昨年、鹿児島城跡と県内の11の「麓」と呼ばれる地域が『薩摩の武士が生きた町~武家屋敷群「麓」を歩く~』として、文化庁の認定する「日本遺産」になりました。江戸時代、外敵からの攻撃に備えて薩摩藩各地に配置された外城(とじょう)。
そこに「麓」と呼ばれる、武士たちが暮らした町がありました。この外城制度は薩摩藩独自のもので、江戸時代の末には113の外城に120か所の麓があったそうです。知りませんでした!せっかくなので、行ったことのない麓に出かけてみようと、志布志麓を訪ねてみました。
宝満寺跡の庭園にたたずむ
志布志のまちに入り、麓はどのあたりかしらと車を走らせていると、宝満寺跡という看板が目に入りました。駐車場にむかうと、目の前に、自然にとけこんだような美しい庭園がありました。
案内板によると、宝満寺は奈良時代に創建された格の高いお寺で、安産の護符でも信仰を集め、その美しい伽藍は「西海の華」といわれたとか。残念なことに、廃仏毀釈で廃寺となり、その姿は失われてしまいましたが、庭園だけは、当時の面影をのこしているそうです。
庭園は、自然の山肌をいかしてつくられているので、崩落の危険があるということで立ち入れないところもありました。長い歳月をへて、自然に還っていこうとする姿を見るようでした。
麓を歩く
麓のあるあたりに近づくと、駐車場が整備されていました。車をおいて、いよいよ散策です。
歩きはじめると、「山城に行かれますか?」と地元の方に声をかけられました。志布志麓には志布志城を構成する4つの山城跡があり、どこも山道だとのことで、足元を心配してくださったのです。
お心遣いに感謝して、まずは入り口まで行ってみることにしました。草木が刈りはらわれ、道がつくられていましたので、これなら大丈夫と進んでみたのですが、思ったよりも急勾配で、普通のスニーカーをはいてきたことを後悔…。
無理はせず、今回はあきらめることにしました。
ふたたび麓にもどり、立派な門構えの家並みを歩いていると、庭園を拝見できるお屋敷がありました。
自然の地形をそのままいかしてつくられた庭は、もとは寺院の庭園だったそうで、しんとひきしまった雰囲気です。
天水氏庭園は、もともとの岩盤をいかした造り。武骨で力強く、土地に根差して暮らしていた武士の姿のようです。
地頭仮屋跡(現・志布志小学校)近くの福山氏庭園も立派なもののようですが、現在は修復中で、見ることはできませんでした。山城跡と山城跡の谷筋につくられた志布志麓。古い石垣がなだらかに続く、山の静けさをまとった街並みでした。
湧き水豊かな志布志麓
志布志麓には、あちこちに水場があり、きれいな水が豊かに流れています。昔はそこここの水場で、水を汲んだり野菜を洗ったり、洗濯をしたりしていたのでしょうか。
石仏の見守る「御前の水」。やわらかな水の音が静けさを深くします。しばらく眺めていると、ゆらゆらと水が湧きだしているのがわかります。澄み切っていて、水底を散歩するテナガエビにも出会いました。
大慈寺へ
麓から少し離れたところにある大慈寺へも出かけました。創建は南北朝時代で、学問の拠点としても栄えたお寺だそうですが、こちらも廃仏毀釈で壊されたり焼かれたりして廃寺となってしまいました。
大慈寺が再興されるときに、再び日の目を見ることのできた門前の仁王像。
阿形相の像は、破壊され土の中に埋められていたところを助け出されたのですが、吽形相はどうしても見つからず、廃仏毀釈で廃寺となった別のお寺の像を据えることになったのだそうです。ぐっと見開いたまなこに、仁王様の苦労をしのびました。
旅に生きた種田山頭火の句碑も
今回歩いたあちこちに、種田山頭火の句碑がありました。昭和5年の秋、山頭火は志布志に2泊して、多くの句をのこしているのだそうです。句碑に出会うたび、山頭火の心で目の前の風景を感じてみるのも楽しい体験でした。
おみやげに志布志のおいしいものを
のんびりゆっくり楽しんだ志布志の麓歩き。気づけば万歩計は1万歩を超えていました。
帰りに地元のスーパーに立ち寄り、志布志名物「せんさら」(ゆでたフカ(サメ))を買って帰りました。
ふっくらしっとりとして、酢味噌でいただくと格別。気ままな日帰り散歩旅で、心もおなかも満腹になりました。また機会がありましたら、ほかの麓も訪ねてみたいと思います。
※日本遺産『薩摩の武士が生きた町~武家屋敷群「麓」を歩く~』については
にて詳しくご覧になれます。