持ちで高等女学校に入りましたが、実際は食糧増産のために働く日々でした。

戦後の食糧難

戦争が終わり、日本は復興に向けて歩み始めました。
しかし、戦後の混乱期の中、引き続き食料は不足していました。

田んぼには、稲は植えられていましたが、終戦の年の7月から8月は空襲が頻繁にあったので、田んぼの手入れができず、田んぼは荒れていました。しかも大雨が降って稲穂が水につかり、終戦の年はほとんど米は収穫できませんでした。

学校で四月に開墾した皿山の芋畑も、空襲のため手入れできませんでした。しかし、食糧難の中で少しでも収穫があればと、戦争が終わってからクラスみんなで収穫に行きました。土もやせているので、ほとんどさつまいもは実をつけていません。ほんの小指の先ほどのさつまいもが、少しできていました。しかし先生が、「皆さま、小指にはかみつくことはできませんが、この小さなさつまいもでも、いただくことはできますので持って帰りましょう」とおっしゃり、わずかばかりのさつまいもを持って帰ったのを覚えています。

当時、米や塩といった食料は、食料管理法に基づいて配給されていました。しかし、配給される食料だけでは足りず、法に触れる行為だとわかっていても、やむを得ず闇市でヤミ米や他の食料を買う人も多い時代でした。その頃、東京の裁判官が、闇市のヤミ米を拒否して、食料管理法に沿った配給食糧だけ食べ続け、栄養失調で餓死した事がありました。

終戦の年、かぼちゃだけはたくさん実りました。どこの農家の畑にも、かぼちゃがごろごろころがっていました。

そんな中、終戦の年、かぼちゃだけはたくさん実りました。どこの農家の畑にも、かぼちゃがごろごろころがっていました。私の姉は「この食糧難の時代に、神様が民がかわいそうだからと思って、かぼちゃだけはたくさん実らせてくださったのだね。神様のかぼちゃだね」と話していました。みんなで豊作に感謝しました。
毎日、米はほとんど入っていないかぼちゃ雑炊の日々でしたが、このかぼちゃのおかげで、私たちは飢えをしのぐことができました。

以上が母が語ってくれた戦争体験です。

ありとあらゆる食べ物が溢れる今の時代に生きている私たちにとって、想像もつかないような食糧不足の時代であり、食べること、生きることに必死だった戦争という時代があったことを、今も心に思いながら生活したいと思います。

野菜の直売所で売られていたさつまいもの茎

野菜の直売所で売られていたさつまいもの茎
9月初旬、買い物に行ったら、たまたまさつまいもの茎が売られていました。
さつまいもは実を食べるもので、茎や葉を食べたのは食糧難の戦中戦後くらいという認識だった私は、売られているのに少々驚きました。しかし戦時中をしのんで一度は食べてみたいと思っていたので、
どんな味がするんだろうと早速購入しました。そして、インターネットなどで料理法を調べてみたら、最近もいろいろ料理に使われていることがわかりました。

そこで、さつまいもの茎を使って料理を作ってみました。
その料理については次回お伝えします。

そこで、さつまいもの茎を使って料理を作ってみました。 その料理については次回お伝えします。

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