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「歴史」

戦争体験vol.4ひとりで中国へ。帰国後は鹿児島で空襲も体験


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1941年12月8日、太平洋戦争が始まりました。3年9か月に及ぶ戦争では、多くの人が命を落としました。

今日はそんな時代を生き抜いた、鹿児島市の朝倉田鶴(たづ)さんにお話をうかがいました。

戦争はやったらいかん、あったらいかん
朝倉(あさくら)田鶴(たづ)さん(97歳)

朝倉田鶴さん朝倉田鶴さん

朝倉田鶴(たづ)さんは、大正11年3月10日、奄美大島の名瀬で生まれました。当時、3月10日は陸軍記念日で祝日。田鶴さんのお父さんは、そんな日に生まれた田鶴(たづ)さんを、期待を込めて育てたそうです。

「父は厳格でね、日露戦争を伍長で戦った人よ。3月10日ていえば、あの頃は陸軍記念日。生まれたのは男て思いこんどったみたい。大島紬の商人をしていてね、うち(私)が小学校6年くらいの時には、店を持たせるつもりで勝手に家を作ったんだよ。」

朝倉田(た)鶴(づ)さんは、大正11年3月10日、奄美大島の名瀬で生まれました。先生の左が朝倉さん

物怖じしない、好奇心旺盛な女性に育った田鶴(たづ)さん。昭和15年春、18歳の時に縁談がありましたが納得できず、相手の男性が出征している中国・北京に行って直接断ろうと、船でまず神戸にでかけました。

「弟が大阪におったから、親には弟に会いに行くって言ってね。そしたら相手の人は、縁談があると知った部隊長の計らいで神戸に来とったの。神戸にいる親戚たちは、ここで結婚式をしようって言ってくれたけど、うちはね、せっかく久しぶりに日本に帰ってきたんだからお母さんに会ってきなさいよと言って、相手の人を名瀬に帰してね、自分は預かっとった切符で先に中国に渡ったの。若いから、結婚がどうっていうより、北京に行って、中国の若い娘さんのきれいなチャイナ服とか見てみたかったのよね。」

ところが中国の港に着いてみると、人々は皆、紺や黒の地味な装いで、想像していたのとは大違い。戦争の影響だと現地の人に聞いて、驚いたといいます。

その後、天津の親戚の家に身を寄せ、しばらくして縁談の相手が迎えに来ますが、ちょうど所属する部隊がビルマへ異動することに。ついに結婚することなく、駅で別れました。そして田鶴(たづ)さんは、中国に残る決断をします。

「あの人がね、うちの身のふり方はうちに任せとってって、知り合いに頼んでいったみたいよ。感心ね。日本に帰るなら手続きしてやるぞと言われたけど、就職があれば働きますって言って、軍馬や軍用犬の血清注射液を作る部隊の、試験管なんかを洗う中国の女の子たちの監督をすることになったのよ。」

田鶴(たづ)さんは、5,6人の若い中国人女性を部下として監督していましたが、ある時一人が、盗みを働いてしまいました。会話をすることは固く禁じられていましたが、田鶴(たづ)さんは理由をたずねてみました。

すると、病気のお母さんに肉を食べさせたかったからとの返事。衝撃を受けた田鶴(たづ)さんは思い切った行動に出ました。

「禁じられてるのによ、その子の家に肉を持っていこうと思って。市場に行って、一番ピンクできれいな肉なら新鮮だがと思って、よくわからんのに買ってね、会いに行ったのよ。

その子はびっくりしてさ、お母さんは私をにらみつけてね。怒られるかと思ってね。うちが、お母さんが病気だっていうからお肉を買って持ってきたって言ったら、そりゃあもう喜んで喜んでね。」

これが縁で、その娘さんと仲良くなり、週に一度のお休みの日には密かに会って話をしたそうです。

「あるときね、その子が『明日、日本軍が仕立てた無料の汽車が出るらしいから、日本に帰ってお母さんに会ってきたら』っていうのよね。まだ帰らんでいいよっていうのに、『悪いことは言わんから。仕事はちゃんと責任もってやっておくから。』て言うのよね。うちの家まで来てさ。今思えば、遠回しに逃げろってことだったのよね。人間、愛情を持って接していれば、敵味方ないのよね。」

部下の娘さんたちは、隠れて駅まで見送りに来てくれたそうです。

朝倉田(た)鶴(づ)さんは、大正11年3月10日、奄美大島の名瀬で生まれました。

こうして昭和20年4月、田鶴(たづ)さんは鹿児島に帰ってきました。途中釜山では、乗るはずだった船が沈没して2日ほど足留めされ、ここから送った荷物が手元に届くことはありませんでした。

田鶴(たづ)さんは、また中国に帰るつもりで、とりあえず伊敷の姉のところに身を寄せました。物資も食料もなく、国民服やもんぺ姿の人々を見て、ほんとうにここが日本だろうかと思ったといいます。そして、戦争の現実を見せつけられる出来事に遭遇します。

「上荒田の親戚に会いに行こうと思って、柿本寺のホームで電車を待ってたら飛行機が飛んできてさ、特攻隊だと思って頑張ってこいよーて言ってハンカチ振ってたわけ。そしたらばばばばーって機銃掃射。男の人が敵機だあーっにげろーって言ってね。もうどうやって逃げたか覚えてない、西田橋の下からずぶ濡れになってでてきたのは覚えてる。」

命からがら親戚宅にたどり着いた田鶴(たづ)さん。翌日親戚と一緒に柿本寺の電停に行ってみました。そこには、爆弾で大きな穴ができており、遺体や、腕時計をはめたちぎれた腕が残されていたそうです。

「かわいそうに、罪もないのに。腹が立ってきてね。夢中で新上橋のほうに行ってみたら、爆弾が城山にあたって、崩れた土が防空壕の入り口をふさいで、逃げとった人たちが中でたくさん窒息死したらしい。みんな濃い紫色になってね、男も女もわからない。川の土手には棺桶が何百て積んであった。誰々の家族はいるかーっていう警防団の人の声が聞こえて。体が震えたよ。今でも目に浮かびますよ。」

鹿児島市の記録によると、この空襲は昭和20年4月8日午前10時30分頃から、空襲警報の発令もないまま突然始まりました。大型250キロ爆弾およそ60個が落とされ、田上、騎射場、平之町、加治屋町、東千石町、新照院町などから火の手が上がり、電車も柿本寺‐高見橋、騎射場‐鴨池、二軒茶屋‐脇田間で被害が出ました。死者は587人、負傷者は424人にのぼったそうです。

田鶴(たづ)さんは、奄美に帰りたくて港で船を待ったこともありますが、敵の攻撃にさらされた金十丸(奄美と本土を結んでいた船)から、筵(むしろ)に包まれた遺体や、疲れ果てたけが人が降りてくるのを見て断念し、知り合いを頼って湯田(現在の薩摩川内市)に疎開。終戦もここでむかえました。

「戦争は、やったらいかん。あったらいかん。組織なんて信用ならんよ。言う通りにしとったらだめ。(当時は)中国人のことを悪く教えおったけど、行ってみたらそんなことない。陸軍やら海軍やらが意地にならんで、早く戦争を終わらせていたら、空襲で人も死なんですんだ、国も焼かれんですんだんですよ。」

97歳の今でも、世の中の出来事に関心を持ち、自分なりの考えを持っている田鶴さん。持論を交えながら熱心に体験を語って下さいました。戦地で傷を負った体験を持つ弟さんを亡くされたばかりで、生きていれば弟からも話をきいてほしかったと残念そうにおっしゃいました。

97歳の今でも、世の中の出来事に関心を持ち、自分なりの考えを持っている田鶴さん

太平洋戦争が始まって今年で76年。ひとり、またひとりと少なくなっていく体験者の声に耳を傾け、記録していくことが、待ったなしの仕事であることを痛感しました。

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