先日、「みんなの西郷さん」の著者としてご紹介した小平田史穂さん。
「仕事?すごく楽しいです」と即答が返ってきました。小平田さんの仕事場は、鹿児島市にある歴史博物館・尚古集成館。小平田さんはここの学芸員さんです。
知っているようで知らない、博物館の学芸員というお仕事。いったいどんなことしているの?どうして学芸員になったのか、またその仕事の魅力について聞きました。
「はじめから、学芸員としての採用されたわけじゃなかったんですよ。6年前、ここの受付業務からのスタートでした。博物館の鍵をあけて、床やケースの掃除をして、商品を販売して、領収書を書いて、お客様の質問にお答えして、展示物に異常がないか見回りをして…うちの受付さんは、とても仕事が多いんです」
もともと本が好きで、図書館司書や博物館の学芸員には漠然とした「あこがれ」をもっていたという小平田さん。それもあって大学生の頃に学芸員の資格を取得していました。
学芸員の資格取得に興味のある方は、はこちらをご参考下さい
でも「仕事」を現実的に考えなければならない大学四年生になって、学芸員の募集というのはとても狭き門だという現実を目の当たりにします。
学芸員になるまで~社会を学んだ最初の就職~
そんな中、小平田さんが最初に就職したのが、地元テレビ局の関連会社でした。
「企画・事務」で入社したはずが、配属されたのはテレビ現場でのカメラマン。大きな機材やケーブルにはもちろん触ったことがありません。
「体力も機械の知識もない中で、とても大変でした。でも先輩方に支えられて続ける中で、正しく情報を伝えることの大切さや時間やお金の管理など社会人としての常識、そして小さい子どもたち、障がいのある方など「立場が違うと、同じ情報でも捉え方が違う」という意識を学びました。ここで学んだことは、今も生きていますね。
博物館との出会い~受付業務からのスタートでした~
仕事にようやく慣れてきた頃、お母様が病気になり介護が必要に。カメラマンという仕事を辞めざるをえなくなります。幸い、その後、お母様の病状は改善、ようやく再スタートを切ることが出来ました。紆余曲折の末、求人誌で「博物館の受付業務」を見つけ、すぐに応募したそうです。学芸員での採用ではありませんでしたが、憧れの博物館勤務。一番苦労したのが、お客様からの質問への対応でした。
「大学でも日本史専攻ではなかったので、最初はうまく答えられませんでした。くやしかったので、本を読んで、自分なりにノートをまとめて、と不器用に頑張りましたね。それを見ていて下さったのが、松尾館長でした。ちょうど、私の前任者の女性学芸員が、会長秘書に栄転なさるタイミングもあって「学芸員として頑張ってみませんか?」と声をかけてくださったんです。とても嬉しかった。でも同時に「学芸員の資格は持っているけれど、世界史や基層文化を専攻していたため、鹿児島の知識が…」と不安を持ちました。すると松尾館長からこんな励ましの言葉を頂いたんです。」
「鹿児島の文化や歴史は、日本史だけを見ていても理解できませんよ。ヨーロッパや中国、沖縄などさまざまな視点が必要です」
学芸員というお仕事 ~私たちの役割~
こうして学芸員としてスタートすることになったのです。
博物館の学芸員は、資料の収集や保管、展示、調査研究などを行う専門職です。
◆ 残す
「博物館や美術館に行くと、当たり前のように数百年前のものを目にすることが出来ますが、これらは「数百年、守られてきた」ものたちなんです。うちにも、銀板写真や金属製の細工などが収蔵されていますが、これらは光や、人間の手の油などによって、簡単に劣化、悪くすると消滅してしまいます。今まで伝わってきているということは、今までの管理者が『大切に守ってきた』からなんです。」
「ここまで守られて、伝わってきたものを、私たちは次の世代に伝えなければなりません。そのためには、様々な専門的知識が必要です。」
◆ 伝える
「企画展などで収蔵品を展示するとき、どうすれば分かりやすいか、見やすいか、といった部分に注意しながら展示物を陳列していきます。展示をするだけではなく、小学校や中学校、高校大学、公民館などに行って講演もします。」
「実は私は、人前で話をするのがとても苦手でした。今でも緊張して、血圧があがるんですよ。でも、こうして「伝える」ことで、より多くの方に「鹿児島の歴史」の奥深さを知っていただければ嬉しいですね。」
◆ 調査・研究する
「学芸員になって、はじめてお会いした学芸員さん同士が、『あなたのご専門は?』と聞き合うことに驚きました。多くの学芸員が『専門』を持って、日夜研究をしているんです。私の専門は薩摩切子です。鹿児島が誇る薩摩切子。
うっとりするほど美しいですよね!言葉の通じない海外からのお客様からも『鹿児島は、とても美しいガラスを作る街』と言って頂けます。
実はその歴史もとっても面白いんです。もともとは島津家28代斉彬が 海外輸出目的で作り出したものです。篤姫様も、徳川家へのお輿入れの際は薩摩切子を持参しているんですよ。赤い色のガラスを最初に作れたのも薩摩藩で、斉彬はそれを大層自慢しているんです。でも、残念なことに、西南戦争後に、この美しい『薩摩切子』は一度途絶えてしまいます。」
「薩摩切子は1985年に復元して、みなさまに愛される美術工芸品に育っています。でも、実はガラスや江戸切子の専門家は多くいらっしゃいますが、『薩摩切子の歴史』を専門で扱う学芸員はいませんでした。私は、きちんとした情報を、文章で残す必要性を感じました。せっかく美しい、世界に誇れるものがあるのですから、『幕末期の薩摩切子について』『1985年以降の薩摩切子について』細かい時系列、作品、たずさわった人間を整理しようとしています。」
「私はまだまだ駆け出しの、若手です。たくさんの先輩方が書かれた文献や書籍など、あたらなければならない資料がたくさんあります。知識も、もっと詰め込まなければなりません。でも、それで博物館や収蔵品が愛されるのであれば、苦労は全く感じません。日々是勉強です。」
おわりに
「本物に触れながら、100年後にも見てもらえるような歴史的遺産を受け継ぎ、新しい価値を見つけ出していくことが醍醐味です。」と語る小平田さんからは、この仕事への誇りと情熱が伝わってきました。
小平田さんをこの仕事に誘(いざな)った松尾館長も「新しい研究成果で歴史認識は塗り替えられ、解き明かされていく。鹿児島の歴史・文化を正しく知り、伝えていくことが大切。」と話します。
先人たちが何を残し、伝えようとしていたのか、その答えを探究し、形に残し、次の世代へと繋いでいく…学芸員さんたちは、まさに歴史の「伝道師」なのだと思いました。