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「歴史」

「西郷どん」ゆかりの地 太宰府に残る大久保利通直筆の手紙


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かつて薩摩藩の定宿だった福岡県太宰府市、大宰府天満宮参道にある維新の庵松屋には、西郷隆盛直筆の手紙と共に大久保利通の直筆の手紙も残されています。

前回、西郷どんの手紙についてお伝えしましたが、今回は西郷どんの盟友、大久保利通の手紙についてご紹介します。

前回に引き続き、日本経済大学 経済学部経済学科 准教授で日本史、幕末維新史が専門の竹川 克幸先生に解説していただきました。

日本経済大学 准教授 竹川 克幸先生日本経済大学 准教授 
竹川 克幸先生

これが大久保利通が書いた手紙です。

大久保利通直筆の手紙大久保利通直筆の手紙
(普段は非公開)

西郷隆盛が書いた手紙よりも、文字の線が細く、繊細な印象を受けました。

大久保利通の手紙は文章も長く、1つ1つの文字を解説していただくと時間もかかるので、どういう内容の手紙なのか、簡単に意訳して教えてくださいました。
竹川先生の説明を熱心に聞いてらっしゃいました。

松屋 六代目当主 栗原雅子さん松屋 六代目当主
栗原雅子さん

松屋の六代目当主 栗原雅子さんも、改めて手紙の内容を確認するために、竹川先生の説明を熱心に聞いてらっしゃいました。
大久保利通が元薩摩藩士で明治政府の外交官、中井弘蔵という人に宛てたお詫び状
「この手紙は、大久保利通が元薩摩藩士で明治政府の外交官、中井弘蔵という人に宛てたお詫び状です。
大久保と中井弘蔵は、近く会う約束をしていたみたいですね。
ところが、大久保の父・利世の七回忌にあたり、大久保が中井にお会いできず申し訳ありません。
またお返事も遅くなりますので御許し(免し)下さいという旨のお詫び状みたいです。」

と、わかりやすく解説してくださいました。

手紙の中に確かに「亡父 七回忌」の文字が見えます。

亡父 七回忌亡父 七回忌

「大久保の父、大久保利世が亡くなったのは 文久3(1863)年5月19日で、七回忌は明治2(1869)年ですね。

『鹿児島県史料 大久保利通史料―』明治2年5月の項(306頁)に

一、 九日 亡父公(次右衛門・利世)七回相当二付、大円寺江仏事相頼
十字(十時)后ヨリ参詣、石原子・江夏子入来」とあります。

この事より、明治2年5月9日に、大久保利通が亡父利世の七回忌法要を曹洞宗・大円寺(薩摩藩島津家の江戸での菩提寺。現在の東京都杉並区)で行ったようです。
この手紙は「五月十日」の日付がありますので、法要の翌日の明治2年5月10日に書かれた手紙だと考えられます。

また、大久保利通関係の書簡など史料を集めた、『日本史籍協会叢書 大久保利通文書三』に、この手紙と関連するものと思われる大久保から中井弘蔵宛て手紙(明治2年5月6日付)も収録されています。」

先生は、さまざまな史料を調査し、証拠となる史料を見つけることで、この手紙が書かれた年代を導き出されました。
こういう丹念な調査で、歴史上の人物の具体的な行動や感情、他の人との交わりなどがわかり、その積み重ねで、歴史の新事実が解き明かされることもあるのだろうなあと思いました。

そして、手紙の端裏書きには「中井弘蔵様 拝答 大久保一蔵(大久保利通の別名)」と書かれています。
「中井弘蔵はあまり知られていませんが、元薩摩藩士です。」と
竹川先生が教えてくださいました。

中井弘蔵殿 拝啓 大久保一蔵と書かれている中井弘蔵殿 拝啓 大久保一蔵と書かれている

では、薩摩藩士・中井弘蔵という人は、どんな人物なのでしょうか?
竹川先生の説明によると・・

中井弘蔵とは・・
中井弘蔵(中井弘)は、元薩摩藩士でした。
鹿児島城下士・横山休之進として藩校造士館に学び、脱藩して江戸や土佐に出奔しました。
そこで後藤象二郎ら土佐藩士や坂本龍馬ら志士と意気投合し、彼らが工面した資金でイギリスに密航留学。
帰国後は、その奇才から宇和島藩主・伊達宗城に招かれて中井弘蔵(弘三)と改名し、京都で周旋方として活躍しました。
明治期以降は、明治政府の外交官(外国事務各国公使応接掛)として英国公使パークス襲撃事件でパークスの危機を救うなど活躍し、その後、神奈川県や東京府の判事、滋賀県知事、貴族院議員、京都府知事などを歴任しました。

そして、先生に説明していただき一番興味深かったのは、当時の日本が勧めていた欧化政策により建てられた「鹿鳴館」の名付け親が、中井弘蔵だったという事でした。
※参考『明治維新人名辞典』吉川弘文館、P687~688

私も鹿児島出身ですが、中井弘蔵という名前を、今回初めて聞きました。
鹿児島の偉人について、西郷隆盛や大久保利通のような超有名人は知っていますが、その時代の日本を牽引して来た、鹿児島の偉人は他にもいる事を再認識しました。

ところで、手紙の最後 追伸(追而書)部分に出てくる小松さんですが・・

小松の文字が・・小松の文字が・・

おそらく薩摩藩士、小松帯刀(たてわき)だと思います。
「おそらく薩摩藩士、小松帯刀(たてわき)だと思います。
大久保利通関係の史料には、小松帯刀(大夫・玄蕃頭)の名前がよく出てきます。大久保利通が、小松帯刀にも御届物のお使いがあって、その使いに返事を言づけて渡すので遅れる(延引する)ことをお許し下さいとのお詫びも述べています。」

薩摩藩士、小松帯刀(たてわき)薩摩藩士
小松帯刀(たてわき)

小松帯刀は、薩摩藩の家老で、薩摩藩の政治・軍事・外交・財政、藩政の様々な場面で活躍。
薩長同盟の締結や大政奉還で大きな役割を果たしました。
西郷隆盛、大久保利通と並び明治維新にも尽力した「維新の十傑」の1人です。

手紙に書かれている「小松」さんは、「あの小松帯刀なんだー」とちょっと感動しました。
手紙の最後 追伸(追而書)部分に出てくる小松さん
ところで、中井弘蔵に宛てた大久保利通の手紙が、なぜ、松屋に残されているのかは、西郷隆盛の手紙と同様に謎です。

しかし、西郷隆盛の手紙から、周囲に心配りのできる西郷どんの人柄を感じたように、大久保利通の手紙からも、無礼をきちんと詫びる、そしてお詫びの気持ちとしての丁寧なお詫び状を送るという、礼節を重んじる大久保どんの人柄を感じ取りました。
また、西郷隆盛や大久保利通が、小松帯刀や中井弘蔵をはじめ、幕末維新の時代に生きた多くの人々と交流した証としての直筆の手紙に触れ、実際に彼らの息遣いのようなものも感じることが出来ました。

西郷隆盛直筆の手紙西郷隆盛直筆の手紙
西郷隆盛西郷隆盛

NHK大河ドラマ「西郷どん」もはじまりました。
今後も、竹川先生のアドバイスをいただきながら、「西郷どん」と並行して、西郷隆盛はもちろん、薩摩藩士や志士たちの歴史秘話、鹿児島にまつわる話をご紹介出来たらと思います。

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