MBC-HP
「歴史」

戦争体験談vol.6鹿児島大空襲の記憶


執筆者:

太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)6月17日。この日鹿児島は、アメリカ軍による大規模な空襲に見舞われました。

夜の11時5分から1時間以上にわたって焼夷弾が投下され、その数は13万個と推定されています。
この空襲で、2316人が亡くなり、3500人が負傷。

1945年の3月以降8回にわたって行われた鹿児島市への空襲の中でも、最大の被害となりました。
(総務省「鹿児島市における戦災の状況」より)

今回は、その空襲を13歳で体験した、鹿児島市の前迫範三さん(86)にお話をうかがいました。

前迫範三さん(86)前迫範三さん(86)

「その晩は、ものすごく蒸し暑くてね。蚊帳をつって下着1枚で寝てたんですよ。そしたら、どどどーっていう、聞いたことのないような音がして、びっくりして飛び起きたんです。慌てて縁側に出てみたら、あたり一面が火の色。まだ火が見えていたわけじゃないんだけど、なんていうか、空間全体が赤い炎の色と黒い煙に包まれてる感じなんですよ。焦げ臭いような油臭いようなにおいがしてね。たしか、空襲警報は鳴らなかったですよ。」

当時鹿児島市の武に住んでいた前迫さんは着の身着のまま裸足で家を飛び出し、庭先に穴を掘ってつくった深さ1.5メートル、広さ1畳ほどの防空壕に、家族5人で身をひそめました。

防空壕の様子 板で作った蓋を開けて出入りする(前迫さんのスケッチ)防空壕の様子
板で作った蓋を開けて出入りする
(前迫さんのスケッチ)

「梅雨時で雨続きでしたから、防空壕の中は水が膝くらいまでたまってて、それでも我慢して中にいたんですけど、恐る恐る外の様子をのぞいた兄が、このままじゃ蒸し殺されるぞって言ってね。防空壕のふたを持ち上げて何度か脱出しようとしたんですけど、そのたびにシャシャシャシャシャーッて、自分の頭の上に落ちてくるようなものすごい音を立てて、焼夷弾が降ってくるんです。恐ろしくてね。最初に兄が飛び出して、家から布団を持ってきてくれて。みんなでその1枚の布団をかさにして逃げることになったんです。」

あたりは火の海で、逃げるに逃げられない状況の中、とにかく空き地を目指そうというお兄さんの判断で、指宿へ向かう線路沿いの道を1㎞ほど南へ逃げました。

「どうやって逃げ延びたのか、なんにも覚えてないんですよ。とにかく必死。ただ、雲の切れ間からB29が何機も見えたのだけは記憶に残ってます。」

田んぼの中をはしる線路の土手に命からがらたどり着き、そこに身を伏せて一夜を明かしました。

「そこには火もきてなくて、ほかにもたくさんの人が逃げてきてました。みんなと語ったりしてね、ほっとした気がしましたよ。当時は、いつでも逃げられるように、縁側に貴重品の持ち出し袋を準備していたものなんですが、避難してきた人の中には、気が動転しとったんでしょうね、かわりに鶏かごをしょってきてしまった人がいてね。ちょっしもたー(しまった)ってなってね。その場の雰囲気がちょっと和んでね。不思議とそのことをよく覚えてますよ。」

朝になり、兄と二人、家の様子を見に行くことにしました。

「あたり一面焼け野原。道はガラスの破片やらなんやら、ひどいことになってました。アメリカ軍がまいた油のドラム缶や焼夷弾の残骸がいたるところに落ちてましたよ。裸足でどうやって歩いたのか…。何とか家に着いたんですが、もう全くなんにも無いんです。きれいに焼けてしまって、真っ白な灰と家の土台があるだけ。あんなに焼けるなんてね。」

焼夷弾の残骸はこんな形  直径10㎝くらいで長さが5~60㎝くらいでした焼夷弾の残骸はこんな形
直径10㎝くらいで長さが
5~60㎝くらいでした

防空壕の中をのぞくと、壁にかけてあった風呂敷包みが、焼けて水の中に落ちていたそうです。

「翌日が、岩川(鹿児島県曽於市)の海軍航空隊基地にいた兄との面会日でね。なけなしの小豆で作ったおはぎを風呂敷に包んで避難させてあったんですよ。それも焼けてしまって。あのまま防空壕にいたら、みんな焼け死んどったんですよね。」

実際、近所の家族は、防空壕の中で亡くなっていたと聞いたそうです。

その後は、親戚の家に身を寄せることになったそうですが、その道すがら出会った男の人が忘れられないといいます。

「すすで真っ黒、あちこちやけどをした裸同然の姿で、遠くを見たままぼーっと歩いてたんです。どんな思いをしたのかなあと思ってね。忘れられんですよ。今もニュースを見れば、シリアの空襲なんかが出ますけど、おんなじですよ。人間同士が殺し合うような戦争は、絶対やっちゃいかんですよね。」

100機を越える大編隊が、1時間以上にわたって焼夷弾を投下したという鹿児島大空襲で、鹿児島市街地は焼き尽くされました。

直後の6月27日現在の鹿児島市の調べによると、世帯数は空襲直前の3万4868世帯から2万1958世帯に、人口は14万5978人から9万3032人に。多くの方々が家を失い、散り散りになったということがわかります。
(総務省「鹿児島市における戦災の状況」より)

もしかすると、鹿児島大空襲の体験をお持ちの方が、まわりにいらっしゃるかも。

今日は、身近なお年寄りにそんなお話をうかがって記憶に残しておきたい、大切な日なのかもしれません。

戦争体験談vol.7旧満州からの引き揚げ~命がけで家族を守って~かつて155万人もの日本人が移住していたという旧満州(現中国東北部)。 終戦直前の昭和20年(1945年)8月9日のソ連軍の侵攻ととも...

この記事が気に入ったら
いいね ! してね

あわせて読みたい