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「生き方」

障がい児教育の生みの親・大坪敏夫さん① 子どもたちとの触れ合い物語


執筆者:

かつて同僚から「仏さぁ」と呼ばれていた先生がいました。

まだ日本で障がい児の教育が、じゅうぶんに理解されていなかった時代にその道一筋に心を傾けてきた大坪敏夫さん。

94歳になられた大坪先生に、子どもたちとの出会いと触れ合いの日々を伺いました。
まだ日本で障がい児の教育が、じゅうぶんに理解されていなかった時代にその道一筋に心を傾けてきた大坪敏夫さん。

私の時代はね、日中戦争、太平洋戦争と次々に戦争が続いてね。二十歳になれば兵隊に行って戦死する。それが男の使命、男の名誉と思って育ってきたでしょ。

私も二十歳まで生きれば良いと思っていたのね。しかしね、人生というのは分からんもんですね。
あれからもう70年以上ですよね。長いですよね。

一番嬉しかったこと? それはやっぱり、戦争が終わった時だったかな。
あぁ、これで死なずにすんだ。これで教師ができるって思ったですもんね。

ただ亡くなった戦友への申し訳ない気持ち、軍人としての責任…
複雑な思いが入り混じっていましたよね。

天からもらった命

昭和21年 谷山北中学校時代(大坪先生は左端)まだ軍服姿でした。
昭和21年 谷山北中学校時代(大坪先生は左端)まだ軍服姿でした。

昭和21年 谷山北中学校時代(大坪先生は左端)まだ軍服姿でした。

復員して、念願の新制中学校の国語の先生となり、大坪さんの戦後が始まりました。

当時、21か22でしょ。張り切っていてね。教頭先生!校歌を一緒に作りましょう。校章も制服も考えましょう、と言ってね。学芸会で地域の人たちも踊れるような音頭も作ったりしたですよ。歌詞を考えて、音楽の先生に曲をつけてもらってね。しっかい勉強もさせんなって。宿直の晩には、子ども達を呼んで、読み書きを教えたりしてしてね。よ~し!こっから進学校に一人でも多く入るっぞー!ってね。エリート教育の始まりですかね。

親御さんから、進学の神様って言われた時代もあってね、それが私の生きがいでもあったんですよね。

天使たちとの出会い

戦争が終わって8年が経ったころ、大坪さんの人生を大きく変える出来事がありました。
鹿児島の中学校に初めて特殊学級が作られることになり、その担任を任されることになったのです。特殊学級の子どもたち16人との出会いでした。

最初は、もうびっくりすることばかりでね。国語の最初の授業で、黒板に富士山の絵を大きく描きながら和歌の話しを始めたんですよ。みんなじーっと聞いてるんです。

ところが説明が終わった途端、『先生。さっきから金魚がアップアップしているよ。水をかえてこようか』って。これには困りましたよね。私の話よりも目の前にいる金魚が苦しそうなのが気になって仕方がなかったんですよね。

あの頃は、障がい児教育の手引書も、それを教えて下さる大学の先生もいなくて、ほんとうに何もない。手さぐりで試行錯誤の毎日でしたよ。
大坪先生が、一冊の本を見せて下さいました。34年前に出版された大坪先生の書かれた本でした

大坪先生が、一冊の本を見せて下さいました。

それは、今から34年前に出版された大坪先生の書かれた本でした。
戦後の復興期、教育環境が整っていく中、普通クラスに馴染めない、ついていけない子どもたちが取り残されていました。

歩きはじめた小さな天使たち~歩きはじめた小さな天使たち~
鹿児島教育出版(現在・沖縄教育出版)

障がい児教育の草創期、大坪先生とその子たちと、悩み、泣き笑いしながら共に、手を携えながら生きてきた実践の記録でした。

とり  小学部 まさみ
とりがとんでいる
空の上を スッーっと ななめに
自分のかんかくをとって とんでいる
えさを見つけたのかも
とても とても うれしそうだ

本は、そんな詩から始まります。

大坪先生が懐かしそうに振り返ります。

大坪先生が懐かしそうに振り返ります。
「歩きはじめた小さな天使たち」の挿絵より「歩きはじめた小さな天使たち」の挿絵より
「歩きはじめた小さな天使たち」の挿絵より「歩きはじめた小さな天使たち」の挿絵より

小学校のころから学校でものを言ったことがない女の子がいてね。その子には、いつの間にか
お地蔵さんというあだ名がついていました。お家ではお話が出来るのに、学校では一言も喋れない。

「よーし。いけんかしてこの子にものを言わせてみよう」
にっこり話しかけてみたり、自信をつけさせようと、できそうな問題を解答させたり、日記で対話をしてみたり。

すると一か月ほど経って、日記に「先生。明日から教室でものを言います。」と書いてきたんです。でも、やっぱりダメなんですね。

そこで、宿泊キャンプの時、まぁるくなって、順々にみんなの知っている歌を歌う事にしてね。女の子は、顔を真っ赤にして体は震えています。

いよいよその子の番になりました。真っ赤になってモジモジしてるんですね。『はい』って背中をポンと叩いたら、ひったまがって(ビックリして)…思わず「この道は~いつか来た道~♪」と歌い出したんです。きれいな声でしたよ。

「歩きはじめた小さな天使たち」の挿絵より「歩きはじめた小さな天使たち」の挿絵より

みんなもびっくりですよね。でも、それがもとで、ものが言えるようになったんです。
お地蔵さんのあだ名も無くなりました。

その子は、就職するころには、すっかりものが言えるようになっていて、お菓子屋さんに就職していきました。嬉しかったですよ。これは普通学級では味わえない。受験生の合格より嬉しかったですよね。

「歩きはじめた小さな天使たち」の挿絵より「歩きはじめた小さな天使たち」の挿絵より

かばさんと言われていた子もいましたよ。いつも鼻水を垂らしてね、口を開けてるんですよね。普通学級ではかまってもらえてなかったんですね。

それで、うちの学級にくいやい(下さい)と言ってね。よーし、せめて平仮名だけでも覚えさせようと思って。この子は海岸で千鳥を捕るのが上手で、放課後二人で海岸に出て砂の上に「ち・ど・り」と書いて字を書く練習などもしたりしてね。

障がいが重かったから職探しは難儀してね、放課後、日暮れまで歩き回って「一週間でもいいから」との約束で、やっと瓦屋さんに就職できたんですね。すると一週間が過ぎた時、そこの社長さんが「先生、あん子は良かど」って言うんですよ。聞いたら、ある晩、夜回りしていたら、工場の2階でカサカサ音がする。

「歩きはじめた小さな天使たち」の挿絵より「歩きはじめた小さな天使たち」の挿絵より

上がって行って見ると、かばさんが月明かりの下で、せっせとセメント袋を重ねる作業をしてたって言うんです。その日、工場長が「もう帰れ」と言い忘れて帰ってしまったみたいなんですね。

「歩きはじめた小さな天使たち」の挿絵より「歩きはじめた小さな天使たち」の挿絵より

自分で仕事を見つけてすることは難しいが、かげひなたなく働こうとする清らかな心が神さまみたいだって、言ってくれてね。
この子の良さを分かってもらえたようで嬉しかったですよね。

クラスの友達が、3+3を5と言えば、

「おしーい、もうちょっと、もうちょっと」とくやしがる心のやさしい子どもたちです。

教室の小鳥や金魚が死ぬと、墓石を建てて、「なむあみだぶつ」と手を合わせ、

全校が雪のため臨時休校になった日も、じゅうしまつがおなかがすいてかわいそうだ、と

えさを持って登校してくる子どもたちです。

人を疑うことを知らず、骨惜しみのできない子どもたちです。

ものめずらしげに、窓からのぞいていた普通学級の生徒がひっくり返したたんつぼを、

だまってふいている子どもたちをみていますと、「この子らを世の光に」という言葉が

実感となって、私自身の心が洗われるような気がするのです。

この美しい心を、大切に育ててゆきたいものです。

「歩きはじめた小さな天使たち」の挿絵より「歩きはじめた小さな天使たち」の挿絵より

「歩きはじめた小さな天使たち」より
鹿児島教育出版(現在・沖縄教育出版)

 

かばさんとの再会

道を歩いていると後ろからブーブーブーブーって音がするんです。
見るとバキュームカーに乗っているかばさんなんですね。

「先生、先生、仕事を変わったけど、良かよね。前の社長が死んだら、みんなが僕の事を
バカにするようになって、こん仕事に変わった。こん仕事は、給料も高いし、良かど~」って。
「良か、良か。大事な仕事やっでキバレ」そう声をかけて別れました。

それが、かばさんと会った最後でしたね。
それからしばらくして脳いっ血で亡くなっていました。
人間は与えられた運命というものがありますよね。
与えられた運命の中で、他人に迷惑をかけることなく、精いっぱいに働き続けたかばさんを尊いと思いましたね。

「為せば成る」と言う言葉ありますが、あれは言葉としては素晴らしいのだけれど
何か空虚に感じますよね。

かばさんは私がどんなに一生懸命読み書きを教えても、それはできるようにはならなかった。私は特殊教育で「為しても成らないことがある」ことを学びました。
でも「為しても成らない子どもたち」から、いくつものことを教えられてきた。
これは尊いですよね。

3年のつもりで就いた仕事が、いつの間にか30年を越えていました…

みんなと同じようなことはできないけれど、
どの子にも、その子なりの特性と能力がありましたよね。

その特性をしっかり見て、最大限に伸ばしていく
これが私の仕事になり、生きがいになりました。
与えられた命を精一杯に生きる…

そのことを教えてくれたこの子たちとの出会いは、
私にとって天命だったと思いますよね。

先生は、本の中でこう語っています。

かごしま養護学校の子どもたち 「歩きはじめた小さな天使たち」より かごしま養護学校の子どもたち 「歩きはじめた小さな天使たち」より

 

かごしま養護学校の子どもたち 「歩きはじめた小さな天使たち」より

ぜんざいは大部分が砂糖ですが本当に少しの塩でいちだんとその味がひきたってきます。
この世の中で例えるなら、大部分の砂糖は健常児で、ちょっぴりの塩が心身障がい児にあたる
のかもしれません。

いつも何かを私たちに教えれてくれる天使のようなこの子どもたちを見ていますと、
教師は天の塩のあずかり人として、塩は塩なりの味になるように育ててゆかねばならないと思うのです。

「歩きはじめた小さな天使たち」より
鹿児島教育出版(現在・沖縄教育出版)

「歩きはじめた小さな天使たち」より 「歩きはじめた小さな天使たち」より

次回は、大坪先生の大切にしてきたこと
そして94歳の今をお伝えしたいと思います。

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