今月10日、広島で被爆したサーロー節子さん(85)が被爆者として初めてノーベル平和賞の演台に立ち「核兵器は絶対悪。終わりの始まりにしよう。」と訴えました。
72年前の夏。広島、長崎で何があり、どんなことが起きていたのでしょうか。
被爆体験者からの伝言を受け取った中学生のお話をお伝えしたいと思います。
長崎市の小高い丘にある平和公園。悲惨な戦争を二度と繰り返さないという誓いと平和への祈りを込めてつくられた公園です。
今年5月、鹿児島市の坂元中学校2年生の生徒136人は特別な思いでこの地を訪れました。
生徒たちはここを訪れる少し前、この地で被爆した一人の女性の話を聞いていました。
お話をして下さったのは、久保清子さん79歳。今では数少ない鹿児島市に住む被爆体験者のひとりです。
当時、久保さんは7歳。長崎で被爆し、家族を亡くしました。
涙を流しながら訴える久保さんの話は、生徒たちに強い衝撃を与えました。
「残酷で、悲しくて、今の自分たちの生活とかけ離れすぎていて、こんなことが本当にあったのかと…信じられませんでした。」
そう話すのは、松元一真くん。
祖父母も戦争の記憶のない世代に育った松元くんにとって、初めて聞く戦争の生々しい話でした。
その松元くんの「本当の平和へ」という弁論が多くの人の心を打ち、先月12日、東京で開かれた「少年の主張・全国大会」で審査委員会委員長賞を受賞しました。
他の生徒たちも、清子さんの体験を重く受け止めました。
生徒たちは、その話をもとに創作劇をつくり文化祭で発表しました。
生徒たちが受け取った伝言とは…
1945年8月9日、よく晴れたその日、お昼ご飯を待ちながら、友達と遊んでいた清子さん。ピカッ。雷のような光が見えたかと思うと、ものすごい勢いの爆風が襲いかかり地面にたたきつけられました。
スカートには火がつき、夢中で地面を転がり火を消すと防空壕に飛び込みます。その時に負ったやけどが、清子さんのおしりに傷となって今も残るそうです。
自宅で被爆した母親は全身に無数のガラスがつき刺さり、熱線を体中に浴びた弟は水が飲みたいと言いながら死んでいく。
松元くんが忘れられないのが、清子さんがお父さんと再会したときの話でした。
父親はやっとたどり着いたけれど、片足は皮一枚でかろうじてぶら下がり、片方の眼球は飛び出ています。
「こんなおばけ、お父さんじゃなか。」と言って泣き叫ぶその頭を、いつものように優しくなでられて、やっと父親だとわかる清子さん。
自分の父が衰弱し死んでいく姿を7歳の子どもが目の当たりにしている、なんて残酷なことでしょう。
弟と父を亡くした清子さんたち家族を待ちうけていたのは、信じられない現実でした。
やっとの思いでたどり着いた親戚の家では、原爆病がうつると言われ、何も与えられず、しかたなく外に寝たそうです。体中蚊に刺されながら悔しくて悔しくてしかたがなかった、そう語ります。
けれども、清子さんはその親せきを恨んではいません。「たった一発の爆弾のせいで…。」清子さんが恨んでいるのは原子爆弾なのです。
アメリカはなんて心ないことをしたんだ。
しかし、清子さんは思いがけないことを僕たちに伝えました。
「原爆を落としたアメリカ人は、何回も何回も十字を切って、ごめんなさいと泣きながらボタンを押したそうよ。だって、落とさないと自分が殺されてしまうけんね。」そうなんだ。落とす側も苦しかったんだ。ならば、なぜ苦しむだけの戦争なんかしたんだ。
しかし、日本人は「された」だけではないことも僕は知った。
松元くんは、どの国の人も、勝てば幸せになると信じて戦った戦争が、誰も幸せにしてこなかったこと。一発の原子爆弾が一瞬にして多くの人の人生を変え、70年以上経った今も、生き残った人の心を苦しめていることを知りました。
~松元くんの弁論「本当の平和へ」より~
「この前ね、夢の中にお母さんが出てきて、清子、清子、と呼んでくれました。死んで70年以上経って初めて、うれしくてうれしくて朝まで泣き続けました。」
なんて切ないことでしょう。高齢の清子さんが、夜中にお母さんのことを思い、朝まで泣き続けているのです。その姿を思って胸が苦しくなりました。
松元くんはこの話を伝えるとき、「清子さんの声を思い出し、清子さんの気持ちになって全身で伝えたい」と話します。
学校で、全国大会で、地域の人たちの前でこの話をしてきました。
「涙を流しながら訴えて下さった清子さんの話を絶対に忘れてはいけないと思いました。」
創作劇「伝言」で生徒たちは、最後にこう語りかけました。
僕たちにもっと戦争のことを教えて下さい。
私たちに清子さんが体験したことを教えて下さい。
僕たちは皆さんの伝言はしっかりと受け取りましたから。
【おわりに】
学年主任の竹之内真奈美先生は「祖父母世代の多くが戦後生まれとなり、子どもたちは、生の戦争体験を聞く機会がとても少なくなっています。
だからこそ聞いてほしかった。現代っ子たちが、久保さんの話を聞き、女子生徒は涙を流し、男子生徒も顔で涙を覆いながら泣いていました。
久保さんの思いが生徒たちの心に伝わったことを肌で感じました。」
生身の人間から絞り出された壮絶な体験の声は、子どもたちの心に深く留まっていました。この世代を生きる一人として、本当にあった戦争の話を次の世代にしっかりと届け、伝えていくことの大切さと強く思いました。