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「歴史」

「西郷どん」ゆかりの地太宰府に伝わる西郷隆盛直筆の手紙


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福岡県太宰府市・太宰府天満宮参道の梅ケ枝餅販売と喫茶・土産物店の「維新の庵・松屋。」

福岡県太宰府市 松屋福岡県太宰府市 松屋

かつて周辺は宰府宿・大町旅館街と呼ばれ、宰府(さいふ)参りの門前町・宿場町でにぎわった場所です。
松屋は旅籠、薩摩藩の定宿で、大河ドラマ西郷どんの主人公・西郷隆盛、大久保利通ら薩摩藩士ゆかりの場所です。

松屋主人の栗原孫兵衛は勤王の志も厚く、西郷の同志であった勤皇僧の月照や福岡藩の平野國臣、月形洗蔵など、幕末の志士達と交流し、彼らの活動を周旋(仲介・支援)しました。

松屋にある薩摩藩定宿の看板松屋にある薩摩藩定宿の看板

これまでも松屋と薩摩藩・西郷隆盛ゆかりのエピソードをご紹介しましたが(①西郷隆盛ゆかりの地シリーズ2、②月照上人の命日に・・をご覧ください)、実は、松屋・栗原家には明治維新の歴史にまつわる貴重な史料、記録類、西郷隆盛の直筆の手紙が残されており、代々伝えられています。

喫茶店内に展示されている複製の資料喫茶店内に展示されている複製の資料

普段は喫茶店店舗での複製資料の公開・見学のみですが、今回大学の先生が松屋の史料や記録類を調査されるということで、松屋の六代目当主 栗原雅子さんがその現場に特別に立ち合わせて下さいました。

調査に来られたのは、日本経済大学 経済学部経済学科 准教授(日本史担当)
竹川 克幸先生です。

日本経済大学准教授 竹川 克幸先生日本経済大学准教授
竹川 克幸先生

実は竹川先生、鹿児島にゆかりのある方なんです。
鹿児島大学、同大学院で学ばれ、専門は日本近世史、幕末維新史。
NHK大河ドラマ西郷どんの時代考証を担当される原口泉先生(鹿児島県立図書館館長。鹿児島大学名誉教授、志學館大学教授)の教え子だそうです。

アクロス福岡文化誌9福岡県の幕末維新』(海鳥社)などの著書(共編著)もあり、現在も原口先生を含めた複数の方と交代で、明治維新150周年企画の新聞記事(今こそ知りたい幕末明治)を産経新聞に連載されています。

太宰府参道太宰府参道

竹川先生は、後に「明治維新の策源地」と称された幕末の太宰府と薩摩藩の関係、特に三条実美ら五卿の西遷、九州・太宰府における薩摩藩の五卿の警衛(守衛)・応接など国事周旋活動、坂本龍馬や中岡慎太郎ら志士の国事周旋の旅、松屋・栗原孫兵衛や泉屋(現在の梅園)、大野屋など大町旅館街における五卿や随従者、西郷隆盛ら薩摩藩士などへの周旋・応接などについて調査研究されており、松屋にも度々調査・見学に来られています。

今回、鹿児島県の明治維新150周年記念事業の「若手研究者研究助成の調査研究」の関係で松屋さんに史料・記録類の調査に来られ 特別に現場に立ち会わせて頂きました。
また竹川先生には、ご縁があって鹿児島ゆかりの記事を書いている私たちの記事や活動についても共感していただきました。
西郷隆盛直筆の手紙を見せて下さるそうです。
栗原さんが装丁された巻物を持って来られました。
西郷隆盛直筆の手紙を見せて下さるそうです。
それを広げる瞬間、西郷どんの書いた手紙に対面できると思うと、ドキドキしました。

これが西郷隆盛直筆の手紙です。

西郷隆盛直筆の手紙西郷隆盛直筆の手紙
(普段は非公開)

太い字でさらさらと書かれている印象を受けました。
しかし、正直、何が書かれているのかさっぱりわかりません。

そこで、竹川先生に、手紙の解読と解説をお願いしました。
竹川先生が丁寧に解説してくださいました。
竹川先生が丁寧に解説してくださいました。
手紙には、以下の文が書かれているそうです。

御安康奉賀候陳ㇵ
先日御遣被下候荷物
今日足軽宰領ニテ御用
物の品を以大坂江相廻候
左様御得心可被下候
此旨
卒度申し上候以上

九月晦日
村山下総殿    西郷吉之助
要詞(要用)上置

先生が指さしている所に、西郷吉之助(西郷隆盛の別名)と書かれています。

西郷吉之助(西郷隆盛の別名)西郷吉之助(西郷隆盛の別名)

昔の人が書いた字(くずし字)は私達にとっては難解ですが、研究者の方はすらすらと解読され、すごいなと思います。
では、どういう内容なのか意訳していただくと、以下のようになります。

心安らかで御健康でありますことをお喜び申し上げます(冒頭のあいさつ文)
先日お遣わし下さいました荷物は
今日足軽宰領(荷物を運ぶ人)の世話で
藩の公用の品物と共に、大坂(大阪)に回送しましたので
そのように御心得ください
この旨を謹んで申し上げます。

九月晦日
村山下総殿  西郷吉之助(西郷隆盛の別名)
要詞(要用)上置
大事な用件ですので、相手の机上に置き届けて下さい
(要詞(要用)上置とは・・この手紙を相手の机の上に置いて届けて下さいという慣用句)

参考文献
『わがまち散策 太宰府への招待1』、『太宰府の伝説』
『西郷隆盛全集』第3巻(574頁掲載)
西郷が村山下総に宛てた、日常の連絡事項を伝える事務的な手紙
「この手紙は、西郷が村山下総に宛てた、日常の連絡事項を伝える事務的な手紙ですよね。
当時宿屋・旅籠は、旅人や宿泊者のいろんな荷物や手紙を預かり、取次ぐ、物流の配送拠点や郵便局のような役割も持っていました。
宿場の問屋や旅籠ごとにリレー方式で目的地まで運ぶんです。
また、藩の公用の荷物は迅速に低料金で運ぶことが出来ましたので、村山から頼まれた荷物も、薩摩藩の公用の品物と一緒にまとめて大坂方面、薩摩藩藩邸か蔵屋敷など藩の施設・公的機関や薩摩屋(薩州問屋)など御用聞商人を通じて回送したのでしょうね。」

しかし、この手紙を解説していただき2つの疑問がわいてきました。
1つ目は、村山下総(むらやましもうさ)とは何者なのか?
2つ目は、なぜ、村山にあてた手紙が松屋に残っているのかという点です。

村山下総(むらやましもうさ)とは何者なのか?
「村山下総(斉助・松根)はですね、別名 北条右門(木村仲之丞)というのですが、薩摩藩士なんですね。
しかし、いわゆるお由羅騒動で島津斉彬側だったため、藩を追われる身となり、脱藩して筑前国福岡藩領内で潜伏するのです。
そして、平野國臣や松屋・栗原孫兵衛ら筑前の志士たちとも交流し、月照上人の九州・薩摩への逃避行を陰で手助けをしたり、太宰府天満宮の境内にある和魂漢才の碑の建立に尽力した人物でもあるのです。」

参考
『明治維新人名辞典』(吉川弘文館)の P988~989村山松根の項参照

今まで全く知らなかった村山下総という人が、薩摩藩の重要な出来事に関わっている人物だと知り驚きました。

桜島桜島

では、ここでお由羅(お遊羅)騒動について簡単にご説明しましょう。
お由羅騒動は、藩主・島津斎興の代継ぎの座をめぐって、正室の子で長男の島津斉彬を藩主に擁立しようとする一派と、側室お由羅の子の島津久光を藩主に擁立しようという一派が対立し起こされたお家騒動のことです。
別名 高崎崩れ、嘉永朋党事件ともいいます。

島津久光

しかし、斉彬派がお由羅や久光を暗殺しようと企て、その情報が漏れたため斎興が激怒し、斉彬派に激しい弾圧を加えました。
切腹・遠島・謹慎など50名以上の処分者を出す事態となったのです。

斉彬派だった村山下総も処罰の対象でしたが、諏訪神社神職の藤井良節(藤井良蔵、工藤左門、井上出雲守)、加治木郷出身の葛城彦一(竹内伴右衛門、五百都)や洋中藻萍(岩崎千吉、相良藤次)ら同志と4名、運よく藩の追っ手から逃れ、薩摩藩主島津重豪の子で島津斉彬の大叔父の黒田斉溥(長溥)が福岡藩主であった関係もあって筑前国福岡藩領に保護され、匿われることになります。

そして、村山はその存在を消して潜伏するため、名前も北条右門と変名したのです。
村山は脱藩したとはいえ、西郷隆盛など薩摩藩との交流もあり、また、福岡藩の勤王の志士、平野國臣とも筑前(筑前大島?姫島?)に潜伏時代に交流し、同志として親交を深め、平野の勤王思想に大きく影響を与えたと言われます。
そして、西郷と月照上人が九州、薩摩へ落ち延びる際、月照上人の随行として平野國臣にお供するようお願い・仲介したのも村山下総(北条右門)だったといわれています。
この手紙自体は事務的なやりとりの内容
この手紙自体は事務的なやりとりの内容ですが、村山下総という人物像と、その背後にあるいろんな歴史背景がわかったので、手紙を通して歴史がより立体的に見えてきたような気がしました。

では、なぜ村山に宛てた手紙が松屋に残っているのでしょうか?
松屋の六代目当主 栗原雅子さんも、その経緯についてはよくわからないそうです。
竹川先生はこう話します。
竹川先生はこう話します。
「手紙の年号は不詳なので、この手紙の書かれた時代背景や事情、人間関係や出来事などを他の史料や記録資料も精査・検討して総合的に考え、慎重に判断していく必要があります。
西郷が太宰府と大きく関わるのは、1つは安政五(1858)年の月照の九州・薩摩への逃避行の時期。

もう1つは元治元(1864)年から慶應年間の第一次長州征伐から五卿の西遷、太宰府での五卿の警衛・応接の時期です。
名前を下総と改めたのは、薩摩藩に召喚されて藩士として復帰して以降の話なので、西郷が太宰府に来て滞在していた元治二~慶應元(1865)年頃の手紙と推定されます。
また、当時書状・書翰は2部書いて、1部は控えで手元に残しておくという習慣もありました。

この手紙も、西郷自身か手紙のやりとりを仲介した薩摩藩の定宿・松屋が手元控えで残していたものの可能性もあります。
いずれにしても、この手紙の存在は、松屋主人の栗原孫兵衛と西郷隆盛や村山下総が親しく交流していた証です。

松屋になぜ、西郷や大久保の薩摩藩士の手紙、記録類が残されているかは今後の調査研究課題ですね。」
西郷どんが書いた手紙
松屋に伝わる西郷隆盛直筆の手紙を見せていただき、西郷どんの確かな存在を感じることができました。そして西郷どんが書いた手紙は相手が確認したい内容を、きちんと報告していて、この短い手紙からも、心配りのできる西郷どんの優しい人柄を垣間見たような気がしました。

ところで、村山が西郷どんに遣わした荷物の中身っていったい何だったんでしょうね・・・

さて、松屋・栗原家には西郷どんの盟友、大久保利通(一蔵)が書いた直筆の手紙も残っています。
これが、その手紙です。

大久保利通の手紙については、次回お伝えします。

大久保利通直筆の手紙大久保利通直筆の手紙

おわりに・・

大河ドラマ「西郷どん」の放送がはじまり、西郷隆盛や幕末期から明治維新にかけての歴史に注目が集まる中、記事掲載にあたって、史実を正しく、より詳しく伝えるために、竹川先生が私の書いた原稿をきちんと確認し、丁寧にアドバイスや付け加えをしてくださいました。
先生のおかげで、細かな歴史の事実までお伝え出来ました・・

「西郷どん」の盟友月照の命日に・・太宰府市「松屋」と清水寺の交流幕末期、幕府に追われている月照上人をかくまった、福岡県太宰府市の松屋。 そのエピソードについては以前お伝えしましたが(西郷隆盛ゆかりの...

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