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「歴史」

戦争体験vol.2空襲、日常の暮らし、子どもがみた戦争を画に残しておきたい


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戦時中の印象深い出来事や暮らしの様子

野﨑さんは、60歳の頃から、戦時中の印象深い出来事や暮らしの様子を、こつこつと描き続けてきました。その数は、60枚を越えます。そんな野﨑さんに、ご自身の絵を見ながら、当時の体験を話していただきました。

山の向こうが真っ赤

これはね、昭和20年の6月17日、鹿児島大空襲があった夜の絵。ぼくは、国民学校(現在の日置市東市来町の湯田小学校)の3年生、9歳だった。

ちょうど寝た頃だったね。空襲警報のサイレンが鳴ってね、枕元に防空頭巾と、薬やら三角巾やら入れた袋を置いとったから、それを持って、300メートルくらい離れた防空壕に向かって国道(現在の国道3号線の旧道)を、母親と妹と走って逃げた。もう必死よな。

山の向こうが真っ赤で、探照灯の光が揺れて、時々高射砲が光るのが見えるのよな。母親が「鹿児島がやられとる!」て叫んでな。怖かったよ。ごぉーりごぉーりって、すり鉢で大豆をするような音がしてな。怖かった。

機体の星のマークやら乗っとる人の頭やら見えてね

終戦前(昭和20年の7~8月)になると、アメリカの戦闘機が低空を飛んでくるようになった。空襲警報のサイレンがなって、逃げろーって言われて、90のばあちゃんをリヤカーに乗せてね、近くの川の竹やぶに隠れた。

機銃を撃つのよな。バリーッていってね、雷みたいな音がするのよ。機体の星のマークやら乗っとる人の頭やら見えてね。ぼくは撃たれんかったけど、湯之元駅が撃たれた。友達と川で遊んどる時にも来て、あわてて水にもぐって頭だけ出してね、隠れたよ。

湯之元も空襲があった
火が見えて怖くなって逃げとったんだけど
あんまり怖い思いをしとったもんだから

終戦近く、湯之元も空襲があった。昼だった。油をバーッてまいて、焼夷弾を落として、飛行機はすぐいなくなってね。火の色が違ってるのよ。オレンジっていうかピンクっていうか、変わった色でね。

火が見えて怖くなって逃げとったんだけど、家が燃えとらんか心配でもどってみたら、家は大丈夫だったからね、燃えとるほうに行ってみたら母親がバケツリレーで火を消しとってね、どこ行っとったかーち怒られてね。なんか言おうとするんだけどね、あんまり怖い思いをしとったもんだから、口は開くんだけど、声が出らんのね、ショックで。火が消えてから焼けあとを歩いとったら、同じ集落のおじさんが飼っとった馬が、体中大やけどをしていてね、目も開かんくなって。このままじゃ痛くてかわいそうだからって殺されてね。かわいそうやった。

空襲の後、田んぼの中でからの油タンクを見つけてね

空襲の後、田んぼの中でからの油タンクを見つけてね。アメリカの飛行機が捨てたんだろうね。英語が書いてあって。初めて見たからね、これが敵の字かぁと思ってね。

夏は裸足で冬はわらじ

戦争中は、ゴムとか物資は入ってこんし、靴なんかないのよな。みんな、夏は裸足で冬はわらじ。冬は冷たくてな、しもやけができて。朝早くから立木を棒でたたく訓練があって。朝礼では直立不動でいると、霜がとけてわらじに水が滲みてね。栄養状態が悪いから、バターッて、倒れる子がおったよ。ぼくも倒れてね、おやじが迎えに来てくれて、自転車の後ろに乗って帰ったよ。

そのころは、陶器の湯たんぽにタオルを巻いて布団に入れてもらうのが一番うれしかったね。


学校には、校庭に穴が掘ってあってね。空襲警報が鳴ったら逃げる

アメリカの爆撃機

学校には、校庭に穴が掘ってあってね。空襲警報が鳴ったら逃げる。爆弾で目や耳をやられんように、親指で耳の穴をふさいで残りの指で目をおおって、伏せる訓練もしたよ。アメリカの爆撃機を見上げるときらきらしてね、こわいんだけど、きれいだなぁと思ったね。

甲種合格をもらった人はうれしそうだったね

当時の男の子のあこがれは、兵隊さん。

湯之元の旅館で徴兵検査があってね、若いお兄さんたちが泊りがけで来て、ぼくたちは手を振ったりしてね。甲種合格っていうのが一番いいんだけど、甲種合格をもらった人はうれしそうだったね。

戦争についての新聞記事を切り抜いたり

あの頃は子供だったから、戦争の詳しい事情はわからんかった。大人になってから、戦争についての新聞記事を切り抜いたり、自分で調べたりしてわかってくるとね、あぁ、自分は生かされてるんだなぁと思うのよね。戦争が続いとったら吹上浜にアメリカ軍が攻めてくる作戦があったんだからね。僕も死んどったかもしれん。

戦争では、兵隊さんや、沖縄や広島や長崎や、水も飲めんで死んだ人がたくさんおるわけよね。その人たちのことを思ってね、月に一度、遠見番山(日置市東市来町)に登って、ここに自分の決めた石があってね、それに水をかけて祈るのよね。

ここは、吹上浜や海が遠くまで見えるから、亡くなった人たちに水をあげるつもりでね。自分は、生かされてるんだから、戦争のことをちゃんと伝えんといかんなぁと思う。

 

取材を終えて

子どもの目で見た戦争を残したい、伝えたい、その一心で絵を描いてきた野﨑さん。終戦の年の自分と同い年の、母校の湯田小学校の3年生に、自作の絵を見せながら、戦争中の暮らしや体験を話す活動を続けてきました。

あの頃の自分と同じように、心に深く留めてくれるはずだとの思いからです。奥様も、子供たちが理解しやすいようにと、「もんぺ」のミニチュアを手作りしてサポート。高校生になった当時の児童が、野﨑さんへの思いを作文にして優秀作品に選ばれるという、うれしい知らせも届いたそうです。

「もんぺ」のミニチュアを手作り

野﨑さんは昨年大きな病気をして、体力の衰えを感じています。でも、まだまだ描きたい絵がたくさんある、遠見番山へ祈りに行くことも出来る限り続けたいとおっしゃいます。取材中何度も口にされた「生かされてるんだから…」という言葉。その思いが、野﨑さんの原動力になっているのだと感じました。

野﨑さんのお話を伺いながら、私の父も鹿児島大空襲の体験者であることを思い出しました。あのとき父が亡くなっていたら…。

私もまた「生かされている」のかもしれません。

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