むかし戦争がありました VOl.3 ヒロシマ・あの日の記憶

8月30日、長崎で被爆し、自ら先頭に立って、世界に反核を訴え続けてきた谷口稜曄(すみてる)さんが亡くなりました。

奇しくも谷口さんと同じ年で、広島で被爆した田中さんのお話です。
奇しくも谷口さんと同じ年で、広島で被爆した田中さんのお話です。

「朝礼の時、突然「ピカッ。ドカーン」ときたんです。それからの3日間は生き地獄でした。」
鹿児島市に住む田中義巳さん(88)

爆心地から5キロで被爆し、被爆者手帳を持つひとりです。
田中さんの記憶に残る72年前のヒロシマを原爆投下後の写真と共に振り返ります。

原爆関連の写真は、広島平和記念資料館が所蔵するものを許可を得て使用しています。無断使用はかたくお断りします。
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 鹿児島市に住む田中義巳さん(88)爆心地から5キロで被爆し、被爆者手帳を持つひとりです

当時、私は広島高等師範学校(現在の広島大学)の1年生でね。
ちょうど終戦の年(昭和20年)に入学しだんけど、そのころは、入学式も授業もなくて。
もう世の中、学校どころじゃなくなっていましたよねぇ。

しばらく学校の寮で待機する毎日だったんだけど、軍から「兵器工場に行くように」との命令が来て、みんな学校から工場に通うようになったの。
場所は、広島駅の隣の駅の向洋(むかいなだ)という所で、そこに大きな自動車工場があってね。三輪車やトラックを作っとったんだけど、そこが急遽、兵器工場になったのよね。

99式歩兵銃という新型の小銃を作るとかで、鉄を高温で加熱してハンマーで叩いて加工する「鉄を鍛える」作業をしましたよ。
工場に行くようになったのが、7月の終わりか8月の始めのころだったと思う。
だから、終戦のほんの少し前だったんだよね。

その日も、いつも通りの朝でね。
ちょうど朝礼が行われていて、工場の3階の講堂に200名から300名ほどの学生が集まっていて、私は真ん中くらいの場所にいたと思う。
そしたら、突然ピカーッと強い光が走ってね。カメラのフラッシュをたいた時のようなものすごく眩しい光だった。そのあと、4、5秒くらい経ってから、ドカーンとものすごい音がして、
地響きと共に爆風が襲ってきたのよ。とっさにみんなうつ伏せましたよ。

地響きと共に爆風が襲ってきたのよ。とっさにみんなうつ伏せましたよ

米軍機より撮影したきのこ雲  (Copying photos without permission is prohibited.)無断使用はかたくお断りします。
米軍機より撮影したきのこ雲

8月6日午前8時15分 人類史上最初の原子爆弾が広島市に投下された
(撮影者:米軍 提供者:広島平和記念資料館)

窓ガラスが全部割れて、窓際にいた人たちは血を流していてね。天井も抜け落ちて、ぶら下がってましたよ。「空襲だ」と思って、しばらくじっと身を伏せてたんだけど、何の気配もなくて。そのうち「防空壕へ非難せよ」と号令がかかって、急いで、階段を駆け下りたよ。

爆発から40分後のきのこ雲  (Copying photos without permission is prohibited.)無断使用はかたくお断りします。
爆発から40分後のきのこ雲

呉市吉浦町(現在の若葉町)から撮影
(撮影者:尾木正己  提供者:広島原爆被災撮影者の会)

途中、階段から広島の街が見えてね。もうもうと煙が立ち上っていて。
あとで考えると、あれがあのきのこ雲だったんですよね。

真夏の防空壕は蒸し暑くて、ぎゅうぎゅう詰めなりながら、外を見ていたら…
目の前の国道を広島市街地の方からどんどん、どんどん人が連なりながら走ってくるのよ。
全身煤だらけの人、服がズタズタに焼け落ちた人、火傷だらけの人、はだしの人…
よろけたり、フラフラしながら必死に逃げてくるわけよ。
「何か大変なことが起きた」と思いましたよね。

しばらくすると、軍から命令が来てね。
「広島に大変な爆弾が投下された。元気なものは、全員救護活動に向かうように。」
「広島は大混乱となっている。すぐに出発せよ。」という事だった。
急遽、隊を組んで、市街地に向かって駆け足で行進して行きましたよ。

広島には市街地を見下ろせる比治山(ひじやま)という小高い山があるんだけど、その山に登って見下ろすと市街地は、一面火の海でしたよ。

炎上する広島市内  (Copying photos without permission is prohibited.)無断使用はかたくお断りします。
炎上する広島市内

(撮影者:松重三男 提供者:広島原爆被災撮影者の会)

「まずは大学に戻って救護せよ。」との命を受けて、頭から防火用水をかぶって比治山を駆け下りたんだけど、左右燃えさる火の海の中をとても越えられるもんじゃなかった。

再び比治山に戻ると、凄いことになっていてね。
比治山神社の境内前の広場が、負傷者で溢れかえっていて、足の踏み場もなくなっていて。
火傷の人、転がっている人、動かない人…もう、いっぱいで
「痛い」「痛い」「熱い」「熱い」とあっちこっちから声が聞こえましたよ。

太田川畔テント救護所(8月9日)  (Copying photos without permission is prohibited.)無断使用はかたくお断りします。
太田川畔テント救護所(8月9日)

(撮影者:川原四儀 提供者:広島平和記念資料館)

「水ちょうだい。」「水ちょうだい。」と言う人もいて。全身やけどの人たちは、みんな水を欲しがったよね。軍の人たちは「水を飲ませるなー。水を飲んだら死ぬぞ-。」と言うでしょ。
もう、何もできんのよ。黙ってみとることしかできんかった。

そのうち、たくさんの人たちが亡くなっていってね、亡くなった人たちを担いで、どんどんトラックに運ぶわけ。トラックは、亡くなった人たちであっという間にいっぱいなってね。
それを何回繰り返したかね、朝の10時頃から昼の2時頃までだったと思う。
4時間くらいだよね… あれは救護じゃなかったよね。

午後2時頃になると、広島の街はすっかり燃え尽くしていて、その足で学校に向かったよ。
学生や先生たちを一人でも探したかった。

でも着いた時には、ほとんど生存者はいなくて、わずかに焼け残っていた建物の中に入って、
亡くなった人を探し回りましたよ。

原爆が投下された広島高等師範学校一帯(昭和20年)  (Copying photos without permission is prohibited.)無断使用はかたくお断りします。
原爆が投下された広島高等師範学校一帯(昭和20年)

(撮影者:川本俊雄  提供者:川本祥雄)

爆心地から1.3キロと近かった。多くの学生が勤労動員先にいて難をのがれたが、
学校警備などで残っていた人たちが犠牲になった。
即死、数か月後以内に死亡した者 教職員19名、広島高等師範学校生及び
付属小中学校の児童・生徒47名   計66名だった

その時、一歩間違ったら、自分だったかもしれなかったと思ったよ。
というのも、この日、私たち理科第二部の学生は、防空要員として大学に待機する日になっていたんですよ。防空要員というのは、大学に残って、工場の仕事の休息日だったんですよね。

その日の朝礼で整列していた前の方から20名が、防空要員になったんですよね。

私はいつも必ず前の方に並んでいたんだけど、その日に限って用事があって、後ろの列にいたのよ。いつものように並んでいたら、犠牲になっていたのは自分だったって思うと、
自分の命はほんと紙一重だったんだなぁって思って。
同時に、亡くなった人に「すまない」という気持ちになりましたよね。

学校の道路向かいも、焼け出された人、被爆した人たちでいっぱいでした。
まだ救護所なんてないのよ。人々が逃げて集まってきたその場所が、にわか救護所になっていました。

原爆投下3日目の救護所(8月8日) 比治山・仁保地区  (Copying photos without permission is prohibited.)無断使用はかたくお断りします。
原爆投下3日目の救護所(8月8日) 比治山・仁保地区

火災を逃れた国民学校の救護所等で窓や壁にむしろを覆い、負傷者を収容した
(撮影者:陸軍船舶司令部写真班 提供者:広島原爆被災撮影者の会)

比治山・仁保地区の救護所(8月)  (Copying photos without permission is prohibited.)無断使用はかたくお断りします。
比治山・仁保地区の救護所(8月)

(撮影者:尾糠政美 提供者:広島平和記念資料館)

原爆投下2日目・火傷した女性(8月7日)  (Copying photos without permission is prohibited.)無断使用はかたくお断りします。
原爆投下2日目・火傷した女性(8月7日)

似島検疫所の火傷の女性
(撮影者:尾糠政美 提供者:広島平和記念資料館)

全身やけどや火傷で皮膚がめくれて垂れ下がっている人など重症の人も多くてね。
軍のトラックが来て、菜種油を積んだ一斗缶を落としていくのよね。その菜種油を布に浸して、一列に並ばせて次々に塗っていくんだけど、「痛い」「痛い」と言ってね。
あの声は、今も忘れられないですよね。

食べ物も、軍がトラックで生米を落としていったから、それを炊いて、おかずは、ナスやカボチャといったそこらの畑にあったものをドラム缶で炊いて配りましたよ。

日暮れになって、急遽、大学のグラウンドで亡くなった仲間たちを火葬することになってね。
近くから木切れを集めてきて、臨時の火葬場を作ってね。一ケ所ではとても足りなくて、三ヶ所、四ヶ所とつくって、その日のうちに仲間たちを荼毘にふしました。

自分たちだけの身内の火葬でしたよ。夜遅くまでかかって、夜の10時頃まで続けました。

本川国民学校校庭と思われる死体の火葬場(8月8日)  (Copying photos without permission is prohibited.)無断使用はかたくお断りします。
本川国民学校校庭と思われる死体の火葬場(8月8日)

爆心地近くの校庭で、付近の遺体が集められ荼毘にふされていた
(撮影者:川本俊雄 提供者 川本祥雄)

その時は、涙も出なくて、悲しいという感情も湧いてこなくて…
極限の状況というのかね。私もおそらく正常な感情を失ってたんでしょうね。

翌日からは、市街地の片づけにも当たりました。
街はことごとく破壊されていて、鉄塔は倒れ、路面電車は焼け焦げ、コンクリートの橋までもなぎ倒されていました。

原爆投下4日目・被爆した電車(8月9日)  (Copying photos without permission is prohibited.)無断使用はかたくお断りします。
原爆投下4日目・被爆した電車(8月9日)

救護のため爆心地に向かう人々の姿も見られた
(撮影者:岸田貢宜 提供者:岸田哲平)

原爆投下2日目・爆心地から500メートルの広島商店街   (Copying photos without permission is prohibited.)無断使用はかたくお断りします。
原爆投下2日目・爆心地から500メートルの広島商店街
(紙屋町・本通地区・8月7日)

倒れた鉄塔やコンクリートの下には死体があり、死臭がただよう最もひどい惨状の地だった。
(撮影者:岸田貢宜 提供者:岸田哲平)

燃え残った煙がまだあちこちでくすぶっていて、街はまだ熱を帯びている感じでした。

広島という街は、太田川のデルタ地帯にいくつもの川がはりめぐらされている水の街なんですよ。その川が、たくさんの人たちの死に場所になったわけでしょ。

水を求めて川に飛び込んで、次々と亡くなっていったかと思うと、たまらん気持ちでしたよね。

焼け落ちた広島市  (Copying photos without permission is prohibited.)無断使用はかたくお断りします。
焼け落ちた広島市

右側に広島産業奨励館(原爆ドーム)川は元安川
(撮影者:林重男 所蔵者:広島平和記念資料館)

今にして思うと、あれが原爆による凄まじい爆風と熱線、放射線によるものだったのだと…
言葉ではとても言い尽くせない、惨い光景でしたよ。
あれはほんとうに、この世の生き地獄だったと思います。

田中さんが、鹿児島に帰れることになったのは9日の朝でした。
大学の臨時の炊き出し場で、にぎりめし一つもらって出発。
福岡から先の鹿児島本線はズタズタに寸断されていて、途中、野宿したり、農家の人に米を炊いたりしてもらいながら、実家を目指しました。こうして帰り着いたのが14日の早朝。

終戦の日の前日のことでした。

生きるか死ぬか分からない状態だったから」

鹿児島に帰り着いた時は、「とにかく生きて帰れた」 ただそれだけでしたよね。
終戦の知らせを聞いた時は、「正直、ホッとしたなぁ。戦争がすんだ。これで終わった。
ホッとしてグタッとなったなぁ。生きるか死ぬか分からない状態だったから」

それは、極限の緊張感から解放された心の底からの安堵感だったのかもしれません。

最後に、田中さんは、母親との思い出を語って下さいました。

広島に大変な爆弾が落とされたという情報は両親の元にも届いていて、とても心配していたみたいでね。そしたら、同級生でいつも行動を共にしていた同郷の原口くんが一足早く鹿児島に帰ってきて、私が帰ってこなかったもんだから、お袋は、「ダメだったんだ」と思って、原口くんの家を訪ねたそうですよ。

そして家の縁側に立ってた原口くんに
「原口さん、大丈夫やったね。よかった。よかった」って精一杯の労いの声をかけたそうですよ。
そうしたら、原口くんがニコッと笑ったそうなんです。

そして「義巳くんも、今日か明日中には帰ってきますよ」と。
あの時ほど嬉しかった事は無かったと。のちに母が、涙ながらに話してくれました。

私は、一人っ子だったですからね。あの時は、自分のことだけで精いっぱいだったけど、
親にずっと大変な心配をかけとったんですよね。

それまで終始、冷静に話して下さっていた田中さんの目頭が熱くなり,涙が流れました。

私は、一人っ子だったですからね。 それまで終始、冷静に話して下さっていた田中さんの目頭が熱くなり,涙が流れました。

【おわりに】

田中さんは戦後、高校の化学の教師になりました。

結婚し2人の子ども、3人の孫にも恵まれました。
しかし友人の中には、原爆の熱線による大火傷で何度も皮膚移植をした人、原爆後遺症で入退院を繰り返しながら、その後の生活を送った人もいました。

「ヒロシマの話は、誰にも詳しくは語らんかった。思い出したくなかった。
でも、これは語っておかんとと思うようになった。やっぱり語っておかんと。」
戦後72年。自らの心の整理のために、閉ざしていた口を開いてくださいました。

「当たり前のことだけど、ほんとにあんな残虐でバカなことは絶対したらいかん。」
その声は、いっそう強く厳しいものでした。

【お願い】

記事の中で紹介した原爆関連の写真は広島平和記念資料館が所蔵する平和データベースより許可を得て、使用させていただいています。写真の無断使用は固くお断りします。
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投稿者: てのん記者